官能小説家はよく泣いている4

恵介

【01】

 官能小説家はよく泣いている。泣いていないときは書いているか、寝ているか困っているかのどれかだ。今は泣いている。書けないと苦しみながら泣きじゃくり、大きなペンギンのぬいぐるみを抱えている。大変そうだなあ。

 僕は勝手に叔父の書棚から持ち出した隠語大辞典をパタンと閉じて、仕方なく夜詩くんに声をかける。

「夜詩くん。こっち、おいで」

 彼は言われた通りに、僕の隣に座る。リビングのソファにそうして二人並んで、比較的静かに時を過ごす。夜詩くんはよく泣くけれど、泣き止むのも早いのだ。ときどきは。

「書けなくて泣いてるの?」

「うん」

「じゃあ、今は書かなくていいときなんだよ」

「締め切り、明日なんだよ」

「延ばしてもらえば?」

「そういうのは、やだ」

「あ、そう」

 律儀だなあ。というかこれは、重度の鬱病からくる責務感。あるいは強迫性障害からくる焦燥。ま、なんでもいいや。僕には関係ない。

「ハツ」

「うん」

「…………触ってもいい?」

「うん」

 僕はぬいぐるみの代わりに、叔父に抱きしめられる。さすがに高校生でこれはないよなあと思いつつ、僕だって叔父を抱擁し返す。あたたかな人の体温。泣いたあとの夜詩くんの頬を拭ってやり、どうでもいい話をする。そのうち叔父は思いついた、と呟いて、また書斎へ戻る。

 僕の叔父は官能小説家だ。

 そしてよく泣いている。

 叔父は初雪という名の僕のことをハツと呼び、わりと近場に一人で暮らしている。高校生のくせに隠語大辞典を眺める僕のことを、叔父はたしなめない。というか、この人が僕に何か強制したり、教育したりすることは一度だってないのだ。せいぜい、僕から勉強の分からないところや、学校では教わらないことを尋ねるぐらいで、向こうからアクションしてくることは、強いていうならばこのようにハグだけだ。叔父と甥の関係というより、僕らは友人に近い。なんなら、昔に色々あって今も散々な夜詩くんの唯一の友人は、僕だ。

 夜詩くんの書斎には他にも猥雑な資料が少しだけあり、あとは推理小説だの心理学だの哲学だのの小難しい本が並んでいる。夜詩くんがよく読むのは官能小説ではない。そして叔父は読んだら読んだで、大抵の本はすぐにブックオフに売り払ってしまう。書棚は狭いのだ。つまり今ここに残るものだけが夜詩くんにとっては必要なもの、あるいは大切なもの、それともまだ読んでない本たちであり、僕は移り変わりの激しいそれらを眺めては彼の脳内を思う。




 夜詩くんはよく泣いている。今日もふとしたことでぽんやりと涙を流す。叔父がなんにも言わないから僕は叔父のマンションで勝手に豆苗や苔やパキラを育てているのだけれど、それが育ちすぎて怖いと泣いている。陽当たりいいんだよなあ、ここ。

「怖いの? やだ? 持って帰ろうか?」

「ううん。生きてるんだなって」

 なんだか、切り刻みたくなる、と夜詩くんは呟く。パキラを眺めながらそんなことを言う叔父はちょっと怖い。

「駄目だよ。夜詩くん。植物、いじめないでよ」

「ハツだって豆苗は切ったじゃないか」

「あれは食べるためだもん」

「……食べればいいのか」

「パキラは美味しくないよ」

「…………………」

「夜詩くん」

 食べるためならば豚や牛は殺してもいいのだ。10歳の頃から5年間に渡って男に誘拐され、犯され続け愛され続け殺されかけた夜詩くんは両手で顔を覆って静かに泣く。僕はそんな叔父を慰める。丸まった背中を撫でてやり、精神安定剤と水を飲ませる。

 僕の叔父は官能小説家だった。

 僕が大学三年生のときに自宅で首を吊って死んだ。



 

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