スクレイピング・ユア・ハート ― Access to SANUKI ―

あざな あや

私という物語の始まり

 物語の始まりなんて、なんでもよかった。

 偉人の言葉を引き合いに出して、壮大な問題を提起する冒頭が描けない。洒落た言い回しを使って、心踊るプレリュードのような幕開けが描けない。ああ、描けない。とにかく、描けないの。

 一般教養が足りないとか、センスがないとか、そんなんじゃない。

 ただ、平坦。二十三年生きた人生に山も谷もない。

 一般的な都内の中流家庭に産まれ、すくすくと成長し、苦難なく小中高大を卒業。

 特に研究したいこともないが、働くのが嫌で大学院へ。研究生活の中で平均くらいの能力を身につけ、今でもゆるゆると日常を謳歌している。

 そんな人間が想い描く物語だ。たとえ始まりを豪華絢爛にしたところで、面白くともなんともない。

 だから、始まりなんてなんでもいいん『そんなことないわ』

 ……そうかしら。それなら、もう少し頑張ってみ「お願いだから止まって、止まって!」

 ……どっちよ。

 これは、寝る前にするちょっとした妄想。クラスを占拠した悪漢を一人でやっつける、みたいなもの。

 目を瞑っているのだから周囲は真っ暗だし、私以外の声が聞こえるわけ「先輩!先輩!しっかりして!」

 うーん。うるさいわね。

 聞き覚えがある女の子の声。少しガサついていて綺麗な声音ではないのだが、なぜか心地よくて、落ち着く。

 ……寝る前に聞く、ちょっとえっちなASMRの切り忘れね「先輩!?」。面倒だけど一度起き『ダメよ』


 身体がビクン、ビクンと震える。


 表面上は高潔な雰囲気を纏っているものの、ねっとりとした厭らしさが滲みでて、根底にある魔性を隠しきれていない女性の声。

 今まで一度も聞いたことがない。声の主なんて知るはずがない。それでも狂しいほど切なく、堪らないほど愛おしい。

 そんな声が全身を駆け巡り、電撃のような痺れとなって身体を激しく愛撫したのだ。

 『貴女の全てが欲しいの』

 唐突に発せられた媚薬のような愛の囁きに、動悸が早くなって頬が火照る。恋愛感情に近い心の昂りが瞬く間にニューロンを焼き焦がして、身体にむず痒い疼きを与えた。

 『貴女は快楽の熱で、ドロドロに蕩かされていく』

 そう告げられると、容赦ない快感が次々と身体に打ちつけられ始めた。

 堪らず身を捩ろうとするが、金縛りに遭ったように手足が動ない。舐めしゃぶられるように身体中が犯され、許しを乞うことすらできない。ただ一方的にジュクジュクとした甘ったるい快楽の波が全身に蓄積していく。

 やがて許しを懇願することさえ忘れ、頭の中が真っ白に染まってしまう。もう耐えきれない、決壊してしまう。

 『そして、深く深く流れ落ちていく』

 そのタイミングを見透かしたように、許しの言葉が告げられる。同時に、心の器が壊れ、溜め込んだ全ての快感が濁流のように全身を駆け巡った。

 意識が何度も飛びそうになって、頭のチカチカが止まらない。獣のように声にもならない嬌声をあげながら、やり場のない幸福感に身を委ねて甘く嬲られることしかできない。何もかもがどうでもよくなる程、気持ちがいい。

 永遠に思えるような幸福な時間を経て、すぅっと暴力的な快楽が引いていくのを感じた。代わりに、深い陶酔の中へ身体が沈み始める。

 そして、自然と強張っていた身体から力が、いや、もっと大切な何かが抜けていく。でも危機感はない。

 たとえ声の主が猛獣で、彼女に捕食されている最中であっても、私は目を開けず身を任せてしまうだろう。

 ゆっくりと身体の輪郭が曖昧になり、呼吸が浅くなっていく。意識が朦朧として何も考えられない。ただ、恍惚たる快楽の余韻に浸りながら、彼女の言葉の通り深く深く、流れ落ちていく。

 『おやすみなさい、愛しい貴女』

 赤ん坊に語りかけるような優しい声音で別れが告げられる。そして、私の意識はブレーカーが落ちたようにプツンと切れた。

 遠くからぼんやり響いた悲痛な叫びは、もう私に届くことはなかった。


 ***

 

 もしあたしにインタビュー取材依頼がきて、最も影響を受けた人物を聞かれたら、間違いなく先輩と答えて彼女への想いを語り続けるだろう。

 コラム執筆依頼がきたら必ず先輩の金言を引き合いに出して最高のポエムに仕上げるし、ラジオに生出演したら「いぇい、先輩、聴いてるー?」が第一声と決めている。

 現に初めて受賞した大きなイラストコンテストの授賞式の挨拶では、会場にいない先輩に向けて感謝の気持ちを述べた。それほどまで、高校で先輩と過ごした二年間はかけがえのない宝物だったのだ。

 だから、あたしという物語の始まりは必ず先輩との思い出を引き合いに出すと決めている。

 そんな小っ恥ずかしいことを寝巻き姿で平然と考えてしまう程、あたしこと讃岐詩音は浮かれていた。

 なんせ今日は先輩と四年ぶりの再会である。

 窓から差込む小春日和の暖かな日差しが、今日という素晴らしい日を祝福しているようにも思えた。


 「詩音、朝ごはんできてるわよー」

 「うん」

 一階から聞こえたママの呼びかけに応じる、蚊の鳴くような声。自分のガサついた地声が嫌で、どうしても声量が小さくなってしまう。

 おそらくママには聞こえていないので急いで自室から出て階段を降り、リビングに移動する。閑静な高級住宅街に建つ一軒家に相応しくないドタバタ音が鳴り響いた。

 「危ないからゆっくり降りてきなさいって言ってるでしょ」

 ママのお小言に無言で頷きながら、焼きたてのバターロール一個とコップ一杯のスープをテーブルに運ぶ。いつものご機嫌な朝食だ。

 「バターロールもう一個食べない?消費期限今日までなの」

 ママの問いかけに対して首を横に振って拒否した。少食なあたしにとって、朝の食事はこの量が限界。これ以上摂取すると移動の際に嘔吐しかねない。

 「高校でバスケやってた時はもっと食べてたのに。ママ心配よ」

 そう言われてしまうと気まずいが断固としてNOだ。先輩との大切な再会をあたしの吐瀉物で汚したくない。

 話題を逸らすためテレビをつけると、ニュースキャスターが神妙な面持ちで原稿を読み上げていた。

 「横浜市のアトリエで画家の東堂善治さんが倒れているのが見つかり、病院に搬送されましたが意識不明の重体です」

 たしか、以前参加したコンテストの審査員だったような。国際美術祭で油彩画を見たような。あと生成AI関連で裁判がうんたら。

 「東堂さんは世界的に権威のあ……また、スポンサー契約を交わしていたFusionArtAI社に対して訴……捜査関係者によると奪われた絵……」

 ニュースの内容を聞き流していると、概ねの内容は記憶と合致していた。どうやら、高校を卒業してから勉学の道には進まず、創作活動に勤しむようになったあたしの記憶力はまだ健在らしい。少しだけ、ホッとした。

 「最近物騒ね。よく聞く闇バイト強盗かしら。ほら、この前も水墨画の先生が殺されたじゃない。詩音も今日のおでかけ、気をつけなさいよ」

 「ん、気をつける」

 ママを心配をさせないために少しだけ大きな声で返事をして、深く頷いた。

 食事を終えた後、アイロンがけされた一張羅に着替えて身なりを整え、先輩が待つ喫茶店へ向かった。

 

 ***

 

 ――――ちょうど三週間前のこと。

 本業のデジタルイラストの息抜きとして始めた水彩画にハマりにハマって、気がつけば丑三つ時。ふと先輩の顔が頭に浮かんだのだ。

 丸筆とパレットを置いてから勢いよくベッドにダイブして寝転がり、流れるようにエプロンのポケットからスマホを取り出す。

 先輩はSNSを実名で登録するタイプではない。それでも広大なネットのどこかに先輩の足跡みたいなものがないか、淡い期待を抱いて名前を検索してしまう。

 そんな自分がちょっと気持ち悪い。

 自己嫌悪に陥りつつ検索結果を眺めていると、思いもよらない見出し文を見つけたので間髪入れずにタップした。


 「情報システム工学専攻修士1年生の丸亀飛鳥さんが、AIによる雛の雌雄鑑別システムに関する研究で人工知能技術学会最優秀論文賞を受賞しました」


 ゆっくりとスクロールしながら情報を集める。やがて研究室のホームページに掲載された集合写真にたどり着く頃には、これが先輩の記事であることを確信した。

 ……正直言って自分がだいぶ気持ち悪い。

 「やっぱり先輩はすごい。うん、とてもすごい人だ」

 先輩の活躍ぶりに足をばたつかせながら興奮していると、ピコンと仕事用のアドレス宛に一通のメール。見慣れないアドレスだったが、ユーザー名が目に入った瞬間飛び起き、正座になる。

 「marugame.asuka0209って、これ絶対に飛鳥先輩だ!」

 偶然にしては出来すぎているが、なんの警戒もなく開封をして内容を隈なく読み込み――――読み終える頃には呆然としていた。

 要約すると研究協力の依頼であり、可能であれば一度会って話せないか、という非常に堅苦しい内容である。

 気がつくと涙が頬を伝っていた。

 四年ぶり、つまり先輩が卒業してから初めて貰った連絡。元気?今度ご飯でも行かない?みたいな、そういうのを期待していたあたしがおバカじゃないか。

 ――――いいや、先輩が悪いわけではない。これが普通。むしろ、あたしがおかしい。

 何を隠そう、あたしと先輩の間に特別な繋がりはない。友達でもなければ恋人でもない。ただ、バスケ部の先輩後輩というだけで、練習と試合だけが共に過ごした時間の全て。連絡も練習に関することだけ。そんな程度の仲。

 「……それでも好き」

 あたしに手を差し伸べてくれた先輩に対する想い。四年経ってもこの気持ちは色褪せていない。

 でも、これが最後になるかも。もし拒絶されたら、ただの先輩後輩ですらなくなってしまったらどうしよう。そう思うと、胸が苦しくなる。だから今まで一度も自分から連絡できなかった。

 ――――涙を拭い、ありったけの勇気を振り絞る。

 先輩に会ってお話しがしたい、その気持ちだけで震える指をどうにか動かし、書いては消してを繰り返す。文面が完成しても、何度も声に出して読み上げ続け、早三時間。返信を完了する頃には外が薄明るくなりつつあった。

 急にドッと疲れが出て、再びベッドに倒れうつ伏せになり、顔を枕に埋める。そのままうめき声を上げて、湧き出る混沌とした感情を擦り付けていく。

 このあられもない姿がママに目撃されていたことは、あたしの人生最大の汚点となるのだった。

 

 ***

 

 ――――いつの間にか私はドアの前に立っていた。

 温かみを感じるレトロな木製のガラスドア。ここは大学から離れた場所に佇む、少し寂れた喫茶店の玄関前だ。私の憩いの場の一つで、よく帰り道に訪れている。

 ぼーっとしていると、店内が薄暗いからか自分の姿がガラスに反射していることに気がついた。

 ガラスに映る、ケープを羽織ったおさげ姿の美少女。うどんのように白い肌が彼女の纏う儚さに拍車をかけている。

 

 彼女の名は讃岐詩音。

 

 私の一個下で、高校バスケ部の後輩だ。

 某バスケ漫画に憧れて入部したという詩音は、初心者という点を考慮しても信じられないほど下手だった。

 ドリブルやパスはへんてこだし、一番簡単なレイアップシュートすらろくに出来ない。おまけに口数が少ない不思議ちゃんで、趣味と特技がイラストときた。

 そのため、次第に周囲から腫れ物のように扱われるようになる。

 それでも詩音は部活を辞めず、直向きに人一倍努力を続けた。

 しかし、周囲からの扱いは変わることはない。下手っぴが一人で頑張っても嘲笑の対象になるだけだ。

 だから私は、詩音に手を差し伸べた。少しでも彼女が笑顔になれるように。

 ――――精一杯頑張る彼女の姿が、どこか冷めていた私の憧れだったから。

 

 原因は不明だが、今、私はの姿になっている。まるでVRを体験しているようだ。なんにせよ、玄関前で棒立ちを続けるのは迷惑だ。

 混乱しながらドアを開けて入店すると、店員がにこやかに迎え入れてくれた。

 「いらっしゃいませ、讃岐さんですね。丸亀さんはあちらの席でお待ちです」

 会釈をするも、妙な違和感。戸惑いながら店員の案内に従い、席に移動した。そして私は大っ嫌いな女と対面することになる。

 緑色の黒髪が綺麗な、リクルートスーツ姿の美女。気品のある見た目をしているが、中身は空っぽ。連絡が来ないから嫌われたと思い込み、自分を慕う後輩を四年間も放置したクズ。そんな女性が私を見て微笑む。


 『久しぶりね、詩音』


 そう、『』だ。まるで鏡を見ているかのように、『私』が机を挟んだ向こう側に存在している。

 詩音と四年ぶりに再開したあの日の夢を見ているのだろうか。

 唖然とする私を無視して、目の前に座っている『私』は一方的に話を進めていき、本題に移り始める。


 『研究室が推進するイラスト生成AIプロジェクトが難航しているの』


 原因は技術の普及と発展に伴って、目視であっても判別できないAIイラストがウェブ上に溢れかえったことだ。

 その結果、クローラープログラムがウェブを巡回してイラストを収集するスクレイピング技術で作られた学習データにAIイラストが混入し、AIプログラムが崩壊する報告が多数出ている。

 余談だが、私の研究は養鶏農家から提供される写真を使用しているため、全く影響を受けなかった。それゆえ、最優秀論文賞を繰り上げ受賞してしまったのだ。


 『研究用のデータ加工が大変なのよ』


 これはイラストレーター達が自衛として、データをそのままウェブにアップロードしなくなったからだ。

 近頃はデジタル画像を紙に印刷した作品やアナログ作品を造花などで飾り付けてからカメラで撮影する、2.5次元作品が主流となっている。

 イラスト本体の解像度劣化やカメラフィルターによる色合の変化、装飾物による境界の抽象化などが原因で、2.5次元作品はAIで学習できない。

 修正AIで2.5次元作品を2次元作品に加工しようとしても、誤認識のパレードである。そのため、ゆうに一万を超える大量のデータを人力で加工するしか手立てがないのだ。


 『FusionArtAI社のデータも法外的な値段で八方塞がりなの』


 FusionArtAI社は唯一ピュアなイラストデータを扱っているユニコーン企業だ。東堂善治のような大御所アーティストらと契約し、安定して高品質なデータを取得しているらしい。

 AIやらNFTやらを壮大に語っているが事業内容がよく理解できない。それに莫大な資金が何処から出ているのか非常に疑問である。

 加えて詩音がモニターとして、AIの学習を阻害する絵具を貰ったのだとか。胡散臭すぎる。


 『だから詩音のイラストのデータを全て譲って欲しいの』


 「……は?ちょっと待ちなさい」


 今まで無言で頷いていたが、思わず声が出てしまう。


 『貴女の全てが欲しいの』

 「そんなこと言っていない!私は研究協力の依頼を断るように警告したのよ!!」

 

 ことの発端は詩音がイラストコンクールの授賞式で私の名前を出したことである。偶然その授賞式に私の指導教員も来賓として出席していたのだ。

 後日、ゼミで彼女の挨拶が話題に出され、私は迂闊にも恥ずかしさのあまり過剰に反応してしまった。

 指導教員は詩音が語った人物が私のことだと察した。そして詩音宛に研究協力の依頼を出すよう、私に指示を下したのだ。

 なんせ、詩音は今や業界を席巻する超新星。その作品を利用できれば、データの質の担保だけでなく、研究に箔をつけることができる。

 下手をすれば詩音が筆を折りかねないその指示に対し、私は強い憤りを感じた。

 しかし、上の言う事は絶対。だから大学から離れた喫茶店に呼び出し、密かに依頼を断るように警告したのだ。

 ……加えて、授賞式のようなオフィシャルな場で無闇矢鱈に人様の個人情報を出さないよう、情報リテラシーの講義もみっちり実施した。

 詩音は私の言葉を素直に聞き入れてくれた。ただし、研究室の厄介事に巻き込んだお詫び?として、週末に作品撮影のアシスタントをする約束をした。

 

 ――――その撮影日が今日。

 そこは、誰も寄りつかない瓦礫まみれのビーチ。

 遥か昔、海辺に栄える水族館だった場所。

 青空の下、詩音が無我夢中になって作品の飾り付けをしている。

 装飾材を補充するため、彼女が水彩画に背を向けた刹那。

 額縁からコールタールに似た漆黒の液体が勢いよく溢れ出し、彼女を襲う。

 だから私は彼女を突き飛ばして。

 悍ましく蠢く闇に、

 

 「……ようやく思い出したわ」

 これは、妄想でも夢でもない。相対する『私』の皮を被る怪異が起こした現象だ。

 理解不能な存在に生殺与奪の権を握られている。その事実を認識した途端、体に悪寒が走り、鳥肌が立つ。今にも腰が抜けそうだ。

 怪異は恐れ慄く私の眼をじっとりと見つめながら、ブリーフケースから同意書とペンを取り出し、机の上に置いた。

 『貴女とはいい関係になれると思うの』

 そう言いながら、怪異は小指を立てながら厭らしく微笑む。

 私の生存本能が、この文字化けした書類にサインをしてはいけないと警鐘を鳴らしている。サインをすれば、死ぬ。

 それでも私は震える手でペンを掴んでしまう。

 

 ……だって、私なんかが敵う相手じゃないもの。 

 怖くて泣きじゃくる無様な私に何ができるの。

 そうね。きっと、あっけなく死ぬのよ。

 ――――そうだとしても

 

 「大切な後輩を襲ったお前だけは、絶対にぶっ殺してやる!!」

 

 私は決死の覚悟を決め、一世一代の大啖呵を切った。瞬時に怪異に対する怒りの炎が燃え上がり、滞っていた思考が急激に動き始める。

 相見えるは常識の埒外の存在。裏を返せば奇想天外な自由解釈が可能であり、不格好でもそれっぽい仮説を立ててしまえば、私にとっては常識の埒内の存在になる。

 きっとそう強く信じなければ、目の前の『私』は倒せない。

 唇に人差し指をあてながら、ただひたすらに、常識や記憶の間に無理やり関連性を見出して理屈をこじつけることを繰り返す。

 やがて、その思考過程を経て、一つの結論に辿り着く。

 

 この怪異の正体は、だ。

 

 こいつは複数回にわたって人を襲い、心の記憶から作品を抽出していくタチの悪い存在。全ての作品を取り込み終えると、獲物に大量の快楽成分を流し込んで再起不能にする恐ろしい習性を持つ。

 おそらく詩音も何度か寄生されていて、今日が最後の日になるはずだった。

 ところが、すんでのところで私が身代わりになったため、情報の吸い残しがあると誤認が生じてしまった。それは淫獣にとって重大なエラーである。

 そこで、やり直しを試みるも、改めて詩音の同意が必要となってしまった。

 だから先日の会話に基づいてこの空間を生成し、『私』の皮を被ってサインを迫っているのだ。――――今、自分が捕食している獲物がであることに気が付かずに。

 そして、最も重要なことは淫獣が人工的に作られた存在という点である。

 これまでの同意書に重きを置くような言動を見ると、魑魅魍魎の類とは思えない。何より、元凶に心当たりがある。

 そう、FusionArtAI社だ。淫獣の正体が例の胡散臭い絵の具であり、密かに多数のイラストレーターを襲っているとしたら、全て辻褄が合う。

 ――――そうであると信じるの。そうすれば、こいつに一矢報いることができるはずよ。

 汗ばんだ手で同意書を手繰り寄せ、ゆっくりとペン先を近づける。

 すると、自分勝手に喋っていた淫獣が口を閉じ、紙面をじっと凝視し始めた。それだけではない。空間を構成する全てが、その瞬間を見逃すまいと監視している。

 張り詰めた空気の中、私は素早く紙を裏返して、こう書き記す。

 

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 その意味は、

 今や対魔の護符に等しい存在となった同意書を握りしめ、勢いよく席を立つ。

 「私の全てが欲しい……そう言っていたかしら?」

 沈黙。詩音の好意や才能を踏み躙った淫獣は、口を開かない。

 『An error occurred. If this……』

 どこからともなくアナウンスが聞こえるが今はどうでもいい。


 「これが私の答えよ」


 大っ嫌いなクソ女の顔面が吹き飛び、振り抜いた私の拳が漆黒の返り血に染まる。

 一呼吸おいた後、心から詩音の無事を願い、静かに目を閉じた。

 

 ***

 

 茜色の空。漣の音。磯の香り……それと、ちょっと焦げ臭い。

 そして、私の身体に縋って嗚咽する大切な後輩。

 どうやら私は死の淵から生還できたらしい。無事を知らせるため、詩音の頭を優しく撫でる。それでも泣き止まないので、落ち着くまで背中をさすってあげた。

 「心配かけたわね。詩音が無事でよかった」

 詩音は私の胸に顔を埋めたまま、コクリと頷く。

 「先輩も無事?」

 「ええ、大丈夫よ」

 これ以上、詩音を不安にさせないように気丈な態度をとるものの、重度の疲労を感じ、もはや立つことすらできない。

 「ここはまだ危ないから、早く詩音だけでも逃げて」

 「やっつけたから、モーマンタイだよ」

 詩音が指差す方向を見ると、黒い液体に塗れた水彩画が静かに燃えていた。焦げ臭い匂いの原因はこれか。……やっつけたってどういうことかしら。

 些細なことに気をとられている場合じゃない。

 先ほどから微かに聞こえる、複数の物音。

 何者かが物陰で息を潜め、私たちの様子を窺っている。

 今や炭になりつつある淫獣の回収が目的か。いや、それは私がでっち上げた荒唐無稽な陰謀論にすぎない。

 ここは、電波が届かない人里離れた廃墟。無防備な女二人がいつ襲われてもおかしくない、危険な場所だ。

 詩音も気が付いたのか、私に抱きつく力が強くなる。意地でも私から離れないつもりのようだ。高校の時から感じていたが、この子は気が弱いわりに頑固だ。

 

 ――――息が詰まるような空気を、遠くから鳴り響くサイレン音が切り裂いた。

 

 同時に複数の人影が足音と共に遠ざかっていき、私は安堵の息を吐いた。

 「もう大丈夫。定刻を過ぎても私から連絡がなかったら、警察と救急に通報するよう、母さんに頼んでいたの」

 半分は今のような不足の事態に陥った時の保険として。

 「やっぱり先輩はすごい。うん、とてもすごい」

 もう半分は、尊敬の念を向けている後輩から刺された際の保険として。……絶対に黙っておきましょう。

 

 ***

 

 ――――事件から三か月後。

 結局、私たちを襲った存在の正体は分からず終い。一方、あの場にいた不審な人影は東堂善治を襲撃した闇バイト強盗であった。そのため私達の不法侵入は霞んでしまい、一切お咎めなし。私達の身に何があったか、深く聞かれることもなかった。

 まぁ、警察に事情を説明するにしても――――

 FusionArtAI社が作ったスライム型の淫獣に襲われてデスアクメしそうになりました。奴らはアーティストの心の記憶に存在する作品データを狙っています。

 という私の支離滅裂な説は口が裂けても言えない。それに、FusionArtAI社が不正会計絡みで呆気なく倒産したため、もう追及のしようがなかった。

 ちなみに、詩音は黒い液体の正体が亡霊の祟りだと思い込んでいる。だから制汗スプレーとライターで除霊?しようとして、そのまま引火。あの有様となったそうな。

 「貴女のおかげで助かったのかもしれないわね」

 私の言葉に首を傾げる後輩は、今日も美少女だ。

 あの事件以来、私達はお互いの身を案じて一週間に一回は会うようになった。といっても、毎回普通に遊んでいるだけだ。

 今日は私の行きつけの喫茶店でまったりとお茶をしている。お紅茶がおいしい。

 紅茶の香りの余韻を味わっていると、詩音の手招きが。

 またか、と思いつつ耳を寄せる。


 「先輩のケーキ、一口欲しい」


 耳元で囁かれる妙に蠱惑的な声と熱の籠った吐息にゾクッとしてしまう。あの事件で私が晒した醜態から、余計なことを学んでしまったのだろう。

 悪戯っぽく笑う詩音。本音を言ってしまうと非常に嬉しいのだが、どうも照れ臭くて顔を背けてしまう。

 でも、これから時間をかけて慣れていけばいい。あの事件が私という物語の始まり、いや、――――私達という物語の始まりと決めたから。

 二人に降り注ぐ優しい木漏れ日が、これからの日常を祝福しているように思える。

 ――――そんな気恥ずかしいことを考えてしまうほど、私こと丸亀飛鳥は幸せだった。

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