2 父と母

「お母さん」

 すうすうと北風が吹き込んでくる壁の隙間に羊毛を詰め込んでいた手を止めて、私は母に顔を向けた。訝しげに振り向いた母の頬に、炎の影が踊っている。

「なに?」

 やっとのことで薪に火をつけることができたのか、母の目元には隠しきれない疲れの色が浮かんでいた。いや、疲れているのはここ最近ずっとだ。ハワードが非業の死を遂げてから、母の顔から笑顔が消えた。最後の望みが潰えた今、母に残されたのは貧困の坂を転がり落ちていくことのみだ。

「お父さんのことを話してほしいの」

「……どうして?」

 私は肩に巻き付けていたショールを椅子の上に下ろし、母の隣にしゃがみ込んだ。

「大狼の襲撃がまた始まって――それで知りたくなったの。今までずっと、お父さんのことを話したこと、なかったでしょ」

 母は黙り込み、ぼんやりとちらちらと揺れる炎に目を落とした。沈黙が訪れる。私は母が口を開くのを待った。炎を見つめ続ける。しばらくの静寂の後、ようやっと母の乾いた唇同士が剥がれる音がした。

「お父さんがどうして死んだのかは、あなたも知っているわよね」

「ええ。大狼に――」

「そうね」

 母は最後まで言わせず、言葉を被せるように口を開いた。

「残していったのは数枚の銀貨と銅貨だけ」

 吐き出すようにそう言って、母は再び燃える薪に目を戻した。私はつめていた息を吐き、ぎゅっと唇を結ぶ。


 あの日のことはあまり覚えていない。私がたったの七歳だったということもあるけれど、無意識のうちに記憶から消そうとしていたのかもしれない。身の危険を感じたカタツムリが殻に閉じこもるように、そうやって心が痛むのを避けていたのだろうか。

 行ってくるよ、と父が言った。小さかったローズが父の頬にキスをし、私は父に甘えるように腕にしがみついていた。そして母が荷物を持たせ、父はいつものように街へと旅立った。ほんの一週間ほどのことなのに、もう二度と会えないような気がして苦しかったのを覚えている。

 気を付けてと言えば、気を付けると父は言い、早く帰ってきてねと言えば、急いで帰るよ、と返してくれた。その叶うことのなかった言葉が耳によみがえり、私はさらに強く唇をかむ。


「――ねえ。お父さんは今、どこに居ると思う?」

 私の口からそんな言葉が飛び出し、私は驚いた。無意識のうちに飛び出した問いだった。父は今、どこに居るのか。その問いの答えはなんなのだろう。母はあっけにとられて私を見ていた。森の緑色をした瞳が揺れている。

 いっそのこと、母にすべて話してしまおうか。父は大狼になっていた。大狼はなぜか二頭いて、そのうちの一頭がローズとフランクを殺した。いや、やめておこう。私は静かに目を伏せた。母が信じるはずがない。そもそも、父が大狼になったという証拠すらまだないのだ。

「どうしてそんなことを聞くの?」

 ふいに母がつぶやいた。顔を上げると、母は青白い顔で私を見ていた。

「お母さん?」

「どうしてそんなことを聞くの」

 母の唇がかすかに震えていた。何も言えない私から、母は無理やり視線を引きはがす。わざとらしく火かき棒で薪をつついている母が、ぎゅっと唇をかむのが見えた。母は、動揺していた。

「……お母さん」

 声がかすれた。私は浅く息を吸い、もう一度質問を繰り返した。

「お父さんは、どこにいると思う?」


 かしゃん、と乾いた音がして、炭となった薪が崩れ落ちた。細かな灰が舞い上がり、炎に乗って煙突に吸い込まれていく。母が息を吸う音が小さく聞こえた。

「お父さんは死んだの。大狼に喰われたの。この世から消えてしまったの。だから、お父さんは――あの人はもうどこにもいない。私たちを置いて、何も残さずに消えたの」

 機械仕掛けの人形のように母の首が回り、ガラスのように何の表情も浮かんでいない瞳が私をとらえる。ね、わかった? と母の唇が動いた。背筋がぞわぞわと粟立ち、体中に虫が這っているような嫌悪が込み上げてくる。

 身体に力を込めて、感情を抑えようと努める。父が死ぬに三年ほど前から感じていた違和感が、今はっきりと形を成した。思えば、ローズが死んだときにも同じ違和感を感じた。


 私が子供だった頃、父と母はよく笑いあっていた。常に楽し気だった。それなのにどうして母はこんなふうに父を否定するのだろう。いつからか、父の名を口にするときの母の声は、まるで汚らわしい毒虫の名を呼ぶかのような色を帯びるようになった。いつから、どうしてなのか。ぐるぐると胸の中でなにかがうごめいている。けれど、それを口にすることはできなかった。私はただ黙ってうつむいた。


 母は、なにか知っているのだ。父に関するなにかを。私やローズが知らないなにかを知っている。それは私たちに知られたくないことで、母自身も嫌悪する記憶なのだ。私はいつになく動揺する母を、これ以上問い詰める気にはなれなかった。もしも、私の知らない父の姿が見えてしまったら。それを知ろうとしない限り、私の疑問が解決されることはないのに。それなのに私は、私の中の父の像が壊れてしまうのが怖い。







※※※※



ルビー、ジャック、エミリアなど、登場人物の中で好きなキャラクターを教えてくださるとありがたいです。

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