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 そして。

 次の夏が来て、わたしは海辺にいた。

 IHクイズで、今年こそ、語堂率いる開奈女子を打ち負かすために。

 順調ではあった。わたしたち花子高校も開奈女子も、ステージによって勝ったり負けたりしながら、関東から全国への切符を掴んでいた。

 三連覇に王手をかけた私立名門の天才・語堂茶莉と、公立のジャンヌ・ダルクとして不本意に目立った有澤野々子。この対決がエンタメとして望まれている雰囲気は、感じていた。

 上等だ。誰の食い物にされる気もないけれど――

『問題。1978年、第一回日本アカデミー賞で、最優秀主演男優賞を受賞したのは高倉健ですが、助』

「武田鉄矢」

『正解です、県立花子高校・有澤! 開奈女子を逃がしません!』

 ――こっちはこっちで、勝手に盛り上がらせてもらう。

 海風の向こうに見える都会のスカイラインはどこまでも続く未来を想起させた。高校生たちの祭典の場で、わたしは、そこに辿り着けない少女と向かい合っている。

『問題。よく聴いて答えなさい。今から流れる曲のタイトルは何』

 音楽問題――わたしは耳を澄ます。ボタンに手のひらを置いたまま。一秒。二秒。なかなか流れない、この僅かな間すら焦れったくて仕方がない――

『おっと押したぞ! まだ一音も流れていない中で開奈女子、語堂! どういうことか、答えは!』

「『4分33秒』」

 やられた――これだけの舞台で機材の不調などあり得ない。早押しクイズで「今から」と読んでからプレイヤーを数秒たりとも待たせていいわけがなく、であれば、既に曲は流れているということ。

 性格の悪い方が早く問題の意味に到達できる、それだけのクイズだ。

 そして……マイクから手を離し、汗を拭くふりをして目元をカメラから隠しながら、わたしの方にウィンクを飛ばした語堂が相手では――分が悪い。

 でも、それだけだ。もういい、気にしても仕方ない。

 切り替える――眼鏡をくいと上げると、視界が晴れる。

『問題。沖縄独自の季節感を指す言葉であり、旧暦』

 わたしは身を乗り出してボタンを押した。

 語堂が一瞬だけ目を瞠り、そしてすぐに、唇の間に歯を覗かせる。

 もう勇み足はしない――クイズの答えになるとしたら「うりずん」か「若夏」、それぞれ旧暦で二~三月と四~五月を指す。だから、「旧暦」の後の一音を聞かないと押せないはず……だけれど。

 答えが「若夏」なら、「歳時記に載る季語である」と説明を入れるはずだ。わたしが出題するなら――その情報を加えないと、早押しのための情報の出し方が綺麗な問題にならない。

「うりずん」

 今なら、わかる。

 語堂は、わたしに負かされたかったのだ。

 有澤野々子すら自分を上回ることはないのだと、あの時、語堂茶莉は絶望したのだ。

 馬鹿にしやがって――!

 回答は、正解だった。須藤と新間の手のひらが熱を帯びていくのを、背中で感じる。何もしなくていいから、わたしが勝たせるから――とは言ったけれど、一秒だって時間が惜しい三年生の夏に、こんなところまでついて来てくれている。わたしには勿体無いくらい、いい仲間を持った。

 語堂。

 お前の孤独に、わたしは共感してやれない。

 その代わり、全力で――まだまだ勉強不足だと、突きつけてやる。

『問題。1600年、日本に初めて漂着したオランダ船リーフデ号の乗組員だったヤン・ヨーステンが名前の』

 風が、一瞬だけ止んだ――違う。教科書に載る名前ならウィリアム・アダムスかヤン・ヨーステン。アダムスの国籍ならイギリス。リーフデ号から取り立てられた装備が用いられたのは関ヶ原の戦い。回答になり得る単語が多すぎて、わたしの脳が一瞬、煮えたのだ。

 押していたのは語堂だった。

「八重洲」

 一閃――だった。

 ひやりと冷たい刃を握った語堂が、わたしの首をすぱりと落としたような、そんな錯覚。

 この一問は、完敗だ――ヤン・ヨーステンから繋がるなら、答えはそれしかない。

 ほんの数十秒前のわたしの思考が恥ずかしすぎる。

 未だに、想像できなかった。こんなにぎらついている語堂茶莉の脳が、もう間もなく錆びつき始めることなんて。

『問題。石炭紀に地上で繁栄した巨大な節足動物の一種で、和名をコダイオオ』

「アースロプレウラ」

 取り返す。食らいつく。

 ずっと思っていた――クイズは、何も生み出さない営みだと。

 予め用意された、それも事実でしかない情報を、たまたま知っていたか、たまたま思い出せたかを競うだけの競技だ。

 でも――違う。

 この一瞬は、語堂茶莉の記憶からはいつか消えてしまうのだとしても、わたしの知性が、わたしとあいつの知性のぶつかり合いが、今ここでこの熱を生み出している。

 それだけで、わたしはクイズをやってきた価値があると思った。

『問題。あることが禁止されるとかえって』

 押そうと判断したのは同時だった――きっと間違いなく。

 ただ、わたしたちの脳を感電させているこの快感が、どちらの指先までほんの一瞬早く届いたかという、それだけの話。

「カリギュラ効果!」

 答えを叫ぶ権利を手にしたのは、わたしだった。

 取りこぼしはしない。奇跡のようなこの一瞬を――

「よしっ」

『正解! 珍しくガッツポーズが出ました! 逆襲に燃える花子高校・有澤!』

 腰まで伸びた長い黒髪を、去年のわたしのようにポニーテールにした語堂は、そんなわたしを見て嬉しそうに目を細め、身を屈めてボタンの上で両手を重ね合わせた。

 油断してんなよ。来いよ。

 このわたしが、倒してやる。日本全国の見守る前で。

 お前が、光みたいに誰にも触れられず三年間を駆け抜けていった謎の天才なんかじゃなくて――必死に知識を詰め込んで戦ってた人間だったんだって、証明するために。

 『問題』

 わたしはジャンヌ・ダルクじゃない。神の声なんて聞こえない。

 語堂に叩きつける回答は全て、あいつが愛したわたしだけの知性だ。

 カメラの前で、わたしたちが言葉を交わすことはなかった。

 ただ口から発する回答だけで、わたしたちは殴り合った。

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