人魚、蜃気楼を追う
「そこのボク、水を恵んでくれないか」
声のした方へ顔を向けると、女の人がいた。
もう長いこと使われていない、廃線になったバス停のベンチに座り、足を組んで気だるげにこちらを見ている。
日に晒された素足には、まだらに乳白色の鱗が露出している。その一つ一つが朝日を受けて、金色に煌めいていた。
「ボク」は実物に出会えたことはないが、本の知識で知っている。
陸に上がってきた人魚は、時折肌の表面に鱗を露わし、そこに水を受けることで乾燥による痛みを和らげているのだと。
彼女は、人生で初めて見る人魚だった。
「うっかり切らしてしまってね。
帰路に着くには遠く、小銭の持ち合わせもない。何より、痛みが酷くて一歩たりとも歩けそうにないんだ」
人魚は、文字通り白魚のような指で、道の先を示した。
「何も買ってくれとまで言わない。
そこにあるのでも十分だ。飲むわけでないしね」
「ボク」はそれを目で追ったが、何処にも水らしきものは見当たらない。
困惑する。が、彼女が幻覚を見るほど弱っていると思うとぞっとしない。
慌てて数メートル先の自販機に走り、100円の天然水を買った。
「本当に買ってくれなくて良かったのに」
息を切らしてペットボトルを差し出す「ボク」に、今度は彼女が困惑していた。
「自分で持てますか?」
「悪いけど、腕を動かすのも痛む。
鱗に少しずつ注いでくれるかな。コーヒーにミルクを垂らすような細さでいい。そう」
言われるままに、恐る恐る水を垂らす。
すると、鱗に水が染み込んでしっとりとしていくのが、目に見えて分かった。
「ありがとう。もう十分だよ」
人魚は手のひらを押し付け、ペットボトルを制止した。
「助かったよ、ボク。親切にどうも」
「その、痛みは?」
「もう大丈夫。……でもできれば、その残りを貰えると有難いかな」
「いくらでもどうぞ」
まだ半分ほど中身の残ったボトルを手渡そうとしたが、人魚は受け取ろうとしない。不思議に思って彼女の顔を見ると、その視線は遠くを見つめていた。
「ボク」はちらりと横を見やる。人魚が見ているのは、さっき指し示していた場所だった。
つまり、彼女が「水のある場所」として指していたところ。
「……ない」
彼女は呆けた顔をしていた。
「水が、ですか」
「ボク」の言葉に頷くこともなく、彼女はうわ言のように呟いた。
「水を切らしたせいで、足が痛くて困っていた時だ。大きな水場を見つけたんだ。
掬って鱗にかければ痛みも和らぐだろうと近づいても、たどり着きやしない。
そのうち足の方が耐えられなくなって休んでいたら、ボクが来てくれたというわけさ」
人魚の言葉に、ようやく合点がいった。
「多分それは、逃げ水というものです」
効きなれない単語なのか、彼女は曖昧に首を傾げた。
「蜃気楼の一種です。道いっぱいに水があるように見えて、近づいてもまた遠ざかったところに水が見えるっていう現象で……」
「その、蜃気楼というのは」
「……ええと。幻、みたいな」
そこで人魚は空を仰いだ。
「幻ねぇ。幻、幻」
果たしてどんな心境でいるのか、彼女は喉を鳴らして笑っている。笑いながら、
「それで死にかけるなんて、笑えないな」
なんて、おどけていた。
ひとしきり笑った後、人魚は立ち上がった。
まるで人間のように、彼女は何ともない様子で自立している。
「ありがとう。この恩は近いうちに必ず返す。
しばらくこの近くのゲストハウスに身を寄せてるから、そのうちまた会えるさ」
この近くにゲストハウスなんてあっただろうか。頭の中で地図を思い浮かべる「ボク」に、ふと人魚は尋ねてきた。
「そういえば、ボクはこんな時間に何の用があったのかな。
時間を取らせてしまっていたら申し訳ないけど」
それで、「ボク」は気づく。スマホの時計を慌てて見れば、時間は6時48分。
そういうわけで、「ボク」はこの日、人生で初めてラジオ体操を休むことになった。
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