押せなかった降車ボタン

ふゆ

押せなかった降車ボタン

 ギラギラした真夏の太陽が、容赦なく地表を照らしている。辺りに充満した熱気で風景が揺らぎ、虚と実が交錯しているように見えた。

 あの出来事も、陽炎が作った幻だったのかも知れない。


 急いで乗り込んだ電車は、冷房の効きが悪く、生暖かい空気が身体を包み込んだ。

 残業続きで疲労が溜まっている上に、汗かきの私には地獄以外の何ものでもなかった。

 一時間余りの苦行に耐え、目的地に着いた時、ようやく暑さから解放されたと安堵した。しかし、改札口を抜け表に出ると、今度は真夏の太陽の洗礼を受けた。

「参ったなぁ」

 身体中から汗が吹き出した。アスファルトの照り返しに目を細めながら、陽炎に揺らぐ風景の中に路線バスの停留所を見付けると、足早に歩いて行った。

 直射日光を受けたベンチは、人が座るのを拒むかのように熱かった。恐る恐る腰を下ろし、リュックからペットボトルの水を取り出すと、一気に飲み干した。

 身体中に心地いい冷感が拡がっていった。


 突然の大きな声に、はっとして我に返った。

 数人の学生が、私の横で騒いでいたのだ。気が付くと、いつの間にかバス待ちの列ができていた。

 大都市のベッドタウンとして開発された新興住宅地は、多くの人々を飲み込み、更に奥へ奥へと拡がっている。

 私が紹介された分譲地も、この路線バスに乗って、終点まで行かなければならない。

 サウナから出てきたような熱気をまとったバスが、ぐるりと車回しを回って、停留所の前に停まった。

 乗降口が開くと、並んでいた人々が、蛇が身体をくねらせるように、バスに乗り込んでいった。

 暫くすると、陽炎に揺れる幹線道路に向かって、バスは走り出した。

 私は奥の席についた。悪い予感が当たり、学生達が私の前に陣取ると、バカ騒ぎの続きを始めた。

「ついてない」

 仕方無く、窓の外の延々と続く集合住宅の棟ナンバーを数えて、気を紛らした。

「ピンポーン! 次、停まります」

 降車ボタンが押された。

 バスが停留所に着くと、傍若無人に騒いでいた学生達が、バスから降りていった。

「助かった」

 急に静かになったバスは、何事も無かったかのように、走り出し、規則正しく停留所に停まると、次々と乗客を降ろしていった。

 とうとう乗客は、私1人になり、次が終点となった。

 外の風景はがらりと変わり、更地や建築中の建物ばかりになった。

 「外はまだ灼熱地獄なんだろうな」。私は憂鬱になりながらも、降りる支度をした。

「ピンポーン! 次、停まります」

 誰かが降車ボタンを押した。

「あれ、おかしいな、誰が押したんだろう?」

 私は、前方を見渡したが、やはり乗客らしい人は誰も居なかった。

 不思議に思いながら、バスが終点に着くと、降り際に運転手に尋ねてみた。

「さっき降車ボタンが押されましたね。私は押してませんが……」

「ああ、すいません。孫が押したんですよ」

 そう言うと、私の後ろに視線を移した。私もつられて振り返ると、最前列の席に、確かに男の子が座っていた。

「そんなバカな。さっきまで誰も居なかった筈だ」

 すると、混乱する私の目の前で、その男の子は、みるみる透明になり消えていった。

「えっ?」

 私は自分の目を疑い、反射的に運転手に問い掛けた。

「今、ここに座っていた男の子が消えましたよねっ!」

 しかし、振り返った運転席には誰も座っていなかった。

 混乱した私は、悲鳴を上げて、その場に崩れ落ちた。


「もしっ、もしっ、大丈夫ですか?」

 誰かが、私の身体を揺さぶっていた。

「大丈夫ですか、しっかりしてくださいっ!」

 私は、はっとして目を開けた。一瞬、太陽の直撃で、目がかすんだが、徐々に周りの景色がはっきりすると、状況が把握できた。

 いつの間にか、私はベンチに座ったまま眠り込んでいたのだ。

「よかった、気が付きましたね」

 初老の男性が、心配そうに私を覗き込んでいた。

「うなされていたようですが、身体の具合でも悪いのですか?」

「あっ、いえ。バスを待っている間に、疲れから眠ってしまったみたいです」

「そうですか、それならいいのですが…… でも、この路線は動いていませんよ」

「えっ?」

「数日前に事故がありましてね、今は運行を停止してるんです」

「事故ですか?」

「ええ、終点近くで工事のトラックとバスが衝突しましてね、残念なことに運転手と、そのお孫さんの男の子が亡くなりました。運転手の男性は、定年前の最後の運転だったらしく、お孫さんにせがまれて同乗させていたようです。終点近くになって、他の乗客が全て降りた後に、ずっと我慢していた降車ボタンを押してもいい、と男の子にねだられ、ああいいよと嬉しそうに返事をする二人の微笑ましい姿が、ドライブレコーダーに残っていました」

 その初老の男性は、声を詰まらせ、うつ向いた。そして、暫く沈黙した後に話を続けた。

「男の子が降車ボタンに手を伸ばしたその時、いきなり正面から大型トラックが突っ込んできたんです」

「その二人だ!」

 私は、おもわず叫んだ。

「あなたが今話された男の子と運転手の男性を、私は眠っている間に見たんです」

「ああ、やはりそうでしたか。実は、その事故で亡くなった男の子と運転手の霊が、このベンチに座った人の意識に現れるようなんです」

「何ですって? すると、成仏できない魂が、この辺りに彷徨っていると言うことですか?」

「そのようです。男の子は、よほど降車ボタンを押したかったのかも知れません」

 その初老の男性は、再びうつ向くと、肩を震わせ絞り出すように、言葉を発した。

「私が、居眠りさえしなければ……」

 そう言い残し、その初老の男性は、陽炎のように揺らぎながら姿を消した。


 気が付くと空にはギラギラした真夏の太陽が輝き、周りの風景は熱気で揺らいでいる。

「参ったなぁ」

 近くでバス待ちしている学生達が騒いでいる。

 私はペットボトルの水を一気に飲み干した。

(了)















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