2 指先 ×⭐︎
「ルビー!」
私の大好きなその声が、響きが、空気中で震えて落ちてくる。養分が身体に染み渡るような気がした。私は押さえつけられた腕と足に力を込め、抜け出そうと暴れた。ジャックが扉を破ったことに動きを止めたハワードが、はっとしたように私をもう一度強く押さえ込む。
「……っ」
手首に跡がつくほど握りしめられ、痛みに顔を歪める。
その時だった。何かを殴りつける鈍い音とともに、ハワードが視界から消えた。同時に、壁に頭をぶつけた衝撃音が響いた。私は頭や服に藁屑を張り付かせたまま起き上がり、立ちあがろうと踏ん張る。しかし、腰や足が自分のものではないかのように感覚がなく、立ち上がることができない。私は力なく壁にもたれ、浅く息を吸う。
「ルビーに手を出したらただじゃ済まさない」
ジャックの声が掠れている。今まで感じたことのないほどの怒りを、その後ろ姿から感じた。ジャックの足元には、わずかに刃こぼれした斧が転がっていた。身体から血の気が引く。慌ててハワードを確認すると、彼は壁にもたれたまま鼻から溢れ出る血を拭っていた。生きていることに一安心するも、彼は凄まじい形相だった。怒りと憎しみに目を光らせ、荒い息を吐きながらジャックを睨みつけている。その緊迫感に、肌がちりちりと傷む。
「失せろ」
ジャックが言い、ハワードはのろのろと立ち上がる。私とジャックを恐ろしい目で一瞥した後、無造作に置かれていた水桶を思い切り蹴り飛ばした。空洞に音が反響する虚しい音を響かせ、水桶は藁の上に転がる。ジャックに壊された扉を押し、荒々しく出ていった。
ジャックがこちらを振り返り、さっと膝をついてしゃがみこむ。
「大丈夫か」
私はきしむ首を曲げ、どうにか頷く。
「コ、コゼットに、あなたがここで待っていると言われたの」
「知ってる。真っ青になって教えてくれた。ジャクリーンから伝えろと言われたらしい。コゼットは何も知らなかった」
ジャクリーン。雌牛のように穏やかで優しい、茶色の瞳を思い出す。フランクの亡骸に縋り付く、小刻みに震える細い肩も。ジャクリーンは、納屋で待っているのがハワードだと知っていたのだろうか。知っていたのだとしたら。すうっと血の気が引いていくのが分かった。
「怖かったな」
そう言って私を静かに抱きしめた。慣れ親しんだにおいと、大きな存在感を感じた瞬間、私は震え出した。止めようとしても止められなかった。悪夢を見た幼い子供のように、全身が震えている。歯がかちかちと鳴った。ジャックの腕を掴み、自分を支えるように力を込める。ジャックは何も言わずに、さらに強く私を抱く。
ああ、私は怖かったのだ。
覆い被さってくる巨大な影も、身体に触れる細い指も、太い棒錠も、全てが怖かったのだ。自分が震えていることを、他人事のように感じながら私は思う。同時に、火で炙られるような屈辱と悲しみが押し寄せてきた。あの男に触れられた場所全てが焼きつくようだ。粉々に砕かれかけた身体と心が、救いを求めて喘いでいる。まるで自分が汚物の塊になったかのようで、今すぐに清らかな何かに触れたい。
「――キスして、ジャック」
見上げると、ジャックの大きく見開かれた緑の瞳にぶつかる。私は黙ったままその目を見つめ返す。大胆な自分の発言に驚きながら、私は覚悟を決めた。
ためらいがちに伸ばされたジャックの手が、頬に触れた。壊れやすい陶器を扱うように、武骨な指が顎を押し上げる。控えめな口付けが、じんわりと染み渡っていく。顔が離れ、お互いの吐息が甘く混じり合う。
「あなたを愛してる。ハワードなんかどうでもいい。そばにいて欲しいの」
身体を起こし、そっとジャックにキスをする。呆れるほど幼く、頼りない触れ合い。それだけでも泣きたくなるほど暖かい。ジャックだから、私が愛する人だから、こんなにも心地よい。
「俺こそ君だけだ」
ジャックが真剣な眼差しを私に向けた。
「――証明してみせて」
試すように微笑み、芝居がかった口調でささやく。ジャックは照れたような笑いを浮かべ、わかった、と小さな囁きが耳をくすぐった。声を上げる間もなく、私の呼吸が奪われる。深い口付けに、何もかも溶かされていく。これまでにない熱く丁寧な口付けに、身体中の血が沸き立つようだ。
唇が離れ、一瞬だけ目が合った。それもすぐに離され、耳元に、首筋に、鎖骨に甘い花が咲く。ゆっくりと乾草の上に押し倒され、もう一度キスされる。
「誰か来たらどうするの?」
ぼうっとした頭で言うと、ジャックはふっと微笑む。
「来ないさ」
指先が絡み合い、お互いの存在を確認するように力がこもる。熱と、呼吸と、心臓の鼓動が私を震わせる。私は手を伸ばし、ジャックのシャツのボタンに手をかける。一抹の迷いが浮かんだが、それもすぐに弾け飛んだ。ひとつひとつを丁寧に外していくと、やがて大きくえぐられた傷跡があらわになった。新しい皮膚がはっているものの、まだ生々しく残酷さを物語っている。胸がずきんと痛み、思わずそっと指先で触れた。
「――痛い?」
ジャックはふっと微笑み、私の頬を撫でる。彼の緑の目は、甘く優しい光を浮かべていた。吸い込まれるように視線が絡み合う。
ジャックも私も何も言わなかった。言葉はなくとも、優しく髪を撫でる手のひらや、気遣うように触れ合う唇から、甘くて濃密な思いが伝わった。ただ、幸せだった。これまでの暗い毎日を忘れるほど、私は淡く曖昧な世界に浮かんでいた。このままずっとこうしていたい。
姉やフランクの顔が浮かぶ。姉もフランクも、死ぬような歳ではなかった。彼らは、こうした幸せな時を過ごさないまま逝ってしまったのだ。罪悪の念が邪魔をする。透明な月の光が、かすかな輪郭だけを残して私たちを照らしている。
「ルビー! ジャック!」
宴もたけなわのころ、私たちは広場へと戻った。コゼットとエミリアが大きな声で私たちを呼ぶ。駆け寄ってきたコゼットの顔は、全く血の気がなく、不安に震えていた。
「ごめんなさい、ルビー。酷いことされなかった?」
私はコゼットに微笑んでみせた。
「大丈夫。ジャックが助けに来てくれたから」
ちらりと彼を見上げると、ジャックは照れたように顔を背け、酔っ払っている男たちの輪の中に入っていってしまった。賑やかに話しているジャックを見つめながら、エミリアがそっと囁く。
「ジャックったら、あなたが納屋に行ったって聞いた途端真っ青になったの。あんなにびびってたジャックは初めてね」
コゼットもようやく笑顔を取り戻し、いたずらっぽく私の頬を突いてみせた。
「二人で何をしてたの?」
私もにやっと笑い、わざと妖艶な口調で呟いた。
「納屋の干し草の上の上にいた」
コゼットもエミリアも目を見開いて私の肩に手を置く。
「やったわね」
その時、広場から離れたどこかで、木が折れるようなめきめきという音が響き渡った。甲高い悲鳴が後を追うように共鳴する。ざわめいていた村人は口をつぐみ、ハープもフィドルも歌うのをやめた。
「どうしたのかしら」
エミリアが不安げに呟いたのと、松明が作り出す光の中に、大きな四つ足の影がさしたのは同時だった。かしかしと爪がレンガを引っ掻く音が不気味に空から降ってくる。
誰かの悲鳴が上がった瞬間、巨大な狼は砂埃をあげて広場に着地した。松明の光を背負って、狼は太い唸り声をあげる。鋭い牙が残忍な光を放つ。足元から身体が凍りついていく。私の視界から狼がぼやけて消えていく。目の前が真っ赤に染まり、頭の中に姉の細い声が反響する。仇を目の前にして、私はどうしようもなく動揺していた。
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