バイバイ、マイハッカー

飯田太朗

第1話 音楽は死んだ。

 バーイバイミスアメリカンパイ……

 私が空港から飛び立つ時に聴いていた曲だ。ドン・マクリーン。マドンナがカバーしていて、私はマドンナの方を聴いていた。この曲はマーベルの映画『ブラック・ウィドウ』でも使われていて、故郷への哀愁を呼び起こす一曲なのだが、とんでもない。私は恨みを込めてこの曲を聴いている。

 私の親友はパイという。セシリナ・パイ。ちょっと前まで私の親友。正確には一週間と二日と十時間前。朝の八時に私の社用メールに通知が来た。

〈エミリー。残念だけどあなたにこのお知らせをしなければならないわ。あなたはとても優秀で、我が社にとって必要な人材なのだけれど……〉

 私が今開けようとしているこのチョコドーナツを賭けてもいいけど、あいつは少しも残念だなんて思ってない。むしろ私を追い出せて清々してるはず。悲しんでいるかもしれない? はん、残念。ドーナツはもう食べちゃいました。

 あの鼻のクソでかいバカ女。鼻がでかい男はアレもでかいって聞いたことあるからきっとセシリナの股間にもアレがついてるに違いない。そうじゃなけりゃあんなポッと出の男に釣られて私を追い出すなんてことしないはず。何よ。「私はマクギーの言うことを支持するわ」なんて。セシリナのやつ、マクギーにアソコ開発されて脳みそがアレとセックスのことしか考えられなくなってるに違いない。

 ため息をひとつつくと、私の隣の席に座っていたパパが日本語でこう訊ねてきた。私はイヤホンを外す。

「寂しい?」

 私は日本語で答える。

「全然」

「セシリナちゃんと喧嘩したのかい?」

「喧嘩ってほどじゃないよ。日本に着いたらメッセージ送るつもり」

 ウィルス入りのやつをね。あいつのパソコンに入ってるとんでもねーのを世界中に発信してやる。

 さて、離陸。

 私はいくつになってもこのフワって感じが好きじゃない。ジェットコースターも嫌いだしバンジージャンプなんて以ての外。あんなの考えたやつ頭イカれてるとしか思えない。何だっけ? アフリカかどこかの未開の民族が成人の儀式か何かでやるやつでしょ? そんで文明を放り投げてその辺の草かじってるようなエセ環境活動家だか、それとも裸で槍持ってウホウホ踊っているような民俗学者だかが「私たちも」なんて始めたのがバンジージャンプだ。要するに、まともな人間のすることじゃない。少なくともスマートフォンを使いコンピューターで仕事をする人間向けの概念じゃない。

「英美里」

 パパがこちらを見てくる。

「お前ももう十七歳だろう」

 そうやってポケットから取り出したハンカチで私の口元を拭う。

「チョコレートがついてるぞ」



 私が初めてコンピューターに触ったのは五歳の頃だ。

 父がジャンク品で買ったMacBookを触った。別に敬虔なApple信者というわけではないのだが、幼い子供は何かとすぐおもちゃを壊す。そして壊した時に、MacBookならその辺の街にも非正規の修理屋がゴロゴロある。そういう店は大抵中古品でも即日で修理してくれる。だから父はMacBookを選んだ。

 だから最初はMacしか触ったことがなくて、パパが会社でWindowsのコンピューターを使っていることは知らなかった。初めて「パソコンにも種類があるらしい」ことを知った私は父に頼み込んでWindowsのパソコンも買ってもらった。そうして私は、人間よりも先に二台のコンピューターとお友達になった。

 初めてプログラミングをしたのは幼稚園を出る頃だったと思う。

 レトロゲームを作った。2Dで上下左右にしか動けないやつ。空から降ってくるフルーツをどんどんカゴに入れていくゲームだ。やってみればそれは簡単に作れた。男の子がブロックでお城を作るようなものだ。

 他の子がピアノをやったりチアをやったりする中私はキーボードを叩いていた。両親は私が興味関心の探究に困らないよう最善を尽くしてくれた。

 そしてある日、母が死んだ。

 実は私が十歳の頃から母は癌を患っていた。そして母は私が十三の頃、家族に見つめられて息を引き取った。

 信じられなかった。私にケーキを焼いてくれ、私に人生の楽しみ方を教えてくれた母が、あんなに簡単に息をしなくなるなんて、到底信じられなかった。

 この頃からだったと思う。私が家の中に閉じこもって、ネット世界の徘徊を……あてもない放浪を始めたのは。

 ネットワークセキュリティに興味を持ったのもこの頃だ。

 私は深い電子の海のその底に母の面影を探していた。深く潜ればそれが見つかるんじゃないかと思っていた。そうして幸せな家庭の、幸せそうな画像を求めてSNSの中に飛び込み、世の中には大事な大事な家族の情報を惜しげもなく世界に公開する人たちがたくさんいることを知った。そして、そう……私はそういう人たちが羨ましかった。

 初めてハッキングをしたのは、確か「ママなんて死んじゃえ!」とSNS上でつぶやいていた友達のアカウントを乗っ取るためだったと思う。

 その子はママに逆らってる自分がかっこいいと思ってる節があった。でもどうだ、試しにこの子のアカウントを割って中に入ってみれば、毎朝毎晩、DMでママに「愛してるよ」の一言。ムカついた。こちとら甘えたくても甘えられないのに、何だこいつは。不愉快だった。だから晒した。

 その子のママとのやりとりが全世界に公開された。その子はもちろん、友達からからかわれいじられるようになったけれど、そんなの知ったこっちゃない。私は自分の渇きをぶつけた。その結果として誰かが枯れることになっても構わなかった。

 まぁ、ともあれ。

 私のハッカーとしての人生はそこから始まった。私は色んなところに潜り込んだ。州の住民登録システム、学校の成績管理システム、そういうところで力をつけた。やがてアングラな組織のコンピューターや芸能人のプライベートなパソコンまで、本当に手当たり次第に割って入った。

 FBIのシステムに入り込んだのは十四の時だ。意外とあっさり入れた。いや、入ること自体はすごく簡単だったのだが、後片付けがしにくい環境だった。しかし今にして思えば、その辺りも犯罪者を捕まえるトラップだったのかもしれない。

 とにかく、十四の秋、私は政府システムへの不正アクセスで逮捕された。証拠はバッチリ残っていた。

 パパはひどく動揺したけど、そこはFBI。私の犯罪がパパの人生に影響を及ぼさないようにする代わりに、私を利用することを思いついたらしい。

 テロ組織のシステムへ入り込んでテロ行為の証拠集めをしてこいと言われた。テロ容疑だけじゃ引っ張れない。確実な証拠があればテロリストどもを豚箱にぶち込める。そう言われた私に選択肢はなかった。私は私とパパの人生を賭けてハッキングをした。そしてそう、成し遂げた。

 テロリストたちが逮捕され、私は晴れて自由の身となった。そしてこの時、私はFBI専属の心理カウンセラーから「自分の才能を活かした仕事をしてみなさい」と言われた。かくして私はネットワークセキュリティの会社を立ち上げた……数少ない、親友のセシリナと共に。

 それが、どうだ、今や、あのバカ女のせいで。

 日本に行くことになっても会社の経営自体は問題がなかった。今やネットで地球の裏側とまで繋がれる時代だ。日本にいながらアメリカの会社を転がすことくらいできる。なのに、セシリナのやつが、いきなり、突然、私を突き落とした。私は経営者の立場を追われ、こうして何もない十七歳のクソガキとしてパパに付き添われて飛行機に乗っている。



「日本には後どれくらい?」

 私が英語で訊くと、パパは一瞬目を瞬かせ「ん?」と聞き返してきた。あ、日本語スイッチ入ってる。そう思って日本語で聞き直した。

「日本には後どれくらいで着く?」

「お昼寝して目覚める頃には着いているよ、エミリー」

 私はエミリーとも呼ばれる。シンプルに「英美里」をアメリカナイズドさせただけだが、それなりに気に入っている。パパもこうして私に使うあたり、好きな呼び方なんじゃないかな。もしかしたら私の方でリスニングの区別がついていない説はあるが。

「だいたい三時間くらい? もっとかかる?」

 ちょっと大袈裟に言ってみた。三時間も昼寝したらぶっ壊れるけど。

「結論を急いじゃダメだエミリー。君の悪いところだよ」

 パパにそう言われ、私は胃袋に入ったチョコドーナツに思いを馳せる。まぁ、これが私の中に消える頃には着いているか。そう納得してシートの中に体を沈める。

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