ようこそ!前橋森林管理局へ!

深夜にピンポンダッシュ

第1話



 もうすぐ60歳で、定年も直ぐ其処で、定年後は趣味の釣りを満喫しようとwktkしながら働いていた。

 あと半年で終わると思っていたら、思いがけず75歳まで働ける様になってしまった。 妻は当然の様にニコニコ笑顔で75歳まで働く様にと厳命した。

 一応反論もしたんだ。

 大学を出て直ぐに働きだして、1日も休まず勤労に励み、趣味の釣りだって海に行きたいのを我慢して、釣り堀で我慢してきた。

 新しい釣具も我慢して、子供たちの為の学費を稼ぐ為に貢献もして来たのだ。 そのお陰で息子や娘も成人し、娘はすでに結婚。孫も出来た。 もうこれ以上働きたくない! 俺は妻にそう訴えた。 言葉尻は段々小さくはなったけど、妻もウンウンと頷いていた。


 「でもね、あなた。 孫ちゃん達の学費があるの」


 俺は目を疑った。

 妻が何を言っているのか一瞬分からなかったのだ。


 ──今、コイツは何と言った?

 孫の学費と言ったのか? 孫の? 何故? 何故それを俺が支払わねばならんのだ? 何を言っとるんだ? 孫の学費は親である娘夫婦が払うものだろう?


 そう思って反論したが、無駄だった。


 「私だって我慢してるのよ? 旅行だって年二回までに抑えてるし、欲しい鞄だって一回は我慢してるのよ? 私が我慢してるのに、あなたは我慢しないの? あなた……孫ちゃんが可愛くないっていうの⁉」


 もう無茶苦茶である。


 ──去年は海外旅行に行ったではないか! 二回ともお前だけで! 鞄だって何個あるんだ! 沢山あるじゃないか! 俺なんて……俺なんて、学生時代に買った釣り竿を大事に使って……凌いでいるのに……。


 俺が、そう反論する間に電話があり、妻は俺の話など聞く気もないのかリビングの椅子から早々に立ち上がり、目の前から消えていた。


 俺は肩を落として、煙草に手を伸ばした。


 「話は終わり……か……」


 いつもそうだった。

 大事な話がある時も、そうでない時も、妻が先に居なくなり、そこで話は終わりなのだ。 続きの話をしようもんなら、その次の日の弁当は白飯だけになる。 反論は許されていなかった。


 深々と吸い込んで、溜め息と共に紫煙をくゆらせる。


 「あと……、15年も働くのか……」


 そう思うと絶望しかなかった。






 翌週の月曜日、俺は長く働いていた机から私物を全てまとめ、上司の部屋に向かう。


 ノックをして入ると、上司はカップ珈琲を呑んでいた。 下の階にある自販機で買った奴だろう。 所員は80円で買える。 俺も度々お世話になったやつだ。


 「やぁ、朝からどしたい? 田井中さん」


 上司であるが、同期でもある桜井は朝から何故かご機嫌だった。聞けば日曜日に五十cmオーバーの鮃を釣り上げたとか……。

 ──まったく羨ましい限りだ、俺なんて妻との話し合い(?)のすえ、絶望していたというのに……。

  釣り倶楽部の会長もしている桜井は、毎週末に船釣りを楽しんでるらしい。 一応俺も釣り倶楽部のメンバーだったが、釣り堀がメインな俺は余り参加はしていない。


 「この前の話、受けようと思ってな」

 「おお! それは有り難い! しかし、如何言う風の吹き回しだ? 海の無い山間部には行きたくないと言っていたのに。 単身赴任だろ? 奥さんは付いていってくれると?」


 「……いや、妻には話ししていない。 まぁ、75まで働けとは言われたがな」

 「ははは、相変わらずだね君の奥さん……。まぁ、宿舎はちゃんとしてるらしいから、そこは安心してくれ。 っていうか、気が早いなぁ……いま荷物纏めたって辞令は来月だぞ?」


 「問題ないだろう? 今の俺の仕事は過去の書類管理だし、新人にも全て教え終わってるんだから──辞める気満々だったから……な!」


 そう言うと桜井はまぁ、頑張ってくれと言って労ってくれた。


 上司の部屋を後にして、纏めた私物を持って玄関から出る。 通勤用の車は売って軽トラに乗り換え、荷台には夜釣りを楽しむ為に息子と作っていた作り掛けのキャンピンカーが載っている。 半年後には定年を迎えるはずだったから、退職したその日の夜に泊りがけで釣りに行く予定だったのだ。


 俺は荷台の後ろに周り、出入り口にしている扉を開けて、私物を積み込む。 中には作り掛けの材木の他に、家から持ち出した着替え等が所狭しと置いてあるので、その隙間を探して押し込んだ。


 そう、俺は妻には何も告げずに新しい部所に行く予定なのだ。

 その部所は前橋の山間部にある、とある国有林野。 そこが俺の選んだ次の職場だった。

 前橋は確かに湖や川釣りと豊富にあるが、山間にある俺の行く場所からは少し遠いので、行くなら海が近いところが良いと断っていたのだ。

 俺が海が良いといえば、桜井の奴は『俺が行きてーわ!』と、笑いながら返す。 そのやり取りは地味に楽しかったのだが、海沿いは若い倶楽部員に人気で、俺の様な年寄りには山を勧めているという。

 なんで年寄りは山なんだろうな?

 心ではまだまだ若いつもりだが、寧ろ足腰の弱った老人を山に行かせるのは酷だろう?


 そんなことを言うと決まって『仕事しながら鍛えられるんなら良いじゃねーか』というんだ。


 まぁ、実際見回りなんかは車で回るので、足腰は逆に鈍るらしいが……。


 荷台のキャンピンカーが動かないかしっかり確認したあと、俺はエンジンを掛けた。ブルルンと軽く息を吐き出した俺の第二の愛車は軽々と荷台のキャンピンカーの重さすら感じさせずに、走り出す。


 残りの15年は妻の顔を見なくて済むと思えば、多少下がり気味だった気分も高揚してきた。

 妻にしてみれば、ATMである俺の弁当等作らなくて済むと、そのうち笑い出すだろうが、その笑い声も聞かなくて済むと思えば、気はだいぶマシに思えた。


 東京ICから乗って関越自動車道を経て前橋ICで降りる。途中途中で休みながら来たが、流石に腰やら背骨やらが痛いので、高速から下りるとすぐにコンビニに入って休む。


 「うーん……!」と、伸びをすればバキボキと音が鳴った。

 若い時はこんな音などならなかったのになぁ……と、思いながら缶珈琲を呑んでスマホを見ると、結構な量の着信履歴。

 全て妻からだった。

 多分桜井が気を利かせて妻にでも連絡したのだろう。

 東京の会社から出た頃からの時間が多い。メールを見ると、息子や娘からも連絡が来ていた。

 「何だよ、子供達にまで知らせたのか?」


 そう思ってメールを確認してみると、息子からは心配してる言葉と、川釣りのお誘いというか、まぁ……いつも通りの釣りの話だった。

 娘からは何故か感謝の言葉……。

 ──いや、娘よ。 孫の学費はお前らが払え。 俺は払わんからな!と、返しておく。 例え妻から送ったとしても、俺は許しておらん。 もし、離婚問題にでも発展したら、この証拠を突き付けてやる。 そう思って娘からのメールに保護を掛けておく。

 妻からのはすべて無視した。

 娘のメールに返信したあと、妻からの電話が鳴り始めたが、電源を切って無言で抵抗する事にした。


 まぁ、大半はいま電話に出ると怒られるからなんだが……。


 怒られると分かっていながら悪戯を実行する子供みたいな心境だろうか。

 そんな取り留めのない事を考えながら、残りの珈琲を飲み干すと、再び走り出した。


 それから、数キロ走ると目的場所の案内が終わり、目的施設の門を通る。


 一応働くのは来月からになるのだが、挨拶の一つくらいはしておこうと立ち寄ったのだ。


 駐車場に車を止め、エントランスのある場所へ向かい自動ドアを開けて受付へと向かう。


 「あー、すまないが所長の熊谷さんは居ますか? 来月こちらに配属となった田井中と申しますが……」


 少々お待ちくださいという言葉を聞いて、柱に持たれながら待つことにした。


 「よぉ! ひっさしぶりだなぁ! 元気かよ!」


 そんな声を聞いて俺は手を力なく上げて応える。 前橋森林管理局の所長である熊谷は、桜井や俺と同期の桜で釣り倶楽部のメンバーでもある。

 熊谷は群馬で遠い事もあり、滅多に東京へは出てこなかったし、俺も海釣りには参加してなかったので、会う事はなかった。

 「いつ以来だろうな? 奥さんは元気か? 今日来てるのか?」

 コイツも俺の妻の事は知っている。

 元々三人で取り合っていた事もあり、何かに付けて妻の話をしたがるのだ。 今なら熨斗付けてあげるのにな……。

 妻を勝ち取ったのは俺だったが、出世したのはこの二人だった。そのお陰で俺は毎回妻に謗られて、頭が挙げられない現在の状況になっている。

 事あるごとにこの二人の出世話をされるんだ。 誰だって嫌気くらい刺すというものだ。


 キョロキョロと俺の周りを見てる熊谷に、俺は首を振って妻は来てないと告げる。


 「え、お前だけで来たの? マジで? 独り暮らし出来るの? お前が? あの愛妻家が?」


 「何だよ、あの愛妻家って」


 「いや、お前有名だよ? 飲みに誘っても釣りに誘っても全く受けずに真っ直ぐ家に帰る愛妻家って」


 「そんなんじゃねーよ……そんなんじゃ」


 本当にそんなんじゃなかったんだが、言ったところで誰も信じないだろうから、言わない。


 「まぁ、いいや。 しかしお前来るのはえーなぁ、まだ部屋の準備してねんだよ」

 「大丈夫だ。 一応数日は温泉宿取ってるから、暫く其処で浸かってるよ」

 「なんだよそれ! 羨ましいなぁ。 俺も温泉行きてーなぁ……週末にでも行くから、宿教えてけよ!」


 そう言って熊谷とはそこで別れ、挨拶だけはして終わった。


 温泉宿に着くと、チェックインした後、大の字となって寛いだ。

 正直旅行は希に行っていた程度で、もっぱら行くのは妻と子供達だった。

 結婚してから一人で旅行なんて、初めての事だったが、意外と寂しく感じた。

 普段毎日居る筈の妻が居ないと言うのは、俺にとって異常事態なんだろう。

 離れてから分かっただけ良かったのだろうか?

 俺は起き上がると鞄からスマホを出して妻へと連絡した。


 「もしもし? 俺だが……」


 そういった瞬間、俺の耳に届いたのは妻の罵詈雑言の嵐で、俺は再び不貞腐れて電源を切った。

 どうやら、妻が恋しく思えたのは気の迷いだったらしい──嬬恋温泉だけに……。

 


 俺はタオルと浴衣を持つと、早々に温泉へ行く準備をして、部屋を後にしたのだった。


 

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