第37話 死んだのは誰?

 水に沈んだかずきはきつく目を瞑り、息を止めた。

 不思議と、体が濡れた感触はなかった。

 水が冷たくない。

 息も苦しくない。


 恐る恐る目を開けてみると、かずきの体は水の中でゆらゆらと漂っていた。

 池の中には、浮葉植物の根や水の中に住むマコモや、千切れた葉や茎や根っこが躍っていた。さほど透明度の高い水ではなく、むしろ、受胎力に富んだ羊水のようだと思った。栄養に満ちた、生命の揺りかご。ぬるいお湯に浸かっているような気持ちだった。

 一匹の鯉が目の前を通り過ぎた。

 すると、先ほどまでいなかったはずの影が見えた。


 子供。

 二人の、子供。


「あ……、な、なんで……」

 知らず知らずの内に、声が、かずきの口から漏れていた。

 水の中で喋れることへの疑問などどこにもなく、考える隙もない、恐怖から漏れた悲鳴だ。


 和希と一姫。

 九歳の姿で、手を繋いだ二人が、池の中を漂いながらこちらに近づいてきた。


 和希は、星空模様の黒い薄手の長袖シャツに、赤チェック模様のスカートを履いていた。つるんとした細めの生足がスカートの下から出ている。

 一姫は、白いシャツの上に、赤のカットソーの半袖シャツを着て、下には薄い青のジーンズを履いていた。


 二人の微笑んだ顔は、かずきに向けられていた。

「なんで……、和希が、ここに……」

「なんでって、君が僕を捨てたんだよ?」

 和希が心底不思議そうに言った。


「捨てた……? 違う。違うよ。和希は、自分で落としたラジコンを、自分で取ろうとして……、落ちて、溺れて」

「死んだのは私よ」

 かずきの言葉を遮って、一姫が言った。

「私が、和希が落としたラジコンを取ろうとして、自分で落ちたのよ」

「そうだね。僕がラジコンを落としたせいだね」

「ほんと、和希って抜けてるんだから」

「ごめんね」

「まったくよ」

 そう言って、二人は顔を見合わせて笑い合った。


「ち、違う……! 一姫は、死んでない。私が一姫なんだ。私が、私が生きているから……」

「へえ? ところで、あなた、どちら様?」

「え……?」

 頭を抱えながら叫んでいたかずきは、一姫の言葉を受けて、更に混乱した。


「そうだよね。誰だろう? 僕を捨てた人っていうのは知っているけど、誰だか分からないや」

「そうよね。一体誰なのかしら」

「知らない人だ」

「知らない人ね」

 和希と一姫の嘲笑する声が池全体に響き渡った。

 呼応するように、植物が嗤った。鯉が嗤った。水が嗤った。

 すべてがかずきを、責め立てているようだった。


「誰って、私は……、あれ? 私? 僕? あれ? なんて、言ってたんだっけ……?」

 自己喪失が激しくなり、胸が空洞になったような薄ら寒さを感じた。

 目の前には、和希がいる。

 目の前には、一姫がいる。

 なら、自分は、誰なのか。

 誰でもない他人。名前のない誰か。


『うるさい! お兄ちゃん面するな! のっぺらぼうのくせに!』


 のっぺらぼう!

 かずきは自分の顔を触った。

 眉がない。目がない。鼻がない。口がない。耳がない。

 自分が、ない。


「あはっ。気持ち悪―い」

「ほんとだね。顔、つるんっつるんっ」

「自分が誰かも分からないなんて、とっても惨め」

「自分が誰かも分からないなんて、とっても哀れ」

「もう」

「死んでるみたい」

 和希と一姫の揃った声に惑わされて、かずきは頷いた。

 口がないため、心の中で嗤った。

(うん。もう、死んじゃおっか)


『駄目に決まってるでしょ!』


 突然、耳に響く誰かの叫び声が聞こえた。

 どうして、その人が、そんなに声を荒げるのか分からなかった。

『なんで! なんで死ぬって言うの! 馬鹿! 止めてよ! 置いていかないでよ! もう、嫌だよ。家族が死ぬのは、もう、嫌……! 嫌だよ……!』

(家族……? 誰が……? 一体、誰のこと……)

『帰ってきてよ……、和希お兄ちゃん……』


(和葉――――ッ!)

 ぼっこん。と音を立てて目が生まれた。


 いつからだったろう。和葉が、和希お兄ちゃんと呼ばなくなったのは。

(池での事故の後、そうだ、病院に入院している間は、お兄ちゃんって呼んでくれていた。退院してからだった。呼び捨てになったのは……)


 なんとなしに寂しくて、逆に和葉に構うようになったのを覚えている。

(病院。そういえば、退院する直前に、トゥイクから、何か言われたような……)


『まだ今の和希くんには理解できないかもしれないけど、俺がこれから言うことをしっかり覚えておいて欲しい。いいね?』


(和希くん? あれ、それ、自分が言われたこと……?)

 そうだ。ずっと、いつまで経ってもトゥイクは、『くん』づけを止めなかった。


 ぼっこん。と音を立てて口が生まれた。

(『くん』ってことは、和希? 僕は、和希だった? なら、あの時、ここで死んだのは……)

『お姉ちゃん、どうしちゃったの? なんでお外で眠ってるの? 風邪ひいちゃうよ?』

 和葉が、そう、傘を差すかずきを見上げながら言ったのを覚えている。


「うう……、ああぁぁ――――っ」

 苦しい。辛い。もう止めろ。ここまで胸が張り裂けそうで、苦い吐き気までそこまで迫ってきているのに、無理に思い出す必要がどこにある。

『優真の、服と……、ほ、骨が……』

 絵美の畳みを掻き毟る姿が思い出された。

『私がいねえ方が、護にぃのためさ』

 黄昏の中、そう痛々しく笑う累の顔が思い出された。

(違う……。違う……)

 知っている。苦しくても、辛くても、それを受け入れ、自身の肉とし、生き続けようと立ち上がる人の姿を、見たことがある。

 不屈な姿に憧憬の念を抱いたのだ。


「死んだのは……、僕のせいで、死んだのは…………」

 言いたくない。

 認めたくない。

 違うと叫びたい。

 しかし、そんなことをしてきたから、家族を友達を他人を、傷つけたのではないか。


『君はこれから、色々な人を傷つけることになるかもしれない。そんな時、どうしてそうなったのかをきちんと考えること』


 ぼっこん。と音を立てて眉が生まれた。

(ごめん、トゥイク。全然、考えられなかったよ……。本当に、たくさん、傷つけたよ……)

 もう、そんなこと、したくないから、だから……、これで、もう止めにしよう。

「ぁ……、一姫、だ……」


 ぼっこん。と音を立てて耳が生まれた。

「誰のせいでこうなったと思ってるの……?」

 一姫が、そうかずきを睨みながら言った。

「……僕が、僕のせいで、妹が、一姫が、死んだんだ……。死んだのは、一姫だ―――ッ!」


 ぼっこん。と音を立てて鼻が生まれた。

 あまりに、弱かった。

 一姫の死を受け入れられず、死の一因となった自身を認められなかった。

(そして、僕は妹になった)

 責任から逃れるために、和希を捨て、一姫を演じた。

 自分勝手で、人を傷つけ、知らん顔で生きてきた。


(でも、ようやく、気づけたから……。家族を、友達を、誰かを想える気持ちを手放したくないから……)

「きっと、これから先、今よりもっともっと傷つくことになるのに?」

 ふわふわと水中に浮かびながら、和希が聞いた。

「うん……」

 そう、かずきは頷いた。

「傷ついて、いい。僕は、絵美や累にみたいに、傷ついて苦しんでいい。辛いのは、自分の中に、傷つくだけの大切なものがある証だから、もう、それを、手放したくない」


 自ら忘れてしまった大切な人が、二人いる。

 和希と一姫。

 二卵性双生児の双子の兄妹。


「だから……、だから、僕を返して! 一姫!」

 かずきが痛烈たる懇願を喉の奥から絞り出すと、泡沫の一群が通り過ぎた。

 思わず瞑った瞼を開くと、和希が消え、代わりに一姫の手の平に黒い霞の塊が乗っていた。


 一姫はかずきの目の前まで進むと、かずきの手を取って、それを優しく握らせた。

「もう、落としちゃ駄目だよ?」


 お姉ちゃんぶった、甘い苺のような口調で微笑んだ。

 思わず込み上げたのは、恋しさだった。

 もっと一緒にいたい、わがままだった。

 その微笑みに触れようと、からの手を伸ばすと、泡沫がかずきの体を取り囲んだ。


「一姫――ッ!」

『和希――ッ!』

 叫びが重なった。

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