結婚式が出会いの場なんて夢物語でしょ

衿須

第1話

 すこん。

 爽やかで軽快な音が、狭苦しく消臭剤の匂いのこもった公園のトイレから出た私を突き抜けた。音のした方には、濃紺の上等なドレスを纏った長身の女がいた。ドレスは彼女のメリハリのある体型に似合っており、ゴミ箱に向けてゴールを決めたハンドボール選手のようなポーズだけが不似合いだった。

 公園に設置されたゴミ箱は網状で、その中身がよく見えた。彼女が投げ入れて気持ちの良い音を鳴らしたのは、私が左手に提げているのと同じ紙袋だった。

 私の視線に気づいたのか、彼女がこちらを向いた。正面からその顔を見て思い出す。つい三十分前まで参加していた結婚披露宴の引き出物を投げ捨てたのは、新婦の友人代表として挨拶していた女だった。


 結婚披露宴で、素面でいるのは難しい。誰も彼もが何かに酔っていた。

 私は新郎と大学のサークルで親交を深めた縁で式に呼ばれた。私たちがいたのは理系の大学の文芸評論サークルだ。かなりの男所帯で、同学年で女は私だけだった。サークル全体の規模も小さく、良くも悪くもゆるい活動方針を続けていた。

 同じテーブルには、このサークルのかつての仲間たちがいた。卒業後疎遠になっていた者もちらほらおり、私は久しぶりに会う彼らからそれぞれの暮らしぶりについて聞けるかと思っていた。だが彼らは終始新郎がいかに新婦を射止めたかに興味津々だった。下世話にならないギリギリのラインを攻めるような会話に、私は相槌だけを打った。

 そんな私のテーブルに新郎新婦が挨拶に来ると、彼らは口々に「おめでとう」と言った。私からは見慣れないスーツ姿にふさわしい礼儀正しさで、二人を祝福した。

 彼らのそんな姿が、新郎は嬉しいようだった。もともと内気で表情に乏しく、サークル会議でヘラヘラ笑っていたメンバーに苛立っていた新郎が、今日は笑顔を振りまいていた。作り笑いではなく、内からどんどん湧き出てくる笑みだとわかり、それゆえ私は彼の下がりっぱなしの目元を見ていられなかった。

 雰囲気に酔えなかった私は、それほど好きでもないビールをあおった。気分がぼんやりしてくれば、この場で浮かずに済むと思ったからだ。きつい炭酸が喉を通るとき、大学時代を思い出した。男ばかりの集団に女一人という環境で、私は気を使う必要があった。恋愛対象にならず、かつ良好な関係を続けるためには努力を要した。サークルは好きだったが、あの経験を思い出すとうんざりする。

 司会が彼女を呼んだのは、三杯目をコップに注いでいるときだった。

 背筋を伸ばして大股で歩く姿は、小動物のような雰囲気のある新婦と対照的で、同じテーブルの一人がそれを揶揄する軽口を叩いていた。

 彼女は低めの声で丁寧に語り始めた。この場への招待に礼を言い、新婦との思い出を語る。題材はありきたりだが、なめらかな語り口は耳によく馴染んだ。時折ユーモアを交えながらも、新婦を立てるところは崩さない。話の組み立てが上手く、スピーチに慣れていることがうかがえる。最後に彼女が頭を下げたときにはひときわ大きな拍手が起こり、新婦は涙ぐみさえしていた。

 だから、おそらくあの場で気づいたのは私だけだろう。挨拶の中で彼女は一度も「おめでとう」と言わなかった。言葉選びに凝るような正気さはこの場に似つかわしくない。思えばこのときから、すでに私は彼女に惹かれていた。


 公園での衝撃の対面から十五分後、私はそんな彼女とともにバーにいた。

 彼女はカクテルをちびちびと口に含みながら、むっつりと横目でこちらを警戒している。

 友人代表として出席した披露宴の引き出物をゴミ箱に投げ入れたところを目撃された彼女は、無言で目撃者の私を睨みつけて動きを封じた上で、一歩一歩近づいてきた。その凄みに怯んだ私は「とりあえず落ち着けるところに行きましょう」と提案して、今に至る。

 席に着いてからも彼女はずっと無言だが、半端ないプレッシャーが私に向けられていた。あんなに見事なスピーチを披露した彼女が、今私には何も言わないのが怖い。

「あの」

 耐えきれずに口に出すと、彼女の目がぎろりとこちらを向いた。

「さっきのこと、告げ口する気はないですから」

「だから安心しろって?」

 まるで威嚇するような声色で返事が返ってきた。勘弁してほしい。

 私はごく理性的に、筋の通った言い方を心がけて返答する。

「私は新郎の友人なわけですし、余計な火種を持ち込むわけないですよ。言ったところで二人の幸せにヒビを入れるだけでしょうし」

「この結婚で二人が幸せになると思ってるんだ」

 そう問われて、私はとっさに答えられなかった。どう答えるのが正解か迷う。

 少し遅れて「しまった」と思う。この態度自体が、私がこの結婚に疑問を抱いていることを示してしまっていた。同じテーブルにいた友人たちなら、すぐに「そりゃそうだろう」と答えただろう。

 私の無言の返答に、彼女はなぜか態度を和らげた。

「なんであたしがこんなこと言ってるか、聞きたい?」

 ここで否定してもどうにもならない。私は頷いた。

 すると彼女はしばらく悩み、小さく首を振って、カクテルを揺らして口に流し込んだ。小さな一口をゆっくりと飲み込んでから、口を開いた。

「クルーズに行きたかったんだ」

 私にというより天井に話すように、彼女はぼやいた。

「あいつ海が好きで、高校の卒業旅行の予定考えるとき旅行会社のカタログ眺めてて、伊豆諸島のクルーズ見て目輝かせてた。まあ高校生の財力じゃ無理だったんだけど、いつか金貯めて一緒に行こうって約束してたんだよ」

 友人代表スピーチには乗らないささやかな、けど暖かい思い出だ。友達のふりをして裏では新婦を蔑んでいたのかなんて邪推していたが、仲が良かったのは本当らしい。

 だがこの話はあくまで前振りである。そしてその次の話は予想できた。出てきた地名は私にも聞き覚えがあった。

「そういえば伊豆諸島って……」

「ハネムーンの行き先だってさ」

 カクテルグラスの氷を転がしながら、彼女はぼやいた。

「他のやつから聞いて問い詰めた。籍入れたばっかりの忙しい時期にね」彼女は自嘲的な笑みを浮かべていた。「約束があるって言ったけど、旦那に押し切られたんだって。申し訳なさそうにするもんで、さすがに大人げなかったかなって思ったよ」

 彼女の様子を見て、そういうパターンか、と得心が行った。

「それは……残念でしたね」

 要は無二の親友だった新婦に、自分よりも夫のことを優先されることに拗ねているのだ。荒々しく振る舞う彼女だが、そう思うとかわいく見えてきた。

 口を尖らせた彼女が、私に顔を近づけて尋ねた。

「他人事みたいに言うけど、あんたも新郎の知り合いでしょ」

 私はどきりとし、顔を引いて考える。

 これまでの話を聞く限り、彼女と新婦ほどのつながりは私と新郎にはない。SNSで互いの動向は知っているけど、熱心に交流はしていない。直接会うのは忘年会や地方に就職した仲間が戻ってきてサークルメンバーを集めたときくらいだ。特に今語るべきことは思いつかなかった。

「まあ、そうなんですけど……」

「はっきりしないな。じゃああたしから聞くけど、新郎ってどんなやつ?」

 式の中では新郎の人となりは語られているが、当然というかそれはすべて忌憚にまみれたものである。今私に求められているのはそれを取り払った意見だ。

「うーん、浮気とかはしないと思いますけど……」わかっていながら、私は当たり障りのないことを言う。

「そんなのは当然だ、聞きたいのはもっとこう……そうだな、普段弁当作らせてるくせに休日だけ凝った料理作ってイクメン面したりしないかとか、そういうこと」

 彼女の絶妙な憶測に、新郎が私たちに婚約のことを伝えた去年の忘年会を思い出す。


 話題は当然結婚相手のこと一色だった。酒の進んだ新郎の舌が回り出すとだんだん自慢話になってきたが、別に不快ではなかった。こういう場は気持ちよく自慢させてあげようと思えた。

 彼は婚約者の手料理を食べたときの話を始め、料理上手であることを強調して言った。友人たちは口々に「やっぱり、結婚となるとそこが大事だから」「毎日食べるものだしな」と褒めたたえた。

 何も口を挟めなかった。私は男扱いされることで彼らの仲間に入れてもらっている。彼に無邪気な賛同を示すことはできず、さりとて女の立場に立つ発言もできなかった。

「いやでも毎日ってのはアレじゃね?」一人が口を挟んだ。「家事任せっきりだといろいろ言われるじゃん」

 その言い方には引っかかるものがあったが、ともかく彼の態度に疑問が挟まれた。注意深く様子を見ていると、彼は首を振って答えた。

「わかってるって、今の時代男だって料理とかできなきゃ駄目だからな」

 ふーん、意外と考えているのか。感心しかけたとき、彼は両手を肩幅大に広げて得意げに言った。

「俺こないだ土鍋買ったんだよ。ご飯炊いてみたらマジでうまいよ」

 感心の声が上がる。私はげんなりとしながら、貼り付けた笑顔を保った。そういうことじゃないとは言えないし、言ったところでどうなるとも思えず、私は飲み放題の安いカクテルを飲み干した。


 私の曖昧な表情を見て、彼女はため息をつく。そんな彼女の姿を見た私は自然と口を開いていた。

「ついでに言うなら女側が苗字を変えるのを当然だと思ってます、たぶん」

 あの日彼は新婦が苗字を変えるときの手続きを調べていることに対して、「結婚の実感がわく」と言っていた。

「ますますひでえ」彼女は呆れ果たしたのか、とうとう笑い出した。

 初めは立場上彼の味方をするべきだと遠慮していたが、結局こき下ろしてしまった。

 まあ、これくらいはいいだろうと割り切る。別に積極的に彼を貶したいわけではないが、ここに関しては自業自得だし。

「意外と容赦ないね」彼女の声には親しみが滲んでいた。「あたしとしてはありがたいけど」

「だったらよかったです」安心しつつ、私は答える。

 彼女の顔をちらりと見る。メイクは薄めのようで、元の血色の良さがうかがえる。最初はすさまじい剣幕に怯んだが、今は態度とともに柔らかい顔つきになってきた。

 もうひと押ししてあげれば満足するだろう。私は、不機嫌になった友人をなだめるときの気持ちで会話を続けた。

「けど、新郎は友達付き合いに文句言ったりはしないと思いますよ」

「……へえ?」訝しむように彼女は相槌を打った。

「だから安心してください。ちゃんと話したら、今まで通りの仲でいられますよ」酒の勢いもあってか、するすると言葉が出てくる。「今は忙しいでしょうけど、落ち着いたらクルーズも行けるんじゃないですか?」

 私がそう言うと、彼女は少し考え込んだ。肘をついて組んだ手の上に頭を乗せて、そのまま動かなくなる。

 酔いが回って眠くなったのだろうか。声をかけようと思ったとき、彼女は頭を上げた。

「……なああんた、あたしのこと変な男に捕まったバカ女が友達で苦労してると思ってない?」

 思わぬ問いかけに、私は言葉を失う。

 自分を振り返ると、新郎との結婚を選んだ新婦を、そしてそんな友人を思う彼女をもどこか侮る気持ちがあった。それが見透かされていた。

「あたしの言い方が悪かったのかな。ただ誤解はしないでほしい」

 彼女は責任を感じた様子で、しかし釘を刺すように言った。

「あいつ、結婚が決まったときに『これでみんな安心するね』って言ったんだ」小さなグラスにわずかに残ったカクテルをあおって、彼女は続ける。「親とか職場の目とか、あとあたしらの同級生の半分以上が結婚してることとか、一人でいたときの生活レベルとか。建前上自分がどう生きるかは自由でも、周囲に歓迎されない生き方を続ければ削られるんだろうな。あたしはもうそういうのは無視することにしてるけど、まあ図太くなきゃ難しい」

 新婦がどんな環境にあったかはわからない。だが私と近い年の女というだけで浴びせられる言葉があるのはわかる。

 いわゆる適齢期になっても結婚しない者に嫌悪感を覚える人間は一定数いる。今の時代を生きる彼らの多くは結婚しろと強制的に言うのはハラスメントになるとわかっている。だから現実的な、結婚するメリットまたは結婚しないデメリットを挙げ、それがあなたのためであると説く。自分からあなたは結婚すべきだと言えないから、経済と社会を理由にそうするのが賢い選択だと吹聴する。

「そういうのひっくるめて、あの新郎くらいの相手なら結婚した方がいいって思ったんだろうよ。今の我慢と、結婚したときの我慢なら後者の方がマシだって」

 頼りがいのある新郎が愛されて育った新婦と素敵な出会いをして、愛を育んだ末に結ばれた。

 披露宴の参加者は、そんな幻想に酔っている。酔うことで、祝うことで、全員でこの結婚を漠然とよかったことと認識して、制度によって受けた苦しみを覆い隠す。

「だからおめでとうって言わなかったんですか」

 思わず私は尋ねていた。

 彼女もまた幻想の一部を構成していた。私には堂々とやりきったように見えた言葉選びは、新婦が我慢していることを忘れないためのささやかな抵抗だった。

「……気づいててここまで聞いてたわけ?」

 彼女は反射的に苦い顔をして、ため息を重くついた。それから喉の奥をくっと鳴らして、口だけで笑みを浮かべる。まるでその苦みを楽しむかのように。

「あんた、なんか変わってるね」

 彼女のつぶやきに、私はたじろぐ。

 周囲にそう言われるのを避けながら生きてきたのに、彼女の言葉に期待のようなものを抱いてしまっているのを自覚していた。

「あたしのやったことに非常識だとか言わないし、共感してるようにも見える。その割にあんまり不満を言う気もない。達観してるんだな」

「諦めてるんですよ」

 彼女の眉が上がった。

「私は……今のところ結婚する気ないですから。周りにがっかりされたとしても」

 そもそも私は制度の外にいる。少なくとも今の日本の制度では。独身時代に新婦が感じた以上のプレッシャーがあっても、男性と結婚する意志は持てない。

 代わりにそれ以上波風を立てないように過ごしている。同世代の友人が結婚というイベントを通じてしがらみに絡め取られるのを、あるいは自らしがらみを生み出すのを見送ってきた。

「だから、ちょっとスッキリしました。あのシュートを見て」

「そりゃよかった」

「私にはできないです」

「まあ、普通はやらないよな」彼女は私に向き直り、歯を見せて笑った。「あの引き出物、カタログギフトだったし」

 カタログに掲載された多彩な商品の中から、貰った人が欲しいものを選べる。優等生的で、いかにも新郎が選びそうな引き出物だと思った。誰にとっても得になる。結婚を歓迎していない者であっても。

 上品な小さな袋に収められていたのは紙の束であり、強く叩きつけても壊れるようなものではなかった。だからその音は軽く、私の耳に爽やかに響いた。

「二人の写真がプリントされたお皿とかだったら、家に帰ってから捨ててたと思います」

「そういうの、本当にあるの?」

 母が結婚式の笑い話として度々持ち出したことを思い出す。母が言うには、父との出会いは友人の結婚式で、そのときの引き出物が新郎新婦がプリントされた食器だったそうだ。

 このエピソードは、母にしてみれば引き出物の話はおまけで、むしろ結婚式は出会いの場でもあるということを伝えたいようだった。高校生くらいの私が親戚の結婚式でつまらなそうにしているときに言われた記憶があるので、まともに参加させようとする方便だったのかもしれない。もっとも、式で酔った大人をたくさん目の当たりにした私がちゃんとしようと考えることはなかったのだが。

 私が思い出に浸るのをよそに、彼女は肩をすくめた。

「あたし皿だったらやってなかったな、分別とか考えちゃう」

 唐突に現れた品行方正な態度に、私は目を丸くした。彼女はそれを鋭く見とがめる。

「気にするの意外って思っただろ」

 彼女は私を睨みつけた。しかしこのバーに入ったときとは違い、これは気を許しているから出る遠慮のない振る舞いだ。たぶん自惚れではない。

 だから私も安心して笑いを返した。

「普段は真面目に生活してるんだよ」

 拗ねるような声色を聞いて、私は嬉しくなる。彼女はきっと、新婦にはこんな顔を普段から見せていたのだろう。

 私は今日初めて、新婦を羨ましく思った。


 やがて彼女は酔いが回ったと言い出し、店を出た。駅まで歩いて、電車の方向が逆だとわかった。別れ際、何かが起こるのではないかとほんの少し期待したが、特に何も言うことなく別れた。彼女が電車に乗り込んでから私の電車が来る前には納得していた。これから関係を続けるには、私たちは多くを話しすぎた。

 電車の中で、紙袋から中身を取り出す。紙のケースに入った正方形のカタログだ。

 パラパラとページをめくると、有名寝具ブランドの枕を見つけた。普通に買ったら数千円するだろう。最近枕が合わないような気がしてきたので、ちょうどいいかもしれない。バッグ、家具、カトラリー、ひと駅進む時間にひとつくらいの割合でめぼしいアイテムを見つける。

 自宅の最寄り駅がアナウンスされ、私はカタログをしまってドアの近くに寄る。電車は地下を通っているため外は真っ暗で、窓に私の姿が映った。落ち着いたベージュのドレスに、派手すぎないメイクをした顔が乗っている。久しぶりの結婚式だったので、ネットで調べて場に合ったスタイルを選んだ。友人代表の挨拶はしなくても、私も幻想の一部だった。

 電車がホームに滑り込み、窓の外は一気に明るくなる。眩しさに目を細めて、私は電車を下りた。

 彼女は私が変わっていると言った。けど変なのは彼女の方だ。

 憤りを抱き続けるのは疲れる。まして短期的に解決され得ない問題に対してならなおさらだ。彼女は友達がなにか選択するたびその妥協に憤り続けるのだろうか。きっといつかうんざりしてやり過ごすようになる。

 それでも私の頭の中では、公園のゴミ箱に引き出物を投げ捨てる彼女のドレス姿が焼き付いていた。

 誰もいない駅の通路で紙袋を振り上げてみる。だけど私の頭に浮かんだのはあの枕が数千円する事実だ。

 自宅からほど近くのコンビニのゴミ箱は、家庭ごみらしき袋でパンパンだった。


 メッセージアプリにIDを入力すると、彼女が新婦の友人代表として紹介されたときの名前が現れた。

 彼女のIDは、新郎経由で聞いた。当然あの場で話したことを言うわけもなく、帰り道で足を痛めて手当てをしてもらったからお礼をしたいと伝えて聞き出した。

 勇気を出して友達登録をする。彼女から私が見えるようになったと思うと、緊張が高まる。すぐに「この前はありがとうございました」「結婚式の後、お世話になりました」と打ち込む。他の人に見られることはないとはわかりながらも、ぼかした言い方をした。

 返事はすぐに返ってきた。「そんな名前だったんだ」

 とりあえずブロックされなかったことに安心しつつ、彼女に名前を伝えていなかったことに半分「やっぱり」と思い、半分愕然とする。確かに名乗った記憶も、彼女から名前を呼ばれた覚えもなかった。普段の私なら名乗るのを忘れるなんてことはあり得ない。つくづく奇妙な出会いだ。

 そっけない一文でも、彼女の声が脳内で再現された。スピーチのときの余所行きの声とは違う、何も取り繕うところのない声。

 私は頭の中で考えていた文面を投げ捨て、「通話してもいいですか」と打っていた。

 既読がつくと、すぐに向こうから通話がかかってきた。

「どうも。何か用?」

 バーで聞いたときよりややトーンの高い声だったが、その声はやはり私を安心させた。

 私は最初から本題を告げる。

「私と一緒に、クルーズ行きませんか」

「は?」

 あの日家に着いてから、私はカタログの続きを読んだ。そのとき気づいたのだが、カタログには乗馬スクールやホテルのレストランのランチといった体験のギフトも含まれていた。その中に、東京湾を一周するクルーズのペアチケットがあった。

 普段の私ならこの手のチケットはすぐにスルーする。グループならともかくペアで行きたいと思うほど心を許せる相手は、今の私にはいない。

 だが、そのとき私の頭には彼女の姿が自然と浮かんだ。

「伊豆諸島じゃなくて、二時間で終わるくらいのやつなんですけど、ペアチケットで」

「待って、話が見えない」

 彼女はしどろもどろになる私を止めて、話の整理を始めた。

「まずあたしがクルーズに行きたいって言ったのは、あの子と一緒だったら楽しいだろうと思ったからであってだな……」

 彼女は困惑を滲ませながらも、筋の通った返答をした。彼女との付き合いはわずか二時間ほどにすぎないのに、彼女らしいと思う。酔っ払っていたときも、彼女は道理を崩さなかった。

「わかってます、けどお返しがしたいんです」

 彼女は電話越しに言葉にならない疑問の声を上げる。私は構わず続けた。

「あなたが引き出物投げ捨ててるの見てスカッとしたのに、でも自分はギフトの恩恵を捨てるのがもったいないって思っちゃう。ずるいんです、私」

「別にいいと思うけど」

 私がカタログギフトをしっかり活用しても彼女は責めたりしない。それはわかっていた。

でも、そう言われているようでは嫌だ。

「せめて、ずるさで得たものはおすそ分けしたいです」

 こちらの都合を押し付けているのは自覚していた。それでも、彼女が筋を通して損をするのをそのまま見ていたくはない。

 断られるならそれまでだ。だが、その気持ちを伝えずにはいられなかった。

 彼女はしばらく黙っていたが、やがて電話越しでもわかるくらい大きなため息をついた。

「まったく、義理堅いんだか強引なんだか……わかった。一緒に行こう」

 今の私には、彼女の言葉に潜むわずかな信頼を感じ取ることができた。

 その高揚で、私はつい早口で話し出す。

「全部任せてくれていいですから。見どころは私から紹介しますし、それからえっと……」

 考えなしに話し始めたから、すぐに言葉が出なくなる。沈黙の中、また彼女のため息が聞こえた。それだけで私は次の言葉が出なくなってしまう。

「一応言っておくけど、あの約束の代わりじゃない。あんたと一緒が面白そうだと思って行くんだ。だから、計画も一緒に立てようよ」

 そう言われた瞬間、体から力が抜ける。椅子の背もたれに体重を預けて、今まで自分がずっと緊張していたことに気づいた。

 私が何も答えずにいるので、彼女は不審そうに尋ねる。

「何、不満なの」

 惚けたままの私は、気持ちをそのまま口に出してしまう。

「いえ、そんなふうに言ってもらえると思ってなくて……」

「大げさ」そう言って彼女は笑った。

 何のツボに入ったのか、彼女の笑いは止まらない。とうとうつられて私も笑ってしまう。私たちはひとしきり回線を笑い声の交換に使った後、どちらからともなく通話を切った。

 静かになると、今の時間がどこか夢のように思えた。

 アプリを閉じようとしたとき、彼女からメッセージが来た。「ギフト以外でお金がかかったらちゃんと報告して、折半するから」とのことだ。彼女は今も正気で、だから好きになったのかもしれない。私は犬が前足で大きな丸を作っているスタンプを送る。

 スタンプについた既読の文字をなぞると、私は小さく頷く。彼女と笑顔のたえない関係を築くことを誓って。

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結婚式が出会いの場なんて夢物語でしょ 衿須 @lnora

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