第8話 夜の瞳はきらめきを見る

 黄昏の名残すらないほど空から明るさは消え四月の冷たい夜風が緩やかに流れていた。アルバイト帰りの俺は一人、車が一台程度通れる程度の人影が少ない道路で自転車を漕いでいた。今日のアルバイトはやけにお客様の数が多く多忙な業務内容だった。これだけ忙しいと流石に疲れがかなり蓄積されていた。おかげ今日はベッドに入った瞬間熟睡してしまうことが予想できた。


 ライトを灯しながら足でペダルを回していくが、家まではまだ距離が残っていた。やがて俺は住宅街の多い一本道に入る。住宅街は夜ということもあり、人の声など聞こえず猫がニャーッと他の猫に話しかけていると思われる鳴き声が寂しいそうな宙に小さく響いているだけだった。


 俺は喉が乾いたので道の傍らに設置されていた自販機の前で自転車を止める。果汁ジュースが飲みたい気分だった俺は硬貨投入口に小銭を投入し冷たいリンゴジュースのボタンを押す。上から下へと取り出し口に慌てるような音を立てながらリンゴジュースは落ちてくる。取り出し口からリンゴジュースを手にするとキャップを緩めてキャップを開ける。飲む前に俺は何となく遠くに居る人物の顔の左側が僅かに視界に入ると俺はリンゴジュースのキャップを急いで閉めた。


 今俺が自転車を止めている道端の向かい側の少し奥の方に栗之先輩が歩いていた。夜の街灯に照らされた栗之先輩は普段とは違い制服ではなく私服で黄緑のブラウスと白のロングスカートに身に付けていた。


 俺は栗之先輩に声を掛けるか迷っていた。夜も遅く声を掛けるのは迷惑になる可能性もあった。更に昨日の一件を知っている俺と会えば栗之先輩は昨日のことを思い返してしまう懸念もあった。俺はジュースを鞄に詰め込み自転車のサドルに腰を下ろし自転車を漕ぎ始める。栗之先輩に気づかれならそのまま素通りするつもりだった。


「松貴くん……」


 栗之先輩の声に体が無意識のうちに反応し気づけば急ブレーキを深く握っていた。自転車は甲高い鋭い音を立てタイヤは道路を擦る。自転車は丁度栗之先輩の真横で停止していた。俺は栗之先輩の方に自然と向いていた。俺の方を見る栗之先輩と目線が重なったまま少しの間会話もなし互いに直視し続けていた。やがて栗之先輩の方から俺の方に寄ってくる。距離が縮めったことではっきりと理解できたが、服装の色調は上品さを感じさせるほど溶け合っていた。


「……栗之先輩こんばんは」


 通り過ぎようと考えていたため、挨拶をするだけでもかなり勇気が必要だった。が、昨日の件で気まずいのか少しばかり顔付きは固かったが、栗之先輩は昨日とは違って表情は活力が戻っていた


「こんばんは。この時間帯に会うってことはアルバイトしてたの?」

「今日もアルバイトでした。今は帰りの最中ですね」

「夜遅くまで大変だね。学校終わりで体力的にも辛いだろうし」


 栗之先輩は同情するかのように優しげな瞳で労ってくれる。栗之先輩もアルバイトで色々と苦労してきたのだろう。もっとも栗之先輩にアルバイト経験があることは本人からは語られていないので、俺は栗之先輩のアルバイトについては触れないよう気を配った。


「いつもこんな感じなので慣れていますよ。栗之先輩は何してたんですか?」


 言葉ではアルバイトの疲れが生活には支障がないように振る舞いつつ栗之先輩に話を振る。学生生活とアルバイトの掛け持ちはアルバイトを始める前の想定以上に体力を消耗する。辞めようと考えたことはないが、これから受験に向けて勉強にも熱を入れる必要がるあるので、気弱になりそうだった。


「私は友達と出掛けてて買い物したりご飯食べてたよ。行った飲食店が予想以上に美味しかったし、友達と話せて良い時間だったかな」


 栗之先輩は頬を緩めながら快活な声で出掛けた内容を教えてくれる。その様子を見て俺は昨日のことはあまりに気にかけていないのだと心の内で安堵していた。


「友達と遊ぶと色々と忘れて楽しめますよね」


 俺は三月頃に遊んだ一年生との友人たちとの思い出を頭の中で振り返る。二年生に進級してから一年生の頃の友人たちとはそれぞれの予定の関係で遊ぶ機会が作れていないが、友人と居る時間は家の問題を忘れられるため貴重な時間だった。


「わたしは今日友達に助けられた気分だよ。本人にはそんなつもりないだろうけど……」


 周囲の住宅からは話し声は聞こえず、道に車はおろか自分たち以外の歩行者はいないほどこの場所は静寂だった。その静寂に覆われた空間に飛んできた栗之先輩の言葉はあまりにも脆く感じられた。その言葉は無意識のうちに口から出たのか栗之先輩は目を大きく見開き表情が固まっていた。すぐさま栗之先輩はぎこちない笑顔を形成し誤魔化すかのように「それよりも呼び止めてごめんね。夜も遅いのに」としんみりそうに謝ってきた。


「あとは帰るだけですし、少し話す程度なら迷惑ではないですよ」

 俺はあえて栗之先輩のことばを否定する。このまま栗之先輩の言葉に同調して帰宅するの選択肢も考えた。栗之先輩の心情としては早く解散したはずだ。だが栗之先輩の現状を見過ごせなかった。


「どのみち明日も学校だし、松貴くんを遅刻させたらわたしの責任になるからそろそろ帰ろうか」


 予想通り栗之先輩は帰ることを促してくるが俺は首を横に振り、冷静になるために一度唇を閉ざしてから息を呑むこむ。そして真剣な声で推し量った栗之先輩の悩みについて問い合わせる。 


「表情悪いですけど、やっぱり昨日のお父さんのこと気にしていませんか?」


 栗之先輩にとってこの発言は図星だったのか観念したかのように深いため息をついた。やがてしんみりとした顔付きになった栗之先輩は躊躇うように唇をしっかりと噤んでいたが、一気に口を開き現状を話し始めた。


「昨日のことは一切気にしていないって断言したいんだけど、松貴くんの言う通りお父さんのことで頭を悩ませているかな。けど昔からのことだから松貴くんが気にする必要ないよ」


 事実を知ったことで親に悩みを抱えている俺にとって栗之先輩の想いには同感できた。だからか栗之先輩にこの件に関わることをやんわりと否定されても引き下がる選択肢はなかった。


「昨日、栗之先輩とお父さんのことで違和感覚えていたのですが、話なら俺聞きますよ。もしかしたら力になれるかもしれないですし。まだ時間にも余裕ありますから」


「松貴くんの申し出は助かるけど、この問題と無関係な松貴くんを関わらせるのは申し訳ないよ」


 栗之先輩はこちらの申し出を断るが、不安から身を守るかのように左手で右肩を強く握りしめた。


「けど俺が栗之先輩の悩みを当てる前から栗之先輩の様子がおかしかったから見過ごせないんですよ。悩みを抱えたままだともしかした一生解決しない恐れもありえますから」


 俺は栗之先輩のやるせなそうな瞳をしっかりと見据えて、喉から声を振り絞ってもう一度訴えかける。栗之先輩は左手を右肩から解き、曇った表情から太陽が微かに顔を出していた。


「松貴くんの言うとおりかもね。いつまでも悩みを放置はできないよね。ちょっとだけで話聞いてもらうね」


「話したほうが心が落ち着くことも多いので、時間の許す限り聞きますよ。立ち話だと大変なので、近くに公園あるのでそこのベンチで座って話しますか?」


 何度もこの辺りを通っていた俺は一度も寄ったことのない公園を覚えていた。確かベンチもあったはずなので話すには適していた。


「そうだね。松貴くんも自転車持ったままだと疲れるよね。早く行こうか。時間もないことだし」


 栗之先輩は精一杯の微笑みを見せる。その表情を見た俺は栗之先輩は問題を抱えつつも、日常ではそれを漏らさないように平然に振る舞ってきたのだと思い知らされた。

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