小屋の話

縁田 華

在りし日の影を見つめて

 これは、1999年○○県で僕が体験した話だ。当時の僕は県立高校の二年生。八月も半ばの頃、母の田舎にやってきた。そこは××村という場所で、僕が住んでいるところより更に田舎なのだ。母の実家から一番近い、錆びついたバス停でも歩いて十五分はかかり、平日は一日四本、土日祝日は一日に二本しかない。最寄り駅は徒歩で一時間、歩いている間中僕は雑草だらけの舗装された道路を歩く羽目になるから、正直言ってつまらなかった。駅の近くは通常栄えているものだが、最寄りの○×駅にはカラオケ屋もゲーセンもスーパーもない。コンビニと小さな薬局、それとバス停、タクシー乗り場だけがロータリーにあった。小学校も、車を使わなければまともに通えない程遠いからか、スクールバスが運行している。当然ながら、最寄りのコンビニもスーパーも歩いて三十分以上かかる。特に、スーパーは隣町に行かなければいけない上に、電車に乗らなければならないので一時間半かかるということもザラだ。そのスーパーが大型で、ゲーセンなんかがあるところなら良かったのだが、そんなことは全くなく、地元のより少し小さい規模の、品揃えも僕から見たら悪く見えるようなところだった。何しろ肉も野菜も魚も、缶詰に瓶詰め、スナック菓子に果ては調味料、細かいところでは調理用ミックスや冷凍食品、ヨーグルトにチーズ、パンなども。必要最低限に毛が生えた数のラインナップしか置いてはいないのだから。僕が気に入っているスナック菓子がこのスーパーでは手に入らない、と知った時の絶望感はどれ程のものか、読者の皆さんには想像もつかないだろう。




車窓から見る風景は、悲しいかな長閑な田園風景で面白くもなんともなかった。田舎ということもあってか、建物はおろか家の姿もあまり見当たらない。窓からは麦わら帽子を被り、「漢気」と勢いのある字が書かれた黒いTシャツに、首にタオルをかけながら農作業をしている人が一人見えた。帽子の下にはあまり髪の毛が見受けられない。刈り上げだからだろうか。僅かに見える髪の色は黒で、少し老けて見える。白髪は遠くからというのもあり全く見受けられない。彼は、少し錆が目立つ赤いトラクターの側でペットボトルの中のスポーツドリンクを飲んでいた。地面は一面緑色でほんの少しだけ焦茶色が見える。育てているのはトマトなのか、鮮やかな赤が畑を彩っていた。その他にも田畑が続く、つまらない風景が続き、僕と母は二時間かけて漸く目的の駅に着いた。





小さなタクシー乗り場からタクシーに乗り、再びつまらない景色を見始めた頃、空は朱色に染まっていた。車自体は田園を走っている訳ではないのでまだいいが、今度はかつては鮮やかな色だったであろう、今は色褪せた看板を掲げ、シャッターが閉まった商店が二、三軒に木造校舎の小学校といった別の意味でつまらない風景が見えて来る。チラッと見えたが、小学校の校庭にはブランコを除いた遊具が少しだけある。あまり見かけない、タイヤの遊具や砂場にジャングルジム。滑り台はジャングルジムに接続しているようだった。他にもうんていや上り棒もある。懐かしいなあ、と思いながら僕は再び前に向き直った。どれくらいで着くんだろうか、と思いながら。ふと、通り過ぎた景色の中に小さな小屋があるのを思い出した。普通なら山の中にありそうなものだが、ところどころ蔦が絡まっていて、一見何なのかが分からなかった。蔦が割れた窓ガラスにまで絡みついているあの小屋は、もう随分長いこと使われていないようだった。毎回通り過ぎる度に何だったんだろう、と思うが聞きそびれる。そんなことを繰り返していた。




「よう来たねえ、恭平くん。和子、おかえり」

「ただいま、お母さん」

「こんばんは、ばあちゃん」

この挨拶をしている時間はもう夜の七時、晩御飯の時間だ。かなり遅く来たにも関わらず、祖母は笑顔で迎えてくれた。外灯はきちんと点いていて、遠くからでも分かるが部屋の電灯も点いている。無機質な白からして蛍光灯だろう。僕と母は祖母に連れられ、玄関へと入っていった。




居間のちゃぶ台の上に用意された食事からはいい匂いがこれでもかというくらい漂っていた。四角く分厚い皿に盛られた鮭のバター焼きに、ブナシメジと細かく切られた大根、それと木綿豆腐が入った味噌汁、イカときゅうりの酢の物。そして麦ご飯。箸も茶碗も各々サイズ、色や模様が違う。僕の箸は黒檀のような焦茶で、溝も何もない。小学校時代の給食の時間に使っていたものとほぼ同じようなものだ。茶碗は小さい頃とは違い、中学に上がった頃に買い替えたものだ。青い魚の模様が描かれていて、家にあるやつよりかは少し小さい。食卓の上にあるものはまだ出来立てだからか、湯気が立ち上っていた。僕達は一斉に、

「いただきまーす」

と食前の挨拶をし、料理に箸を伸ばした。






祖母が作るモノに無駄なものは何一つ入っていない。材料の魚や野菜は勿論のこと、調味料だって天然素材にこだわっている。出汁一つとってもちゃんと鰹節からきちんと取っていた。今日もそうだ。味噌汁の鰹出汁ときのこの出汁が効いている上に、味噌特有の塩と豆が組み合わさったまろやかな味がする。味噌は自家製で、僕の母が普段使っている大手食品メーカーのものとは全く違う味わいがある。塩がきついのは確かだが、それだけ調味料として使いこなせれば深い味わいのものが出来上がるということでもあった。

祖母は口癖のように、

「最近の若いもんは、やれ缶詰だの調理ミックスだのと……。いかんねぇ……」

と言っていた。

「しょうがないよ、昔と今は違うんだし」

そう返すのがお決まりだった。




食卓を彩る鮭、酢の物、更には麦ご飯に味噌汁。何一つとして無駄がないし、塩味のバランスが取れているからか、美味しい。言い過ぎかもしれないが、高級なレストランにあってもそこまで可笑しくないと僕は思う。昔の人だから経験則というのもあるかもしれないが、だからこそ今の人以上に料理の味というものを理解していたのかもしれない。






 食事の後、僕は祖母に件の小屋のことを聞いてみた。

「ばあちゃん、タクシーでこっちに向かう途中変な小屋があったんだけど。アレ、何?」

「あー……。アレはねぇ……。恭平くん、あそこには絶対に近づいちゃいかんよ」

「どうして?」

「あそこには昔病院があったんだけどね、何か事件があったみたいでね……。それからそのままになっとるんよ」

「……なるほどね」




とはいえ、「近づくな」「開けるな」「食べるな」と言われて素直に聞き入れる人は少ないと思う。僕もそういう人間の一人だ。見方を変えれば「痛い目に遭わなきゃ分からない人」とも言える。僕は六畳の部屋で自分の布団を敷き終わった後、本を読んでいた。白い布団の上にはタオルケットのような涼しげなシーツ、その上にはマリンブルーのタオルケット。枕は中身が藍色で、カバーの色は白だ。枕元にはボタン式の青い目覚まし時計が置いてあり、コチコチと小さな秒針の音を鳴らしながら夜であることを示している。見るとまだ八時半。風呂から上がっても一階のテレビは母と祖母が独占していたから見られないし、かと言って他の部屋にテレビはないので仕方なく持ってきた本を読むことにした。今時のジュブナイル小説ではなく、前から気になっていた純文学の本。とある精神病患者と教授、許嫁と名乗る少女などが出て来る、「読むと発狂する」小説だ。僕はこうした小説が大好きだから、他にも沢山持って来ている。難解な小説が小学校に上がった頃から好きで、同年代と話が合わないこともしばしばだった。テレビゲームもたまにはするが、それは僕の全てじゃない。だから、中学の時に図書委員になれた時はとても嬉しかった。沢山の本に出会えたから。




「もうこんな時間!寝なきゃ!」

小説に夢中で時計を見忘れていた僕は、青褪めた。目の前の時計は十一時半を指している。僕は蛍光灯の紐スイッチを消して布団に潜った。シーツがまるでタオルのように柔らかく、それでいて暑くない。タオルケットも同じだ。ただ一つ、この二つの組み合わせには欠点がある。寝返りを打てる反面、沈み込むことが出来ないのだ。いつもはベッドで眠っているから、余計にそう感じられる。それでも、身体を横たえてから三十秒後にはもう深い眠りの世界へと誘われてしまったが。こうなればもう、夢を見ることはない。





 障子の外から雀の囀りが僕の耳に飛び込んで来る。寝ぼけ眼で時計を見ると午前八時。通常ならもう学校にいなければいけない時間だった。僕はモスグリーンのTシャツと紺色のGパンに着替えてから、急いで階下に向かった。きっと祖母が朝食を作って待っているだろうから。





 案の定、一階の居間には祖母が作った朝食が並んでいた。葉っぱ模様の円い皿に盛られた半熟の目玉焼きに、トーストとレタスがメインでその中にパプリカやミニトマトが入ったサラダ。実家ではこんなに豪勢な朝食にはならなかったし、食べずに学校へ向かうこともしばしばあった。だが祖母はいない。僕は一人でテレビを見ながら朝食を摂ることにした。




 リモコンでテレビを点けたが、テレビ局そのものが違うからか、番組のバリエーションには乏しい。見慣れたチャンネルではなく、系列局のものということもあって、僕は最初戸惑った。だが、何度もこの家に来る内に操作方法を覚えてしまった。田舎ではテレビ番組や新聞、本や雑誌くらいしか娯楽がないというのもあって、小さい頃の僕は居間でテレビを見ていることが多かった。テレビゲームは持って来られないし、祖母はああいうモノに悪い印象を持っているから持って来たくない。だから本などを持ってくる、或いは大人達が読んでいた雑誌や本を読む、それかテレビしかなかったのだ。





 グレーの小さなリモコンでチャンネルを数回変えるうち、僕は結局特撮ヒーローものの番組にしようと思い、以降、チャンネルはそのままにしておいた。テレビの中の、バイクで颯爽と駆け抜ける、ちょっと変わっているけどかっこいいヒーローは、小さい頃僕の憧れだった。もう捨ててしまったとはいえ、変身ベルトも僕の家にはあったし、家に友達を招いてヒーローごっこもよくしていた。そんな記憶が蘇りつつも、僕は瓶からひと匙の苺ジャムを掬い、パンに塗りたくっていく。ひと匙とはいえ山盛りなのは、僕自身が甘さ控えめのこのジャムが好きだから仕方ない。





 食べ終わった僕は、誰にも告げずにこっそり出て行った。あの小屋の正体を確かめる為だ。明らかに人が住んでいるようには見えないので、恐らくは廃墟か何かだろう。歩くのは面倒くさいので、黒のママチャリを借りて行く。紺色のリュックサックには入学祝いに買ってもらった、銀色の携帯電話にティッシュ、ハンカチ、懐中電灯、それと愛用の折りたたみ財布に小さいメモ帳と申し訳程度のボールペンが二、三本入ったペンケース。モスグリーンのソレには、ジッパーの部分に鈴付きの根付けが付いていた。確かどこかの神社で少し前にお守りとして買ってもらったやつだろう。まだ紐は新しく、千切れる気配は感じなかった。





 漕ぎ出して少しした頃、僕は喉が渇いたのでペットボトルを買おうと思い、自転車を停めて赤塗りの自販機の前に立った。幸いなことに全ての品が百円以内に収まっている。そして、全て「つめたーい」で占められている。缶コーヒーやジュース、ベタな緑茶にミルクティーなどもある。僕は百円を入れて、上の段の右端にある五百ミリリットルの緑茶のボタンを押した。そうして、ゴトンと音がして、よく冷えた緑茶のペットボトルが取り出し口に落ちてくる。手に取ると、ひんやりとしていて既に水滴がびっしりと付いている。それだけ今年の夏は暑いのだ。




 喉を通るお茶はほんの少し苦い一方で、僕の喉を潤し、冷やしてくれた。四分の一程飲んだところでペットボトルの蓋を閉め、籠の中に入れてまた再び漕ぎ出した。漕ぎ始めてから数分、追い風が吹き、緩やかな坂道を下る僕の背中を押してくれる。が、

「危なーい!」

前から緑の車が突っ込みそうになり、僕は慌ててブレーキのレバーをひねった。運転手の表情は伺いしれないが、呆れか安堵、そのいずれかだろう。助手席がチラッと見えたが、若い女性がイライラとした表情を隠さない。僕は手を挙げて、そそくさとガードレールの内側に向かった。




 ガードレールに守られているからか、今度はスムーズに進めるようになった。そのまま十分程漕ぎ続けていると、目的の場所に来た。目の前には通せんぼをするように円い表示板の、古びたバス停がある。色褪せ、サビ付き、もう時刻表すら見えないレベルとはいえ、ここの地名だけは辛うじて理解出来た。

「大塚診療所か……」

どうもこの小屋は元々診療所だったらしい。何故打ち捨てられたのか、僕には分からない。だからこそこれから調査に向かうところなのだが。





 蔦を引きちぎり、なんとか扉を見つける。ドアは引き戸だが、力を入れないと開かない辺り、余程長い間放置されていたのだろう。僕は力一杯ドアを押し、漸く開けることが出来た。リュックサックから懐中電灯を取り出し、僕は中へと入った。中は埃だらけで、待合室と思しき場所には壊れかけた粗末な椅子が四、五脚程。暗くてわかりにくいが、古びた週刊誌が二、三冊程置かれた本棚もある。診察室へのドアは目と鼻の先にあり、僕は無理矢理錆びついたドアを開けた。




 中にはお決まりの診察台に先生が座る椅子だけ、という訳でもなく、書類やカルテなどがぎっしり詰まった棚に、その隣には治療に使っただろう薬瓶が詰まった棚。ここまでは特に目立ったところはない。が、棚と棚の間に僅かな隙間がある。そこに穴が空いていて小さな雑草が生えているのだ。気に留める程でもないので、僕は放っておいた。それより気になったのは、「立ち入り禁止」と色褪せた黒い文字で書かれた古い扉のことだ。僕は恐る恐るその扉に手をかける。すると、鍵も何もかかっていないのか、簡単に開いてしまった。




 そこにあるのは薬品棚が主だが、何故かバールが置かれている。本来なら必要ない筈だが、何故だろうか。と思ったらその答えは床にあった。部屋の隅に怪しい箇所があるのだ。バールでそれを持ち上げると、地下への階段が現れた。この先に何があるのだろう、と思いながら僕はペットボトルのお茶を口にし、下りていった。





 懐中電灯で照らしているから明るいとはいえ、これ自体は電池式だからいつまた暗くなるか分からない。だが、先程までとは違う異様な雰囲気は僕を心細い気持ちにさせる。光が届いていた一階部分とは違い、光が届かず真っ暗なのだ。それだけではなく、何も音が聞こえない。わくわくは不安へぐっと舵を切り、今すぐに引き返したい気持ちと、この先を見たいいう気持ちが同居し、震える足で僕は突き当たりにあるドアに向かう。





 

 そこにあるモノを見た瞬間、僕は悲鳴をあげた。お化け屋敷に行った時やホラー映画を見た時とは比べ物にならないくらいの悲鳴だ。つまりは本当に危機的状況に陥った時にあげる悲鳴だった。目の前には、手術台に拘束された人物らしき骸や、椅子に縛り付けられた骸がある。それも二つだけではない、合計で三、四人分はあるだろうか。二つある棚にはホルマリン漬けの、胎児を含む人間の標本があり、床には裸のまま僕より年下の少女が液体の中で揺蕩っていた。もう一方の棚には古びたラベルのよく分からない薬品がぎっしり詰まっていた。今にも動き出しそうな骸達は皆苦しそうな表情を浮かべている。それを見た僕は、一目散に逃げ出し、外に停めてある自転車を猛スピードで漕ぎながら。疲れなど気にしてはいられない。今はただ逃げることだけを考えていた。




 後から知った話だが、あの診療所が廃墟になった理由は海外製の違法薬剤の人体実験を、地元の小中学生達を言葉巧みに攫って行っていたかららしい。それが発覚して早々、院長夫妻は夜逃げをし、残ったあの診療所はそのままになっていたという。祖母が警察に通報し、近日中にあの診療所は取り壊されることになったそうだ。

「恭平くんが無事で本当に良かった……」

「お化け屋敷より怖かったよ……」

「そりゃな、あの辺りは子供が行方不明になることが昔から多かったからな」




 あれから数年後、忌まわしい事件の記憶を忘れ去ろうとしているかのように、跡地にはコンビニが建ち、バス停も撤去された。お坊さんが骸を纏めて供養したので祟られる心配はないということだ。

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