マイ・フェイバリット・シングス
笠井 野里
マイ・フェイバリット・シングス
私は、パキスタン人が経営するあるカレー屋で
「もうね、書くにしてもネタがないし、どう書けばいいのかもわからん、どうしたらいいんだろうね」
新島は、大学生の女性で、私より一つ下の学年。文学部で小説を読むのを趣味としているため、小説について訊ねるのに助かっていた。黒髪ストレートのボブと、彼女の大きい黒い瞳、砕けた話し方は、彼女にはつらつとした印象を与えている。
「本を読むしかないっスよ、そんなの」
「本は読みたくないんだよ」
「ええ、本を読みたくないってなんなんスか、作家なんじゃないんスか?」
「作家だよ。家に本は一冊しかないけどね」
「冗談スよね?」
「マジ」
「あきれたっス、やっぱ馬鹿ですよ、センパイ」
新島は言葉の通りあきれたという顔で微苦笑をするので、私も微苦笑を返して話を変える。本を読めというのはめんどくさい。
「新島、なんかいいネタはないの?」
もうやぶれかぶれだ、本当はネタが欲しいだけである。書くに書けない。
「ないっスよ」
「本当に?」
「めんどいっスね、そんなのAIにでも聞いてくださいよ、面白い話考えてって言えばなんか出てきますよ」
「AIの回答は面白くないよ、あれは感情がないから」
「そんなこといったらセンパイの小説もあんまり感情を感じないっス、AI小説みたいでしたよ、感情が出てない」
意外と毒舌である。手痛い指摘だった。彼女は唯一といっていい私の小説の読者なのだ。私は二の句が継げない状態になってしまった。
「新作のやつは、なんていうのかな、やけくそって感じしました」
「やけくそかあ…… どういうことだろう」
「わかんないっス…… ただやけくそだったんスよ、わかってほしいっス」
やけくその意味するところがわかるようでわからない。ただ、私はこの感想を面白く思ったし、正確であると感じた。私は新島のこの曖昧で直感じみた言語感覚を好いている。詩人にさえなれるかもと密かに思っているぐらいだが、色眼鏡の過大評価かもしれない。ともかく私は新島のことを、大切な読者であり、大切な批評家で、大変な感性の持ち主だと思っている。彼女の意見は熟考するべきものだった。
「確かにやけくそだったかもしれない。犬猫の友情物語を書くという気持ちが先行して、ポチとミミの感情が出て来なかった。そこの部分が投げやりだった」
私の書いたその物語は、迷子犬のポチと猫のミミが出会い、ミミに助けられながらポチが家に帰り、その間に互いのことを知ったポチとミミは友達となったのでした。という筋なのだが…… よく考えると、描写がさえないせいで、これだけで説明が終わってしまうのだ、物語としての深みを、キャラクターの感情の中に乗せることが出来なかったのだ。そうなっては小説としてはおしまい。一言で説明できない余りの部分にこそ、小説の魅力があるはずだ。
「せんぱーい……?」
急にきこえた声で思考の流れが止まった私は、音の鳴る方を向くと、小さいえくぼを作った新島が、その大きな瞳でこちらを見ていた。
「センパイ、そんなに悩まなくてもいいんスよ」
そう笑いながら私に言った、新島のその言葉には、なんの裏付けもなくこちらを納得させるような強さがあった。
「小説なんて、ホントはなんでもいいっスよ、ただ書きたいものを書ければね」
そう言ったあとの新島は、何食わぬ、いやカレーのライス部分をスプーンで掬って食った顔でいる。
小説はなんでもいい。私には金言にさえきこえたが、言った本人はもうなにを喋ったのかさえけろりと忘れているだろう。私がジッと見ているのを不思議に思った新島は、私に尋ねた。
「どしたんスか? もしかして顔に米粒ついてる?」
と一人あたふたして顔を右に左に撫でまわしている。
「いや、そうじゃないんだけど」
「見とれちゃったとか?」
そう問いかける新島のしぐさが芝居じみていて滑稽だった。冗談相手に微笑するつもりだった私は、なぜか破顔して笑っていた。
「センパイひどーい! なんで笑ってんスか!」
心外だと口で言いながらも、目は笑っていた。
「ありがとう。小説の参考になったよ」
私のこの恥ずかしさを隠すような、先ほどの金言を与えてくれた人に対する感謝の台詞を急だと思った彼女は、やはり勘違いして
「センパイのえっち! 私を使って人間観察はやめてほしいっス」
と言ってそっぽを向く素振りをした。彼女の目線の先の窓には、雪だるまの人形が置いてあった。
「センパイ、雪だるまいますよ、ここ。溶けわないんスかね?」
と言いながら人形の頭を撫でている。私はこのような主題の絵画を昔見たような感覚に襲われた。記憶の中の絵画のイメージと、この風景が脳の中で曖昧な形のままハマった。
「新島さあ、詩作る気ない?」
絵画の感覚から出た言葉は、彼女の詩を読みたいという欲を口にぶちまけた。
「私に詩は無理っスよ、だって私天使じゃないし」
「……どういうこと?」
「なんかの小説にあったんス。『詩人は人間じゃなくて天使だ』って…… でも私人間ですよ、天使なんかじゃないんスね」
口調は明るく、笑いながら言った言葉だが、新島の大きな目だけは、少しだけ愁いを帯びていた。言葉の意味を解した私は、その目がたまらなくなった。羽根の折れた天使をその瞳の奥に見た。
「いいや、天使だよ。少なくとも俺にとってはね、俺は新島の言葉に力を感じるんだ」
しばらく無音が続いた。ジャズの曲だけが響く、いつの間にか『Moanin'』は終わって、知らない曲が流れていた。
「……わかりました、センパイのために一つ詩を書いてあげるっスから、絶対読んでくださいよ」
そう語る新島は、人の形の天使をしていた。彼女の瞳からは、さっきのような愁いは消えて、奥には炎のようなものさえうつっている。
その目を見た私も、よくわからない心の炎をみつけた。私はその感情を愉快に、本当に愉快に思った。この詩人に勝ちたくなったのか、それとも火移りか、それとも私の解剖できないものか。
「ありがとう」
「こちらこそっスよ。私、センパイに天使って言われて嬉しかった」
少し照れるように言う新島は、やっぱり変わらず天使だった。
そのとき、店内のジャズが『My Favorite Things』へと変わった。ピアノの音が踊る、ソプラノサックスが駆け回る。爽やかなエンディングか、爽やかなオープニングかわからないその曲がカレー屋を包む。
「センパイ、いい小説のネタ、思いついたんスね」
にやける新島に、私は笑って頷いた。
マイ・フェイバリット・シングス 笠井 野里 @good-kura
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