五 そして僕は――――
第35話 のっぺらぼう
「『影取沼』。その昔、『山上池』はそう呼ばれていたらしい」
ぐずついた空の下、トゥイクが四輪駆動の自動車を走らせながら言った。
「『姿見の池』とか『鏡池』とかではなく、ですか?」
絵美が後ろからトゥイクに向けて言った。
席順としては、運転席から一つ後ろの二列目に和葉と和希、三列目に絵美と累が座っていた。
「それは更に昔の話だね。最初は『鏡池』と呼ばれ、次に近くの村々で飢饉が起こってから『影取沼』と呼ばれるようになったらしい」
「池と沼とでは、少し違う気がしますけど」
「いや、池・沼・湖には厳密な区別はないらしいよ。それに、あくまでも正式名称は変わらず『山上池』のままだからね。あくまでも別名……というより、その池で起こる現象を指しての別称だったんだろう」
「現象って……」と和葉が言った。「影が、取られるってこと?」
「食べられたり、引きずり込まれたり、だね」
トゥイクは車を運転しながら、説明を続けた。
「『影取沼』という昔話は、他の地方にもある話なんだ。話としては、沼に影を映すと、影を映した者が死んでしまったり、沼に引きずり込まれるというものだ。沼に魔物がいるとか、蛇が食べたのだと言う話もある。沼ではないけど、海面に影を映すと、フカ――今でいうところの鮫が影を食べてしまい、食べられた者は病気になる、というものもあるね」
「……影を取られたら性別が変わる……というものはないんですか?」
「それは、また別の話だと思っている」
トゥイクは絵美の質問に答えつつ、コンビニで買った紙コップのコーヒーを啜った。
「『山上池』は『鏡池』とも呼ばれている訳だけど、この鏡に映るものは何か、という話だ」
「何って、それは……、その人の姿、では?」
「それじゃあ、例を挙げて説明して見ようか」
トゥイクが上げた例は二つ。
一つは、『花袋狐草紙』。
このさし絵には、狐が頭に藻を乗せて人間に化けようとしている絵がある。狐は池を覗き込み、水面には美しい女性の顔が写し出されている。
一つは、浮世絵師・月岡芳年の『
『葛の葉』という狐を題材にした絵だ。人間の女性に化けた狐・葛の葉が、安倍保名という男と結婚して子供を産む。後に安倍晴明となる子供――童子丸が五歳の頃に、葛の葉の正体が狐であることを知られてしまい、葛の葉は信田の森へ帰ってしまう。
『新形三十六怪選』には、『葛の葉きつね童子にわかるるの図』として葛の葉が童子丸に別れを告げる場面が描かれている。絵の中では、障子に女性の影が狐として映っている。童子丸の目には人間に見え、障子に写った影には狐の形として映る。
「花袋狐草紙では、正体が狐で、池に映る女性の影が幻。
新形三十六怪選では、目に見える幻が女性で、障子に映る狐の影が正体」
「……すんません。よく分からないっす」
後ろを見ると、累が頭を掻いていた。
「つまりね、民間信仰における、鏡・影の役割は曖昧な形でしか現されていないということさ。肉体に魂が宿り、影が偽物なのか。反対に、影が魂であり、肉体が偽物なのか、曖昧として判別できない」
和葉は体の血が冷たくなっていくのを感じた。
隣に座る和希の手を握った。
その手は驚くほど冷たく、咄嗟に和希の姿を確認して、和希がそこに居ることを確かめた。
「果たして、影が取られて残るのは、一体誰なのか……。もし、影こそが正体であり、魂であるのであれば……」
そこまで言われれば、否応なしに理解できた。
もし、影が和希という人間の魂であったのなら、今、隣に座っている彼女は一体誰なのか。
影を取られて残ったのは、兄の和希なのか妹の一姫なのか、それとも『和希が演じる一姫』という、和希が現実から目を背けるために生み出した誰かなのか……。
和希を――かずきをじっと見つめる。
(この人……、誰だ……?)
無理矢理に疑問を封じ込めようと、かずきから目を逸らした。
「じゃ、じゃあ、何が、誰が、和希の影を取ったの?」
自然と震える声で和葉が聞くと、トゥイクは言葉を詰まらせた。
「……分からない」
掴めない正体に対する回答は、不明の一言だった。
「ただ」
しかし、トゥイクは言葉を繋げた。
「あの池には河童がいるという話がある。これは『影取沼』と呼ばれるようになったのと同時期から言われるようになった話らしい」
「……何か、関係があるの?」
「あくまでも想像に過ぎないけれど……、ほら、絵美ちゃんには話したことがあったよね? 座敷童と河童は同じものだと言う話が各地に伝わっていることを」
「え、ええ……。確かに、優真のことを相談しに行った時に、そんな話が……」
「こう考えることもできる。近くの村々が飢饉に襲われた時、口減らしのために、小さな子供を池に沈めて殺してしまったと。座敷童が間引きされた子供の霊であるのなら、河童は、間引きのために水辺で殺されてしまった子供の霊である、とね」
――水底の童子。
すなわち、河童。
「河童が、影を取ったということですか?」
「河童は尻子玉を取ると言うだろ? 尻子玉は丹田にある生命力を生み出す部分にある玉だという話もある。もし、影が人間の魂であるなら、同じように生命力に満ちているはずだ。であれば、河童が尻子玉を抜くように、影を取っても、それほどずれた話ではない。それに、河童が川や沼に馬や人を引きずり込もうとする話もある。それなら、特に引きずり込みやすい人間の影を狙ったとしても、おかしくはないだろう。影こそ人間の正体であるのなら、尚更だ」
であれば、その河童――水底の童子は、果たして誰の霊なのか。
(一体、和希は、誰に連れて行かれたんだろう……)
そして、後に残ったこの人は、果たして誰なのだろう。
和葉は、先ほどから一言も口を利かずに黙って座っているかずきを見る。
和希お兄ちゃんでも、一姫お姉ちゃんでもない。
一姫お姉ちゃんを演じる和希から、和希を引き算した結果。
死者を演じた生者の成れの果て。
死んでいる誰でもない、生きている誰でもない――――のっぺらぼう。
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