第16話 姉という存在

 姉さんが帰宅するのは夜になるため時間を潰すため近くのカラオケ店向けて歩き出した。カラオケ店に入店すると俺は夜までストレスを発散するように歌い続けた。カラオケ店に到着する前に姉さんから返事があり、居候の承諾は得た。それ以外には内容俺の行動には呆れつつも借金の原因であることに責任を感じているものだった。


 カラオケ店を退出すると電車を経由してメッセージが指定された姉さんの最寄り駅の前で待っていた。これほど短期間にこの駅前に訪れることになるとは思いもしなかった。つい最近まで栗之先輩の家族事情解決のために動いていたが、まさか今度は自分の家庭事情で大きな問題が発生するとは想定外だった。


 夏が近いこともあり夜になっても空は仄かに明るさを保った暗さに包まれていた。駅のホームを背にして立ちながらスマホを触っていたが、しばらくして後ろから聞き慣れた声を投げかけられる。


「松貴お待たせ」

「ごめんね姉さん、急に家に泊めてほしいってお願いして」


 後ろに振り向くとフォーマル寄りの私服を着込んだ姉さんが今にでもため息を付きそうな顔をしていた。肩には仕事用のトートバッグを掛けている不甲斐ない理由で家出したため呆れられても仕方がない。


「家出したわりには余裕がありそうな感じしてるね」


 姉さんは家出の件を早速からかってくる。もっとも姉さんは場の空気を変えようとわざとからかっただけで、面白がる様子など全く無かった。俺は申し訳なそうに笑みも浮かべず曇った顔付きをする。いつ戻れるか分からない家出生活で姉さんに大きな迷惑を掛けるには分かり切ったことだった。姉さんはトートバッグの持ち手を肩の奥にずらして掛け直すと「夜だし早く言えに行こうかと」歩き始める。姉さんが横を通過するの見てから姉さんの横に並んで移動する。左右をマンションや一軒家に挟まれた道を歩いていると姉さんから質問が飛んでくる。


「家出はわたしにも責任があるから当面は部屋を使ってもらっていいけど生活費はどうするつもり? 流石に借金もあるからご飯代出すのはしばらくは厳しいよ」

「アルバイト代あるからしばらくは大丈夫かな。アルバイト入れすぎて貯金はあるから。まあ定期代が問題かな」


 生活費については俺も懸念していた。だがアルバイトとその貯金があるため、住む家さえあれば当面は生活には困らない。電車通学になるため通勤定期券より安い通学定期券を購入したい。だが通学定期券の購入に必要な通学証明書には住所を記載されるため、住所が変わった俺は学校に住所変更を申し出る必要性があった。だがそうなれば住所が変わった理由を学校側に尋ねられる可能性が高く俺としては事情を説明するのは避けたかった。そのため通勤定期券を購入するしかなく財布への負担は大きすぎた。


 俺の見通しを聞いて姉さんは口を噤んだまま一度顔を伏せてしまう。再び顎を水平まで上げて姉さんの顔が視界に入り込むが責任を痛感したように表情は重たく腑抜けたように瞼は大きく下がっていた。責任がある、と自分で認めていたが姉さんもこの事態は想定していなかったようだ。


 姉さんが住んでいるアパートの部屋に着くと俺は礼儀正しく「お邪魔します」と口にしながら玄関で靴を脱ぐ。姉さんの部屋に来たのは久しぶりで姉さんが仕事を休んでいた時以来だった。玄関の正面にはキッチンが併設されたフローリングの部屋があり、部屋の隣にはもう一つ部屋があった。玄関の左側には洗面台と隣接しておりその奥には浴室があった。


 玄関の正面の部屋は綺麗に整えられており、レイアウトの邪魔になるようなモノは表には出ていない。俺の部屋もそれなりに片付けているはずだが部屋の綺麗さでは姉さんには敵わない。部屋には座卓やテレビなどが置かれており、部屋の奥にはベッドを設置されている。俺と姉さんは洗面台で手を洗うと部屋へと足を踏み入れる。


「松貴と一緒に暮らすのってなんだか不思議ね」


 姉さんは帰宅途中のコンビニで買った自分用のお弁当を四角形の座卓に並べながら、帰宅時とは違い温厚な顔付きになっていた。


「そういえば、四年近く離れて暮らしていたっけ」


 床に敷かれたカーペットに尻を付けると姉さんが家を離れた年数を脳裏で数える。姉さんはこの状況を不思議と例えたが確かに部屋を見渡すと妙な感覚が部屋から心臓に入り込んでくる。姉さんは弁当の蓋を開けると懐かしむように俺の言葉に頷く。


「わたしが家を出ていった時、松貴は小学生六年生だったからね。四年しか経過していないけどかなり昔のように感じるけど、四年も経てば色々と変わるよね」

「そうだと思うよ。俺も来年には大学受験があるし、四年もあれば自分も周りもかなり変わっていくよ。まあ変わらない人たちもいるけどね」


 俺も弁当の蓋を開け手を合わせてから夕食を食べ始める。姉さんが出てからの自分の記憶が脳裏に展開されていく。あの頃中学生だった俺も高校生になり今はアルバイト従業員として仕事もしている。活動範囲が徐々に広がりつれ色々な経験をし様々な事柄に触れてきた。だからか俺が子供の頃から全く思想が変わらいように見える父さんが意見を曲げない理由が見当もつかなかった。


「父さんのこと? まああの人の固執した思考が変わる将来なんて想像できないよ」


 姉さんもわざとらしく苦笑いすると共感の言葉を発する。


「その意見には俺も認めざる得ないかな」


 姉さんの発言に本心から相槌を打ちながら弁当の料理を口に運ぶ。夕食に商品の弁当を食べる機会など殆どなかった影響かまだ家出をして一日しか経たないのに母さんの手料理が恋しくなった。当面母さんの手料理が食べられないことを考えると意気消沈しかけた。


 家出時家に居なかった母さんには駅で姉さんを待っているときに当面姉さんの家に泊めてもらう趣旨の連絡は送っていた。母さんからの返信は「頭を冷やしたら戻るように」と記載されていた。あっさり気味のメッセージだが母さんからすれば短期的な家出だと予想しているように見て取れた。もっとも家出の張本人である俺自身がいつまで家出をするかは全く見通しは立っていなかった。


「本当実家に居た頃の思い出は父さん絡みで嫌な記憶が多いな」


 眉を顰めて姉さんは父さんへの不満を零す。過去の姉さんに対する父さんの態度を考慮すれば姉さんには同情せざる得ない。俺も父さんのことでため息を吐きたくなったが、次に耳に入り込んできた姉さんの言葉に俺の脳は暖かい想いが拡散する。


「だけど松貴との思い出もあるから全部が嫌な記憶ばかりではないけどね」

「小さい頃から姉さんには遊んでもらったり世話になってたからね。……だからか姉さんがいない家が当たり前になりすぎて今こうして姉さんと食事しているのが逆に新鮮に思えるよ」


 小さい頃から歳が九つも離れた姉は俺にとって頼りになる存在で、姉さんは学業や部活動で忙しくても俺に親切に面倒を見てくれた。姉さんという存在が実家から完全に消失して以降家に帰宅しても家族という温もりを味わうことはほぼなかった。そしていつの間にかそれが普段の日常に置き換わっていた。実家ではないが家という場所で姉さんと交流していることで長年心から欠けていた家族という想いが蘇ってきたような感覚がしてた。


「わたしも松貴と同じ気持ちかな。会う機会はあっても夕食食べる機会は殆ど皆無だったからね」


 平穏な口調で姉さんは自らの想いを語ると箸で弁当の食材に触れる。口元を緩ませながら弁当の食材を口に運ぶ姉さんの雰囲気は安らかで一緒の食事をしている俺も穏やかな気持ちになる。家出したことには不安しかないが、久々に姉弟らしい時間を過ごせて俺としては良かった。


「姉さんそろそろ行くね」


 鏡を貫通して部屋に差し込む朝日が肌を照らす。肌は外よりも涼しい室内に置いてもやや熱く観じられ外の温度がそれなりに厳しいことを教えてくれた。俺は制服に着替え玄関で靴を履きかけていた。


「随分と早いのね」


 仕事用の私服に着用している姉さんはまだ座卓の前に座り朝食のパンを食べている最中だった。実家なら俺もまだこの時間帯は朝食を食べていても時間的には余裕があった。だが躍巡高校から離れた姉さんの家からでは朝早く出ないと学校に間に合わない恐れがあった。


「学校からかなり離れているからね。それじゃ行ってきます」


 家を出るとそのまま駅へと向かい電車に乗車する。車内は会社員や学生などでそれなりに乗っている。高校生らしき若者も何人も目にするが同じ制服の学生は見受けられなかった。電車は走り出し俺は立ちながらスマホでネットを閲覧していた。普段では体験しない早朝からの電車の走行音や揺れを観じていた。脳裏には自転車を漕いで登校する俺の姿が浮かび上がる。


 姉さんの家を出るまでは姉さんの存在が近くいたおかげで不安を抑制されていた。だが今この車内に姉さんはいない。頭がそのように認識し始めると体が急激に冷えたような気がする。スマホを鞄に納め右手で軽く左腕を掴んでみる。腕は暖かく先程の感覚は勘違いであったことに確認できた。だが腕を介して胸の内から確かに冷えているという感覚は確実に伝わってくる。電車が確実に学校の最寄り駅に近づくにつれ、同じ制服の学生が車内に増えていく。そして家出したことに対して心の不安が着実に広がっていった。


 躍巡高校の最寄り駅で電車を降りた後、見慣れた道を歩いていて学校に向かった。途中クラスメートを見掛けたが声を掛ける余裕は心に一切なく、ただひたすらに家出したあの日の光景が心に投射され続けていた。


 学校に着き教室に入る。クラスメートの大半が既に教室で話すなどして朝礼までの時間を過ごしていた。俺に気づいたクラスメート達から掛けられる「おはよう」の挨拶。それが耳に届いたことに気付いたがすぐさま返事が喉から出ない。声を出すことに集中して何とか喉から口を通して声が外に出る。


「おはよう……」


 あまりにも弱々しい掠れたような返事だった。挨拶をしてくれたクラスメート達は異変を感じ取ったよな顔付きでこちらに視線を向ける。俺は強引に笑顔を作って周囲の心配を払拭しようとするが、笑顔が不自然すぎたのか余計にクラスメートたちの表情は曇っていた。


 昼休みになると眠たくなるような暖かい気温に照らされる中庭のベンチに腰かけていた。膝に載せた開封前のパンを朧気に目に入る。昼休み終了の鐘が鳴る前に昼食を完食する必要があるのは頭の片隅では理解している。だが食べる気力が中々湧いてこない。


「松貴くん具合でも悪い?」


 横側から流れてくる声が耳に入り声の方向に首を捻る。栗之先輩が純粋な瞳で不安げに俺の様子を窺っている。


「ちょっと眠たいだけです」


 俺はわざと口に手を当てて欠伸をする。栗之先輩はその光景を目を伏せて見ていた。少し経つと「ならいいけど」と渋々と納得した表情を見せると話題を変えて話し始める。俺は新しい話題に必死に喰らいつく。栗之先輩の家族事情を訊いておきながら、自分のことは話せない現状に苛立つ。栗之先輩にはあまり心配をかけたくなかった。

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