3 襲来

 悲鳴と怒声が響き渡り、人々が逃げ惑う影が乱れあう。狼は、血相を変えて散り散りに走っていく人々に、大きく跳躍しながら飛びかかっていく。祭りの明るい空気は消え失せ、地獄のように混乱と恐怖の入り混じった空間になっていくさまを、私は目を見開いて見つめていた。

「ルビー! 早く逃げないと」

 エミリアの大声が響き、私はやっと我に返った。棒立ちの私を引きずるようにして、エミリアとコゼットは走る。私もようやく呼吸を取り戻し、犬に追いかけられた兎のように駆けだした。目を見開き、大きく息を吸いながら走る。止まれば殺される。人々の悲鳴や狼の声が交じり合って、空へ吹き上がっていくようすが目の裏に浮かぶ。背後で短い悲鳴が上がり、私は後ろを振り返る。エミリアが地面に倒れ込んでいた。

「エミリア!」 

 コゼットと共に駆け寄ると、エミリアは大きく手を振った。必死の形相で叫んでいる。細い髪が幾筋か頬にかかり、狂気じみた空気を醸している。

「早く逃げて!」

「駄目よ!」

 二人でエミリアの腕をつかんで立ち上がらせる。エミリアの髪に刺さっていた白い花が抜け、冷たい地面に落ちていく。もう一度走り出そうとしたときだった。すぐ近くで狼の唸り声が響き、鼓膜を揺らした。いつのまにか、狼が背後までやってきていたのだ。

 毛穴という毛穴から冷たい汗が滲み出す。小石を鋭い爪で引っ掻く硬い音が、悪魔の足音のように血肉を凍らせる。考えるまもなく私は二人の腕をつかんで、小さな小屋と家の隙間に飛び込んだ。三人で狭い隙間にしゃがみ込み、息を殺す。

 呼吸を整えようと深呼吸を繰り返した。コゼットが自分の口を手のひらで抑えて震えている。エミリアも蒼白な顔をしながら暗闇を睨んでいた。

 震える手と呼吸。月明かりだけが私たちを不気味に浮かび上がらせている。ジャックの温もりは消え、恐怖と冷たさだけが残っている。沈黙が私たちに牙を剥き、ずぶずぶと肉を破って入り込んでくる。狼はもう去っただろうか。足跡は全くしない。気配すらもない。わずかに腰を浮かした私の袖を、エミリアがきつく握りしめる。目顔で私を必死に引き止める彼女の手に触れ、私はそっと隙間から顔を覗かせた。狼はいない。二人に合図し、隙間から這い出そうとした瞬間、頭上で鋭い爪が屋根を引っ掻く鈍い音が、くぐもって響いた。コゼットが押し殺した悲鳴を上げる。足跡がやんだ。叫び出したくなるような張り詰めた静寂の後、月明かりがふいに大きな影に遮られた。闇に覆われる。獣の匂いと、唸りの混じった息遣いがすぐそばで聞こえる。すぐ側に、狼がいる。視線が全身に突き刺さる。

 見ておかねばならない。ふいに、強い意志がぽつんと芽生えた。姉を殺した化け物を、この目でしっかりと見ておきたい。ここで死ぬのなら、最後に恨みと怒りのこもった目で睨みつけたい。なんの抵抗もできないまま死ぬのは、自尊心と矜持が許さなかった。

 ぱっと顔を向け、狼の顔を両目にとらえた――その時、私は頭を激しく殴られたような衝撃を覚えた。腹を殴られたように息が詰まった。狼は私に牙を剥くことはなかった。唸り声を上げることもない。ただ私を見つめている。永遠にも思える時が過ぎ、狼はぱっと踵を返してどこかへ駆けていった。

 あっけなく狼が去った後も、私は動くことができなかった。自分の目が信じられなかった。わけがわからない。冷たい手で口元を覆う。手で触れた唇が曲線を描いていることに気づく。無意識のうちに、私は笑っていたのだ。やっとわかった。私を支配しているこの感情は、絶望と、そして狂気じみた喜びだった。



「ルビー! 良かった」

 私たちが広場に戻ると、ジャックが駆け寄って私を抱きしめた。反応のない私を心配したのか、ジャックは私の目を覗き込む。安堵の声と泣き声に満ちる広場の真ん中で、私は立ち尽くしていた。ジャックが生きていたことへの喜びが遠くに感じるほど、体の芯が冷え切っている。口を聞くこともできなかった。

「怪我人は?」

 後ろからエミリアが言った。ジャックが答え、私の額に振動が伝わる。

「狼に傷つけられた村人はいない。転んで怪我をしたくらいだ。死者もいない」

「嘘。信じられない」

 エミリアがつぶやいた。誰も傷つけられなかったし、死ななかった。この襲撃の意図は不明だが、誰も傷つけられなかった理由はわかるような気がした。

「ジャック、聞いて」

 私はやっと声を出すことができた。ジャックから離れ、闇にぼやけるその顔を見上げる。唇が震えた。

「あれは、あの狼は」

 気が触れたと思われるかもしれない。それでも、あれは絶対に見間違いではない。ジャックにだけは信じて欲しかった。

「あの狼は、お父さんだった」

 ジャックが大きく目を見開いた。私は何度もその言葉を繰り返す。お父さんだった。間違いなく、あれは父だった。


 だって、だって。前と違った。金ではなく、紅だった。あの瞬間、獣の目が一瞬だけ形を変え、人の目が私を見つめた。その目は黄金ではなかった。私と同じ、幼い頃から大好きだった、紅くて大きな父の目だった。

「信じられない……」

 ジャックが恐ろしげにつぶやく。心の底からは信じていないことが伝わってくる。そんなジャックにもどかしさを感じながら、私は息を吸った。


 私だって信じたくない。受け入れたくなかった。

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