あなたは天使のままでいい

譚月遊生季

あなたは天使のままでいい

 あたしには、好きな人がいる。

 幼なじみにして、親友。……少なくとも、彼女はあたしをそう思っているだろう。


「あ、待ち受け変えたんだ」


 慣れ親しんだ彼女と、行き慣れたカラオケ店の中。

 見覚えのあるイラストが見えて、スマホを覗き込む。あたしが先日描きあげたそれが、背景画像として現在時刻をいろどっていた。


「うん! この前、真奈まなちゃんがTmittarに上げてたやつ!」


 ぱっと明るい笑顔で、幼なじみの葉衣瑠はいるはスマホ画面をあたしにも見えやすいようにかたむけてくれる。


「真奈ちゃんの絵、すごいよねえ。わたしは描けないから、憧れちゃう」


 思わず、頬がゆるんだ。

 この子はいつだって、あたしの味方でいてくれる。


「……まあ、いいねも全然つかないし拡散かくさんもされないし、底辺だけどね」

「ええー。こんなに素敵なのになあ……」


 葉衣瑠は肩を落としつつ、待ち受けのあたしの絵をじっと見つめる。


「真奈ちゃん、どんどん上手になってるから、きっとこれからだよ」

「天使か???」

「えっ、そ、そんなぁ。大げさだよ~~」


 大げさ、なんてことがあるもんか。

 葉衣瑠はあたしの天使だ。……これまでも、ずっとそうだった。




 葉衣瑠とあたしが出会ったのは、小学生の頃。

 自由帳に落書きをしていた時に、ふと話しかけてもらって以来の仲だ。


「うわあ! すごい! きれいだね!」


 あの時、無邪気に感動を口にした葉衣瑠のおかげで、あたしは今も絵を描き続けられている。

 その時だけじゃない。親に自分の絵をけなされた時だって、美大に落ちた時だって、あたしは何度も葉衣瑠の言葉に助けられてきた。


 間違いなく、葉衣瑠はあたしの天使だ。

 誇張こちょうなんかじゃない。


 中学、高校と付き合いを重ね、美大に落ちたあたしは迷いなく葉衣瑠と同じ大学に入った。今となっては、あの時落ちて良かったとさえ思う。


「真奈ちゃんと同じ大学で良かった!」


 ……葉衣瑠の無邪気な笑顔に、どれだけ救われてきたことか。

 彼女はきっと、想像すらしていないだろう。

 ふわふわで色素の薄いボブヘアに、くりくりの丸い瞳。あたしの心の支え。あたしの天使。


 あたしがどれだけ葉衣瑠を想っているか。どのくらい想ってきたか。

 葉衣瑠はきっと、何も知らない。





「真奈ちゃんの描く女の子、かわいいんだよね」


 葉衣瑠の声で、思考がカラオケ店の一室に帰ってくる。

 確かに、私はよく女の子のイラストを描く。まあそりゃ、大半は葉衣瑠がモデルだからね。可愛くもなるってものだ。


「女の子どうしの恋愛? とかもよく描いてるよね。わたしはそういうのよくわかんないけど、真奈ちゃんの描く子はなんだか、応援したくなっちゃう」


 普通なら、嬉しい言葉のはずだ。それなのに、ちくりと胸が痛む。

 いくらあたしの想いを絵にぶつけても、葉衣瑠にとっては、いつまでも「絵の世界」でしかない。


 でも、良いよ。絵空事でいい。他人事にしてたっていい。

 あたしの痛みと悩みで生み出されたものを、他ならぬ葉衣瑠がでてくれるなら、これほど幸せなことってない。……そのはずだ。


「……あ、そろそろ10分前か」

「ほんとだあ。早いね……」

「また遊ぼ。来週空いてる?」

「うーん……わたし、就活あるからなあ……」


 葉衣瑠は難しそうに眉をひそめ、スケジュール帳とにらめっこを始める。

 表紙の可愛いシールとは裏腹に、中のカレンダーには「説明会」や「面接」の文字がびっしりと書かれていた。


「あ……。そっ……か、葉衣瑠は、就活なんだったね……」


 表情が強張こわばったのが、自分でもよく分かる。

 ……あたしは今、同い年の葉衣瑠の一学年下になってしまっている。一年前までは、同学年だったのに。

 とはいえ、今、そんなことを言ったってどうしようもない。何とか明るい表情を取りつくろった。


「またLIMEして! こっちが合わせるからさ」

「ごめんね~~~。ありがとう!」


 手を合わせる葉衣瑠の姿は、相も変わらず可愛らしい。

 未練を振り切るように、カラオケボックスの外へ出た。




 ***




 ばいばーい、と、大きく手を振る姿を反芻はんすうしながら、自室のパソコンの前に座る。

 葉衣瑠が褒めてくれた例の絵の評価は、相変わらずぱっとしない。タイムラインに「神絵師」の数千だか数万だかの評価が流れてきたので、舌打ちしながらアカウントを裏アカに切り替えた。


『ムカつく』

『最近バズってる絵、別に個性もないし似たようなのばっかじゃん』

『あたしの何がダメなわけ?』


 葉衣瑠には到底見せられないような愚痴ぐち怨嗟えんさで、鍵のかかったタイムラインを埋めていく。

 ……と、階段を上がってくる音が聞こえたので、画面を当たりさわりのないGoGoalの検索画面にしておいた。

「ちょっと真奈! また遊びに行ってたの!?」


 ノックもせずに部屋に入ってきたかと思えば、かすれた金切かなきり声が矢継やつぎ早に飛び出してくる。


「あんた勉強しなくていいの? 単位大丈夫なの? 今年こそは進級できるんでしょうね!?」

「あっ……えっと、はい……がんばります……」


 こういう時、口答えすると後が厄介だ。最悪、「絵なんて描いてるから~」なんて言い出しかねない。

 そうなったら、困る。あたしには絵しかないのに。


「近所の襟糸えりいとさんはねぇ、Sowyっていう立派な会社に就職したんですって! あんたはいつになったら親を安心させてくれるの!?」


 早口でまくし立てられる言葉が、たくさんのトゲをまとっている。


「……はい……」


 大人しく頭を下げ、態度だけはしおらしくしておく。

 早く終わってくれないかな。……そう、思っていた時。


「爪切りどこだー?」


 階下の方から、間の抜けた声が飛んでくる。

 ……お父さんの声だ。


「爪切りならそこに……」


 お母さんが、あたしのベッドの上に視線を投げる。

 思わず立ち上がり、取られないよう握り締めた。


「えっ、やだ! これはやだ!」

「はぁ? ……そういやお父さん水虫だったね。めんどくさ……」


 お母さんはため息をつきつつ、「リビングにないー?」なんて言いながら階段を下りていく。

 ほっと胸を撫でおろし、パソコンの前に戻る。

 ペンタブを取り出して、手入れしたばかりの爪をまた噛んでしまったことに気が付いた。




 ***




 次の日、昼休みにサークル用の部屋に顔を出した。

 月曜日は葉衣瑠もあたしも昼休みの次のコマが休みなので、大抵の場合、二人で顔を出すことになっていた。


「行くよ~~! じゃーんけーん……ぽんっ」

「……あー……負けたか……」

「やったー! じゃあじゃあ、わたしメロンパンと牛乳ね!」

「うぃーす……」


 じゃんけんで負けたので、あたしが葉衣瑠のぶんまでお昼ご飯を調達ちょうたつすることに。

 ひとっ走り、大学の中にあるカワサキパンの売店まで。

 メロンパンを二つと牛乳。ついでにあんパンとチョココロネとミックスジュースを買ってサークル室へと帰った。


「ただ……いま……」


 部屋に入ると、さっきまであたしが座っていた場所には違う相手が座っている。


「わあ……先輩の絵、素敵ですね! サラサラ描けるの魔法みたい!」


 葉衣瑠が、キラキラした瞳で相手の手元を覗き込んでいる。どうやら、彼女はあたし達の先輩らしい。


 ……っていうか、葉衣瑠。高校の時、あたしにも同じこと言ってなかった……?


「忙しいからね。これだけ手早く仕上げに来た」


「先輩」はあくまでクールに言い放つ。その間も、手は止まらない。

 サラサラしたショートボブに、シックなブラウスとスタイリッシュなベルト付きスカート。どこからどう見ても「デキる女」だ。

 対してあたしは切るのが面倒でボサボサなロングヘア、服はお母さんが買ったワンピース。

 ……明らかな「差」が、そこに横たわっていた。


「おおー! 筆、お速いんですね!」


 葉衣瑠はというと、帰ってきたあたしに気付かないくらい「先輩」の絵に夢中らしい。

 モヤモヤとした思いがふくれ上がるなか、当の「先輩」の方が、先にあたしに気が付いた。


「あ、座る?」

「え」


 まごつくあたしに、先輩はまたしてもクールに言い放つ。


「いいよ。私はもう行くから」


 そのまま「先輩」はササッと机を片付け、「じゃ」と軽く手を挙げて出て行ってしまった。

 葉衣瑠はようやくあたしに気が付いたらしく、いつものようにニコニコと語りかけてくる。


「あ、おかえり真奈ちゃん。メロンパン買えた?」


 だいぶ前に帰ってきてたけどね。……その言葉はどうにか飲み込み、メロンパンと牛乳を差し出す。


おおせの通りに」

「わーい、ありがと~!」

「さ、食べよ」


  「先輩」については特に触れないでおいた。

 どうせ、掘り下げたところで不快な気持ちになるだけだし。


「……そういや覚えてる? 高校の文化祭……」


 葉衣瑠の横でメロンパンにかぶりつき、別の話題を切り出す。


「ん? なになに?」

「部誌の絵描いてた時にさ、葉衣瑠……言ってくれたよね。『魔法みたい』ってさ」


 そう。葉衣瑠はいつだってあたしの味方だった。

 葉衣瑠の言葉のおかげで、あたしは絵を続けてこられた。

 小学校の時も、高校の時も、今だってそうだ。

 葉衣瑠はあたしの天使。……あたしだけの天使。そうじゃなきゃいけない。


「あ! あったね、そんなこと! 真奈ちゃんの絵もすごいもんね!」


 ……。

 あたしの絵「も」ね……。


「あの時の真奈ちゃん、あと一週間で締め切り~って時に、二人組のイラスト完成させてて……すごいなあって思った!」

「あはは、葉衣瑠が原稿落とさなかったら、そっちの方は描いてなかったんだけどね~」

「も、もう……! 仕方ないじゃん! わたしはやっぱり、絵の才能ないみたいだし……」


 葉衣瑠はメロンパンを牛乳で流し込み、追想するように目を細める。


「真奈ちゃんはすごいよ。どんどん上手くなって、どんどん筆も速くなって……。わたし、真奈ちゃんが新しい絵を描くの、ずっと楽しみにしてるんだあ」


 えへへ、と笑うあたしの天使。


 この笑顔のおかげで、あたしは今までも頑張れた。

 ……これからも、きっとそう。


「なーに? 褒めておだてて、今度のサークル誌原稿もあたしに描いてもらおうって~?」

「い、いじわる言わないでよお……!」

「冗談だって、可愛い奴め~! このこのっ!」


 ふわふわのボブヘアをわしゃわしゃと撫でまわす。

 涙目の葉衣瑠も可愛い。守ってあげたくなる。


「……あ」


 ……と、じゃれ合っているうちに、葉衣瑠は何かに気が付いたらしい。


「これ……先輩の忘れ物じゃない?」


 サークル室の長机の上。

  表面に何も書かれていないUSBメモリが、ぽつんと取り残されていた。




 ***




「届けに行かなきゃ」と葉衣瑠が言うので、あたしが届けに行くことにした。

 葉衣瑠と先輩の接点を、これ以上作りたくなかった。……それぐらい、嫌な予感が頭の中を渦巻いて離れない。


「ええ、と……研究室、研究室……」


「あの人、どこの学部?」と問うあたしに、葉衣瑠はこう言った。


 ──確か院生だから、研究室かな……?


 へぇ、院生なんだ。へぇー、すごいね。

 しかも、美術の先生を目指しているらしい。これも葉衣瑠からの情報。

 何? 葉衣瑠も葉衣瑠でよく知ってんじゃん。忙しくてあんまりサークルに来ない先輩なんだよね。

 ……それだけ、興味があるってこと?


 あたしだけの天使だって、思ってたのに。





「え……これ、私のじゃないけど」


 USBを見せると、「先輩」はぱちぱちと目を瞬かせた。

 ……なんだ。この人のじゃなかったのか。わざわざ届けに行って損した気分。


「……っていうか、これ賢井かたいゼミのUSBだね。私届けとくよ」

「え。忙しいんじゃ……」

「ちょうど行く予定あるし、大丈夫だよ。届けてくれてありがとうね」


 ニコっと微笑み、先輩は「飴ちゃんいる?」なんて問いかけてくる。

 あれよあれよという間に、あたしは袋に半分くらい残った飴を手にし、葉衣瑠の元へと帰されていた。


 一つ取り出し、包み紙を破って口に放り込む。

 何かのフルーツらしき、合成甘味料の味が口の中に広がる。

 甘すぎもせずすっきりした味で、かといってやたら酸っぱいわけでもなく、美味しかった。


 何、あの人。

 筆が速くて、絵も上手くて、カッコ良くて、賢くて、しかもいい人とか。

 あたしが勝てるとこ、どこにもないじゃん。


 バリバリと飴玉を噛み砕く。

 とがった破片で舌先を切ってしまい、血の味がした。


「……ただいま」


 サークル室に帰り、貰った飴の袋を机に置く。


「真奈ちゃん、お帰り~。渡せた?」

「ん、まあね……」


 無邪気な葉衣瑠の声が、心に沁みる。


「あ、飴ちゃんだ~~! 食べていい?」

「どうぞ~」


「先輩からもらった」とは言わず、袋を差し出す。

 葉衣瑠は嬉しそうにピーチ味を選ぶと、指先でピンクの飴玉をつまんで口の中に放り込む。

 知ってるよ。昔から好きだよね、ピーチ。


「これ、美味しいね!」


 でも、なんでだろう。

 今はその笑顔を見ても、イライラが収まらない。


「もしかして、香月かづき先輩が食べてたやつ?」


 研究室のテーブルの上。ノートパソコンに貼られていた名前シール。

 マジックペンで丁寧に書かれた、「香月」の文字を思い出す。


 ああ……。

 くそったれが。




 ***




 葉衣瑠はあたしの天使だ。

 一緒に過ごした時間も、その密度も、他の誰にだって負けやしない。


「真奈ちゃん! 今週末遊べそう!」

「マジで? じゃあカラオケ行こ、カラオケ」


 ……そうだよね?

 葉衣瑠だって、同じ気持ちでなくたって、あたしのことが特別だよね?

 ねぇ、そうでしょ。葉衣瑠……。


 胸の奥でうず巻くねたみを押し隠し、いつも通りの「真奈」を取りつくろう。

 葉衣瑠を怖がらせたいわけじゃないし、困らせたいわけでもない。平常心でいなきゃ。

「いつも通り」を守らなきゃ……。


「そういやさ~、またTmittarで絵上げたんだよね」

「えっ、そうなの? 見る見る!」


 あたしの報告に、葉衣瑠は目を輝かせてスマホを取り出す。

 普段なら、それで多少は気が休まるはずだった。

 いいねが付かなくたって、拡散されなくたって、葉衣瑠が見てくれれば、褒めてくれれば、それだけであたしは頑張れた。


 ねぇ、葉衣瑠……


 スマホの待ち受け画面、いつ変えたの?


「葉衣瑠、その絵……」

「あ、これ? 香月先輩の絵だよ! きれいでしょ?」


 ほんのり赤みが差した頬。きらきら輝く透き通った瞳。無垢むくで純粋な笑顔。


 なんで?


「……ねぇねぇ、真奈ちゃん」


 あたしが感情の処理に手間取っているうちに、葉衣瑠の声のトーンが下がる。


「真奈ちゃんって、女の子どうしの……なんだろう。恋? みたいなの、よく、描くよね」


 言葉を選びながら、真剣に、深刻そうに、葉衣瑠はあたしに語りかけてくる。


「……女の子を好きになっちゃうのって、ヘンかな?」


 ヘンかな? ……だって?

 教えてあげようか?

 あたしがどれだけの間、どれだけの想いで、葉衣瑠を好きだったか。


 どうせ違うんでしょ。

 あたし以外の女なんでしょ。

 そうじゃなきゃ「相談」なんてしないもんね?

 あたしがずっとそばにいて、ずっとずっとずっとずっと我慢して、ずっとずっとずっとずっとずっとずっといい友達でいてあげたのに。

 どうせ、好きになったのは……あんたの心を奪っていったのは、なんでしょ!?


「あの、ね、わたし……」


 言うな。

 言うな言うな言うなッ!

 それ以上言うなって!!!!


「香月先輩のこと、好きになっちゃった」


 シーンと、カラオケボックス内が静まり返る。

 一瞬の間を置いて、別の部屋の下手くそな歌声と、廊下に流れる音楽と、部屋の中のコマーシャルがぐちゃぐちゃに混ざって耳に流れ込む。


「……仕方ないじゃん」


 喉からあふれ出た声が、一瞬、自分の声だと分からなかった。

 自分でもびっくりするくらいはっきりしていて、ぞっとするほど明るい声だった。


「好きになっちゃったんだから」




 ***




「先輩、好きです。付き合ってください!」

「……えっ?」


 次の日、あたしは香月先輩に告白していた。


「じ、実は、サークルで見かけてから、憧れてて……」


 心にもない告白をして、心にもない理由を述べて、心にもない好意を表現する。

 香月先輩はうろたえていたけど、返事が来る前に、唇を奪った。


「ん……っ!?」


 驚き、身じろぐ手に優しく指を絡め、口腔内こうくうない歯列しれつをなぞる。


「あたし、結構詳しいんです。教えてあげますよ。『女の子』の良さ……」


 葉衣瑠のために。葉衣瑠と結ばれた時のために。

 葉衣瑠を手に入れた時のために、たくさん調べた。


 別の女を堕とすことになるなんて、思っていなかったけれど。


 知らなかった。

 あたし、こんなこともできたんだ。




 ***




「ぅ……」


 告白から、しばらく経った夕刻。 

 デッサン用の彫像がひしめく教室の中。「先輩」は苦しげにうめき、おびえた目であたしを見上げた。

 あたしより筆が速くて、あたしより絵が上手くて、あたしより賢くて、あたしよりカッコ良くて、

 ……あたしより、葉衣瑠に好かれた女。


 あたしの天使を奪った女が、あたしよりも天使に愛された女が、こんなにも弱々しい姿で、あたしなんかにすがままにされている。


「どう、して……」


 頬を伝って、血と混ざった涙がぽたりと落ち、床にできた水溜まりに吸い込まれる。床に散らばった赤いダリアを、くしゃりと踏みつけて歩み寄った。

 思い切り花瓶で殴られた頭を押さえ、「先輩」こと「あたしの女」は、恐怖に染まった表情であたしを見上げる。


「どうして、こんなこと、するの」


 掠れた声が、ゾクゾクとあたしの背筋を撫でた。


「ごめんね」


 猫なで声で、心にもない謝罪をして、ぎゅっと抱き締める。

 どうしたって勝てなかった相手が、こんなにもあたしに怯えている。

 それだけで、最高に気持ちが良かった。それだけで、苦しんだ過去の自分が報われる。


「酷いこと、しちゃったね」


 筆が速くたって、絵が上手くたって、お勉強ができたって、周りから評価されてたって、たくさんの人から慕われたって、今のあたしみたいなことはできない。

 そうでしょ。香月。


「……なんで……?」


 香月の声が震える。

「理解できない」……そんな顔だね。


「ムカついたから」


 にこりと笑って、言い放つ。


「な……何が? わた、私、何か、した……?」


 何度もむつみあった相手が、突然頭をぶん殴ってきたんだ。

 そりゃあ、怖いか。


葉衣瑠ともだちの話はしないでって、前、言ったよね」


 髪を掴み、壁に頭を叩きつける。

 入口に鍵をかけておいたから、誰かが駆けつける心配はない。


「い……ッ」

「二回目は、ないよ」


 痛みにもだえる香月の腕を掴んで、無理やり引き起こす。

 ほっそりと長い指の先で、形のいい爪が鎮座ちんざしているのが見えた。 


「……綺麗な手……」


 ラメ入りのトップコートで仕上げられた、ピンク色のシンプルなネイル。

 ……葉衣瑠の好きな、飴玉みたいな色。


「欲しいなぁ……」


 左手薬指の先から舌を這わせ、爪全体をねぶる。第二関節のあたりにがりりと歯形をつければ、香月のすらっとした肢体がびくりと跳ねた。


「ひ……っ」

「逃がさないよ。もう、あたしのになっちゃったからね」


 ガタガタと震える「獲物」の耳に口を寄せ、クスクスと笑う。

「あの子」と結ばれるはずだった指。「あの子」と約束するはずだった指。「あの子」の心を奪おうとする指。「あの子」と睦み合うための指。「あの子」との未来を掴む指。全部、ぜーんぶ、あたしのもの。


 くっきり浮かび上がった歯形を指先でなぞり、更に上の方へと指を絡めていく。指先の爪にまでたどり着いたところで、つやつやとした綺麗な爪を、とんとんと叩いた。


「今度やったら、これ、貰うから」


 逃がさない。

 葉衣瑠を奪われるくらいなら……


 あたしが、奪ってやる。


「い……いや! やめて!」


 怯えて縮こまる香月の耳に唇を寄せ、ささやく。


「じゃあ別れる? 別にいいよ? 別れて色んな人にあんたの恥ずかしいとこ教えちゃおうか?」


 そういえば、ラブホテルで撮っておいた写真があったな。

 ゴネるなら、チラつかせても良いかもね。


「ち……違う! 別れない! 別れたくない!」


 けれど、首輪をつける前に、獲物は自分から囚われた。

 涙を流しながら、香月はぶんぶんと首を振る。


「大丈夫……大丈夫、だよ。私は真奈を見捨てない……これからも支えるから……」


 何を勘違いしているのか、無理やり微笑んで、あたしを抱き締めてくる。


「だから、落ち着いて……」


 震える身体で、震える声で、香月はあたしを抱き締め続ける。


 バッカじゃないの。

 あたしが欲しかったのは、あんたなんかのなぐさめじゃない。


 涙で濡れた横っ面に平手を打ち、床に引き倒す。

 腹に蹴りを食らわせて、苛立いらだちを紛らわせた。





 ***




「本当に、家に来て良かったの?」

「良いよ良いよ。せっかくの卒業祝いなんだから」


 葉衣瑠は卒業証書を手に持ったまま、振り袖姿であたしの部屋の中を右往左往うおうさおうしている。

 本当ならあたしも一緒に卒業だったのに……なんて、へこんでたのかもね。


 昔のあたしなら。


「あれ? なぁに、これ。ネイルチップ?」

「ん? ああ、それね。最近ハマっててさ」


 テーブルの上の戦利品を見つけ、葉衣瑠の眼がきらりと輝く。


「わあー、可愛い! ……あれ? 枚数、これじゃ足りなくない?」

「そうなんだよねぇー……。あと2~3枚、手に入ってなくて」


 丸くて可愛い、無垢な瞳が、シンプルなそのデザインを眺める。

 ぽつりと、純粋な呟きが零れた。


「これ、香月先輩のに似てるね」

「そ? 気のせいじゃない?」



 ──先輩、男の人と付き合ってるらしいよ


 そう伝えれば、葉衣瑠は「そっかぁ……」としょげた顔をしつつも、素直に身を引いた。


 ──先輩。私達の関係、絶対秘密にしましょうね


 そう囁けば、香月は律儀りちぎにその約束を守った。



 無垢で純真な、あたしの天使。

 鈍感で単純で、おつむの弱い、可愛い可愛い天使。

 葉衣瑠は未だに、何も知らない。

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