山に還る理由
清水霞
山に還る理由
僕はあの日のことを思い出してから、山に行きたくてしょうがない。それは十数年程前、僕がまだ小学生だった頃のことだ。
その日は、家族で小さな山を散策しに行った。当時、いたずら心と好奇心のまま生きていた僕は、みんなとわざとはぐれ、山の奥へとはいっていった。そして道に迷った。いくら歩いても元の道には戻れないまま日が暮れはじめ、歩き疲れた僕はうずくまってしまった。このまま帰れなかったらどうしよう、ここで死ぬのかなと不安にかられていたとき背後から声が聞こえた。「君、こんなところでどうしたの?」振り向くと、作務衣を着た二十歳ぐらいの若い男の人がいた。とてもきれいな声だった。その声の主が悪人かどうか疑う余裕もなく、人に会えた安心感で僕は泣いた。泣く僕をみて、彼は慌てていた。泣く子をあやすのに慣れていないのだろうか。その様子が可笑しく思えて僕の涙は次第に収まっていった。僕が落ち着いたのを察したのか、彼はとりあえずもう暗いからと、その近くにあるという彼の家まで僕をおぶっていってくれた。彼の家は不思議な家だった。かやぶき屋根で木造、部屋の真ん中に囲炉裏があった。彼は慣れた手つきで囲炉裏に火を灯し、茶を沸かし始めた。部屋はほのかに明るくなり壁いっぱいの時計が浮かびあがってきた。その時計の多さは、時計の博物館に行ってもお目にかかれないほどであり、奇妙な空間であった。それ程の多さの時計が動いているため、針の音が大きく感じられた。一台一台はかちかちと一定のリズムを刻んでいるが、時間調節が上手くいっていないのだろうか、カエルの合唱みたいだった。時計の多さに僕が圧倒されているのを横目に男は手際よく茶をいれ僕に差し出した。彼は囲炉裏を挟んで僕の対面に座ると、時計の声に負けないように外でしゃべるよりも大きな声でしゃべりはじめた。出されたお茶の温かさを手のひらとのどに感じながら彼、もとい「佐々木明」の話を聞いた。どうやら時計をつくることで生計を立てていること、以前は師匠と共にここを使っていたが、師匠が亡くなって以来、一人でここを使っていること、この時計たちは師匠のコレクションと作品であり、形見として大事に管理していることを明かし、自分の素性について話してくれた。僕も自己紹介をし、迷子になったことを話した。すると、彼は日が出てきたら、町への道のりを案内してくれると言ってくれた。僕は他に帰る術も、頼る人もいないため佐々木の言葉に甘えることにした。
―ゴーン、ゴーン
時計の鐘の音が響く。たくさんの時計たちのいくつかは長針が十二を指すと鐘がなるようになっていた。その音が気になって、はじめはよく眠れなかった。しかし、疲れていたのか三回目の鐘の音を聞いてからは記憶が無い。僕はこうして、佐々木の家で一晩過ごした。
朝日が差し込むと伴に室内も明るくなり、僕は目覚めた。昨日と変わらず、時計がカエルの合唱をしている。佐々木はもうすでに、起きており自分の分の布団を片付けていた。暗くて気づけなかったが、明るいところでみると佐々木が美人だったのを覚えている。佐々木は、僕が起きたことに気づくと、「おはよう。準備ができたら教えて。帰り道を案内するよ」と言った。僕は準備をするにも着替える服もないため、布団の片づけを手伝い、その後すぐに、佐々木の案内のもと下山を始めた。道中、僕と佐々木は会話が途切れることは無かった。時計や山についてなど、佐々木の話は僕にとっては物珍しく、僕が飽きることはなかった。三十分ぐらい歩いたところで、佐々木は急に足を止めた。まわりはまだまだ緑豊かで、足元は人が歩くために整備されている様子はない。僕は不思議に思い、佐々木の顔を覗いた。すると佐々木は「この道をまっすぐ二十分ぐらい進むと町に出るから。」と言った。町まで佐々木が着き添ってくれないと思うと、僕は突き放されたような気分になった。今まで佐々木は親切な対応をしてくれたため少し雑な対応に驚いた。なにより、佐々木の話は面白かったし、もう少し聞いていたかった。それにお礼もしたい。しかし、何か事情があるのかもしれないし、ここまで手厚くしてくれたのだからわがままは言えなかった。だから、せめてもの思いで、お礼をしたいからと連絡先と住所を訪ねた。しかし、佐々木はお礼が欲しかったわけではないと教えてくれなかった。僕はなんだか寂しくなって、また会えるかと聞いた。すると佐々木は、「絶対にまた会えるよ。」と会ってから一番の笑顔で返事をした。その笑顔は優しかった。とにかく優しかった。迷子の子どもをかくまい道案内までしてくれる優しい行動そのものを表したようで、慈愛に溢れていた。いや、今思えば彼こそが慈愛の権現だったのかもしれない。その笑顔から発せられた言葉を聞き、僕は嬉しくなり、お礼とまたねを言って、佐々木の教えてくれた道を進んだ。佐々木が見えなくなるまで僕は何度も振り返った。佐々木はそのたびに手を振り返してくれた。きっと僕が森に隠れて佐々木から見えなくなるまで見送ってくれたのだと思う。二十分ぐらい歩いたとき、人の声が聞こえた。「一、いるか?いるなら返事をしてくれ。」父が僕の名前を呼んでいた。僕は夢中になって走り、その声の元へ向かった。僕は無事保護された。その後、家族にこっぴどく怒られたのもよい思い出である。
そのことを最近ずっと考えている。というのも今、僕は入院している。これと言った治療方法が無い不治の病というやつになってしまった。特段の痛みとかはなくただ静かに急速に体力が落ちていくそんな病気だ。だから、入院したての僕は病気の苦しみもなく暇なため、本を読んだり、昔の思い出にふけってみたりするしかないのだ。他の患者がいるにも関わらず、案外病室は静寂で、かちかちという時計の音が聞こえるほどであった。その時計の音が僕の記憶の鍵を開けたのだろう、佐々木の部屋の時計の針の音がふと蘇った。そうして、佐々木のことを思い出したのだ。今まで忘れていたのが不思議なぐらい、思い出してみると佐々木のことしか考えられなくなった。さらに、絶対また会えるという佐々木の言葉が引っ掛かっていた。どうして、連絡先も住所も教えてくれなかったのに、あんなことを言い切ったのだろうか。もし、小学生を早く帰らせるための言葉だったとしても、あの慈愛に満ちた笑顔は僕を誤魔化しているようには見えなかったし、何か確信めいていた。それなのに、このままでは再会する前に僕が理由で会えなくなってしまいそうで、気がかりでしょうがない。佐々木の手がかりは山と時計ぐらいしかない。しかも、時計の器種とか、ブランド名は全く覚えていない。つまり、山に行くのが一番の捜索方法だと僕は思った。病気で体力が完全に落ちてしまっては、山へ行くのが難しくなってしまうから、急がなければならない。手がかりは多いに越したことはないため、このことを母に話してみた。母は真面目に僕の話を聞き、幾分か考えたのち、思い当たる節があったのか「あっ。」という言葉を皮切りに話を始めた。
「あの時のことね。思い出したわ。そんなこともあったわね。」
母は僕の肩をたたき、その時の感情を思い出したかのように表情を柔軟に変化させ、むすっとした。
「あんた急にいなくなるものだから、心配したのに笑顔で帰ってきたから、怒るには怒ったけど怒りきれなかったのよね。」
僕をぎろりと睨んで母が言う。
「それは、すみませんでした。」
冗談めかして僕は言った。母と僕はふふっと笑いあった。どうやら、山で僕が迷子になったことまでは、事実らしい。気を取り直して、母は佐々木いついて話してくれた。
「その、佐々木さんって言う人についてだけれど、あんたが山から帰って来るや否やその人に助けてもらったって、もう一度会いたがっていたから、私たちもお礼をしたくて佐々木さんを探してみたのよ。だけど、その山のご近所さん誰も佐々木さんを知らなくてね、結局、会えないまま有耶無耶なったのよ。」
母は眉を下げて、話を続けるがとても言いづらそうだった。次に続く母の言葉は予想がついているが、あえて言葉を待った。わかってはいるけれども、突きつけられたくはないのかもしれない。
「だから、その、あれから、何年も経っているし、当時もわからなかったのだから、わかっているとは思うけれど、佐々木さんに会うのは難しいじゃないかしら。」
「やっぱりそうだよね。話してくれてありがとう。」
僕は申し訳なさそうな母にお礼を言った。第三者からみると、やはり難しい話に聞こえるということを改めて思い知らされる。現実味が無いことがよりわかりはしたが、山に行きたい、佐々木に会いたいという気持ちが鎮まることはなさそうだ。この日はもう、山と佐々木の話を母とすることはなかったが、僕の頭は悶々としたまま、このことばかりを考えていた。無理だとわかってはいるのに山に行きたくて、佐々木に会いたくて仕様がない。あくまで願望なはずなのに、なぜだか、会わなければいけないという義務感に近しい何かを感じ始めていた。
その夜、改めて、佐々木について思い出してみた。考えるのではなく、遠い記憶を少しでも近くしてみる。着色はあるかもしれないが、山へ自由に行けない僕にはこれ以外、佐々木に通じる手がかりを増やす手立てがない。暗い病室、他の患者の寝息と共に時計の針の音が耳に入ってくる。その音に耳を澄まして、幼い頃の不思議な体験への接触を試みる。十数年程前の話であり、最近まで忘れていたというのに割とはっきりと佐々木の姿が浮かぶ。佐々木の優しさ、そして佐々木の容姿意外と細かく思い出せる。細くも形の良い目。まつ毛は長く、正面を向いていても、伏し目がちに見えた。口は、三日月を描きで桜のような薄いピンク。上唇は気持ち程度にしかない。それらをまとめる鼻は筋が通っているが高すぎない。堀が深い顔というわけではないが、バランスが取れていた。さらに、朝日に照らされた、白い肌と、深く黒い髪のコントラストが印象的だった。黒は何千色もあるというが、そのすべての中でも一番暗い色であった。光に当たると、当たった部分は何色にも見えたし、そのどれにも当てはまらないように思えた。そんな美しく整った容姿だった気がする。記憶の中の彼の姿は美しく、人だけれど、人とは違う何かにも感じる。その時の状況のせいかもしれないし、僕が勝手に着色しているのかもしれない。ご近所さんは誰も彼のことを知らなかったことは気がかりである。あの家は定住するためではなく、別荘のようなものとして用いているのかもしれない。けれども、あんな和風民家今どき珍しいし、山を散策して出会ったら絶対覚えるだろうし不思議である。やはり、彼は人ではない何かなのだろうか。もしかしたら、迷子の僕を助けるために姿を現した天使か何かなにかもしれない。
その日、佐々木の夢を見た。
「君、こんなところでどうしたの?」
僕を呼び掛ける佐々木の声が聞こえた。懐かしいくきれいな声で、あの日と同じ言葉を発している。なんだか嬉しくなる。声だけだが、佐々木に会えた気がして、また会える気がして嬉しくなる。でも、佐々木の姿はない。それ以上はよく思い出せないけれど、寝ても覚めても佐々木のことが頭からはなれなくて、山に行きたい気持ちが増す。その夢はその日だけに限らず、もう何日も続いたのだった。
「そんな夢を見るなんて、兄さん疲れているんじゃないの。兄さんもともとアウト ドアな人でじっとできないたちでしょう。目に見えて急に悪化する病気じゃないから体の前に心が疲れたんじゃないかな。だから、気分転換に山に行くのは悪くはないと思うよ。でも、さすがに一人では心配だし、俺がついて行こうか。」
夢の話を弟の頂にしたら、冷静で優しい返答がきた。弟の言う通り、当たり前だが入院前と今では生活スタイルが全く違う。大きく、急激な変化は例えそれが体には優しくとも、心にも優しいとは言えないのだ。それを察して、その改善のために自分の時間を提供してくれると、僕の弟は、優しい弟は提案してくれたのだ。前から思っていたが、よくできた弟だ。
「本当か。ありがとう、本当にありがとう、頂。」
高校2年生という青春の真っただ中な弟の大事な一日をもらうのだから、精一杯の感謝を込めた。
「これぐらい良いよ。俺、時計好きだからその家ちょっと気になるし。とりあえず、僕からも先生に頼んでみるよ。あっそうそう、時計というとね、今このMINっていうブランドが再燃焼してて…」
弟は照れくさいのか話を変えた。
それから少し経った頃、僕は体力の衰えを感じ始めてきていた。体力が衰えると山に登れなくなるため、焦燥感も合わさって、山に行きたい気持ちも強くなっていった。佐々木の声は毎日、夢の中で僕に呼び掛ける。僕は夢の中では幸せになれる。彼が、僕を助けてくれた天使かもしれない彼が僕を呼んでくれる。夢の中でも顔を出してくれないが、そのことさえ、佐々木は思い出のあの山で、思い出の場所で僕との再会をずっと待っているのだ、そう感じられてなんだか嬉しくなる。しかし、目覚めると、明るい気持ちが消えて、こんなにも呼ばれているのになぜまだ佐々木とまだ会えていないのかという悩みに飲まれる。すると、そうか山か、僕は山に行けていないから佐々木と会えていないのだという結論に至る。山へ行こう。いや、山に行かないといけない。その思いは倍増していく。
狂ったように、山と佐々木に執着している今の自分を客観視して冷静に戻る瞬間もある。そうすると、弟が言っていたように僕は僕が疲れているのだということを強く実感する。そして、この疲れを無くすためにも僕は山に行かなければいけないとなる。どうあがいても、僕は山に行かなければ救われない、そんな思いに襲われる。この気持ちが医師にも通じたのだろうか、弟の進言が効果を発揮したのだろうか、僕は今度の日曜日に山へ弟と出かけることになった。
視界が時計で埋め尽くされる。壁にはこれでもかというほどの壁掛け時計が、棚の中、上には所狭しに置時計が置かれている。かちかちと一定のリズムを各々が刻んでいるが、時間調節が上手くいっていないのだろうか、これではカエルの合唱だ。あの時の感覚。あぁこれは夢だ。とうとう佐々木の声だけでなく時計の家も夢にでてきてしまったらしい。山に行くことが確定したからだろうか。
「君、こんなところでどうしたの。」
僕の脳が佐々木の美しい声に支配される。声の発信源を探して首を動かす。しかし、部屋の中には僕以外には誰もいない。持ち主が不在でも動き続ける時計は、虚しく時を刻み続けている。その音に負けない声で僕は言う。
「佐々木さん。僕は小学生のときにあなたに助けてもらった者です。永塚一と言います。今度の日曜日あなたに会いにあの山に行きます。だからどうか、どうかもう一度だけでも僕と会ってくれませんか。」
相変わらず、時計の音だけが響き、僕の問への応答は聞こえてこない。
「この時計の音を、指標に僕は歩きます。だから、どうか時計は止めず僕を迎え入れてください。」
応答の無いまま僕は目を覚ましていく。
病室の窓から朝日が差し込む。時計の短針は七を指している。今日は日曜日。とうとう山へ行く日がきた。結局、山へ行くことが決まった日から、夢のなかで、呼び掛けても応答はしいない佐々木の声に再会を願い続けた。応答が無いことに悲しくもなったが、僕は声をかけ続けた。佐々木は応答してくれないが、少なくとも天気は僕に応えてくれた。天だけでなく、佐々木にも僕の声が届いてくれていることを期待しながら着替えを進める。荷物は弟が僕の分まで準備してくれる。優しい弟だ。
「おはよう。兄さん。体調はどう?」
弟が病室にはいって僕のベッドのところへやってきた。そして、僕の顔をみて、僕の体調を確認した。
「おはよう。元気だよ。今日はありがとうね。」
笑顔で返事をする僕とは対照的に弟は眉をひそめた。
「兄さん、あまり寝ていないでしょう。」
「はは。まぁね。」
前日の夜は遠足が楽しみで眠れない小学生にでもなったような気分だった。そのため眠い。どうやら弟の目はごまかせないらしい。
「これから、電車とバスに二時間ぐらい揺られるのに大丈夫なの?」
「これぐらい大丈夫、大丈夫。なんなら、電車で寝るから。」
弟は不満げだったが、その後、僕の体調には言及することなかった。そして、僕の準備が終わると、僕らは山へ向かって病室を後にした。
僕らは、一時間三十分ほど電車に揺られた。佐々木との再会を期待する気持ちもあったが、久しぶりに乗った電車は案外楽しいもので、結局一睡もできなかった。弟はそんな僕を心配しながらも、楽しそうに見守ってくれた。
「そんなにわくわくしている、兄さんは久しぶりに見たよ。」
弟は満面の笑みでそう言った。どうやら、病室での僕はあまり元気がなかったらしい。
電車から降り、駅を出ると正面にその山はあった。車窓から見えた山は、窓枠を介していたため動く絵画のようにしか思えなかったが、何も介さずに見ると記憶とか思い出とかが僕の奥から上がってくるのを感じた。バスに乗り、山に近づくとだんだん山が見えなくなる。
「あの日は家族四人でバスに揺られていたよね。」
懐かしいなと弟が窓の外を眺めている。
「そうそう。それで、落ち着きがなくて、父さんに静かにしなさいって怒られた。」
弟がそんなこともあったけと笑っている。この山には、佐々木との思いで以外にも、家族との思い出もあったのだ。佐々木と再会するのが一番の目的だけれども、それが果たせなくても、楽しい一日にはなりそうな気がした。
景色は流れ、山のふもとのバス停に着く。お金を払い、バスを降りると、風が僕の横を過ぎた。緑が豊かな場所に足を運ぶのはどれぐらいぶりだろうかと思いをはせる。入院生活は、僕には向いていないようだ。向いている人も多くはないだろうが。
「君、こんなところでどうしたの?」
ふと、声がした。緑の匂いよりも儚くただよっていたのを僕の耳が捕まえた。佐々木の声だ。あぁ、佐々木はここにいるのだ。僕は、山を見つめた。
「兄さん、大丈夫?」
「すまない、ぼーっとしていた。山は久しぶりで、大きいなって。」
「なら、いいのだけど。」
弟に僕の大丈夫が信頼できないのだろう。言葉とはうらはらに疑いの表情を浮かべたままだ。
「うーん。母さんの話と照らし合わせるとこっちかな。」
弟の案内のもと、小学生の頃に回ったと思われる散策ルートを歩く。二人とも、会話は覚えていても案外、道は覚えていないようだ。二人で、あっち、こっち、言いながら歩いた。弟との散策は楽しいものだった。しかし、このままでは、佐々木の家は見つからないままだろう。小学生の僕はみなからはぐれて、散策ルートから外れた道を探検していたのだから、このまま歩き続けては佐々木の家にたどり着けないのは明白だった。
「佐々木さんの家を探すなら、やっぱりこのルートではいけないかもしれないな。」
僕はぼやいていた。
「ルートを外れた散策をしたい気持ちはわかるけど勝手にいかないでね。」
弟はそう僕にくぎをさした。
「無計画にいっても、危ないだけだから、ちょうど良い時間だし、昼食がてら作戦会議にしよう。」
僕がとても不満げな顔をしたのだろう、弟は言葉を続けて僕をさとした。弟の言葉に、太陽が真上に上がっていることに気づいた。時計をみると、短い針が12を過ぎていた。
「うん。そうしよう。」
僕たちは、近くにあった、休憩所で昼食にすることにした。
休憩所と言っても、屋根と複数の長椅子があるだけの簡易的なものだった。長椅子の一つを弟と使う。母が持たせてくれたお弁当を、膝の上に広げる。蓋を開けると、ご飯の上にのった梅干しと卵焼きと野菜の匂いが鼻に届く。お弁当を落とさないように膝を震わせながら、食事をすすめる。高校生ぶりの母のお弁当は懐かしさがあふれていた。弟は、高校生でお弁当も現役生のため、何も気にせず食べていた。
「兄さんは、どうやって佐々木さんの家を探すとか考えているの?」
僕は、口に入れていた卵焼きを飲み込み、答える。
「いや、実はあまり考えていない。」
恥ずかしながら、あまり佐々木と会うまでは考えていなかった。運命という言葉は、おおげさだが、感覚的な問題であって、行けばわかると思っていた。
「えっ。兄さんそれはさすがに…。」
やはり、少々甘かっただろうか。でも、僕には自信があった。山に行けば会えると。
「でも、山に行けば会える。これは絶対間違っていない。」
「でも、それだけじゃ、さすがに今日中に見つけ出すのは現実的ではないよ。それに、僕は、もう山に来たのだから、次はどうするのかを聞いているんだよ。」
「それは、ルートを外れて散策をする。」
「それで、小学生の兄さんはどの辺を歩いたの。」
「わからない。」
弟はため息をついた。
「わからないって。兄さん、それじゃ本当に佐々木さんには会えないよ。」
弟のその言葉で、こめかみに力が入る。佐々木が再会は絶対できると言っていた。あの慈愛に満ちた笑顔のできる佐々木がその言葉を守らず、僕を裏切るようなことなんてしない。
「それはない、僕は佐々木さんと再会できる。」
「その自信はどこから来るのさ。それは無計画って言うんだよ。自分の体調もちゃんと考えなよ。」
弟が珍しく声をあげた。確かに無計画だったかもしれない。だけれど、
「けれど、本当に山に来れば会えるんだ。これは、絶対であって、僕の希望。」
「わかった。それは、わかった。だけど、それだけでは、話は進まないよ。どうしたのさ。そんな根拠の無いことにすがってさ。」
弟は息継ぎを忘れて、僕に食らいついてきた。そして、言葉をひと吐きしきったと思うと、息を吸う。そして、二呼吸ぐらい置いて、弟はこんなこと言いたくはないけれどとつぶやき、顔をあげ、先ほどよりも静かな声で言う。
「ねぇ、兄さん、本当に、佐々木さんはいるの?」
「いるさ。」
佐々木の存在を否定されて、思わず立ち上がる。食べかけのお弁当は、膝から落ちる。静かな山に、箸とプラスチックの容器の地面に着く音が鈍く響いた。
「いるさ。僕は、会ったんだ。さっきも、声がしたんだ。佐々木さんに会ったことも無い、頂に何がわかるのさ。」
こんなに大きな声を出したのはとても久しぶりのような気がする。そうか、それぐらい、佐々木の存在は僕の中では大切なのだ。
「そっか。疑ってごめん。僕、ちょっと用を足してくるよ。」
弟は休憩所を離れていった。その時の弟の顔は、俯いていてよくわからなかった。
弟に佐々木の存在を疑われて、僕はいら立ちが隠せなかった。僕は佐々木に会ったし、佐々木に呼ばれているのだ。佐々木はいる。それに、そんな存在しないものを一生懸命になって探すほど、僕はおかしくなっていると弟は思っていたのだろうか。僕は悔しくなって、絶対に佐々木に会うことにした。佐々木の存在を疑うような弟といては、一向にルートを外れた散策なんてできない気がして、僕は一人で休憩所を飛び出した。
弟が向かった方向とは逆の方へ歩き始める。太陽はまだ真上にあり、散策ルートを照らす。そして、散策ルートの横に道とは言えないが人が通れなくもないところを見つけ、そこへ入る。そこは草木が生き生きとしていた。太陽の光は彼らが受け止め僕の足元には届きづらくなった。僕は一人で散策ルートを外れて、佐々木の家を探し始めた。小学生の時と違って今日は方位磁石ももっているし、自分の位置を気にしながら歩くという年齢を重ねて得た冷静さも兼ねている。それに、僕は歩ける。まだ、元気なのだ。弟がいなくても、僕は佐々木の家を探せる。むしろ、弟は邪魔だったのかもしれない。僕と佐々木の再会に他人の介入なんあってはいけない。小学生の僕だけが佐々木と会い、今の僕だけが佐々木に夢の中で呼ばれている、根拠はないけれど僕一人でないと佐々木は現れない気がする。
僕は通れそうなところを探しながら、森の中を歩き続ける。夢と記憶は意外と頼りにならなかった。思い返してみれば鮮明に覚えているのは、家族との会話や佐々木と出会っている間のことであってその前後、つまりは森の散策ルートやはぐれて森を探検していた部分、佐々木と別れた後の帰り道の部分の記憶はほとんどないのだ。だから、直感に、思うがままに歩いた。僕の動力は佐々木に会いたいその一心だけだった。歩けば歩くほど、その思いは強くなっていく。しかし、それに反して疲れと足の痛みは蓄積していく。自分が人であることをこんなにも憎んだ日はない。こんな体を飛び出して、佐々木に会いに行ければ良いのに。
何時間歩いただろうか。足の痛みをごまかすために、佐々木と会ったら何を話そうか、第一声は何と言おうとか思いを巡らせていたらいつの間にか日が傾いてきている。木々の影は薄くなり、闇に溶け込みそうだ。手元の時計を見ると短針が六を過ぎたところであった。そろそろ、戻らないといけない。でも、今日を逃すと、あの家に行くのも佐々木に会うのも難しくなってしまう気がする。ポジティブに言い換えるなら、今日なら佐々木に会える気がする。この勘を信じて僕はこのまま歩き続けることにする。
歩ける場所を探すことも困難になってきた。意識も遠のき、足の痛みさえ遠くなってきた。しかし、足は棒のように重い。そろそろ、心身共に限界かもしれない。あぁ、僕はこのまま佐々木の家にも着かず、佐々木にも会えないまま、この山で死んでいくのだ。弟には本当に申し訳ない。言い争って別れたから、あの時、僕も言い過ぎたからと深く後悔するだろう。もしかしたら死体も見つけてもらえないかもしれない。暗い思いがめぐり、僕はとうとう座り込んでしまった。頭が重い。近くにあった木にもたれ、少しでも楽になりたくて、肺と脳が意識的に酸素を求めている。浅い呼吸を繰り返す。酸素とともに木と土の匂いも吸い込む。これが僕の還る場所の匂い。生まれる前からここに還ると決まっているそんな場所。いつもは山になんて行かないから疎遠な所なのに、いざ訪れると親近感が湧いてくる。目を閉じて体を山に任せれば、沈める気がする。意識は体と乖離していく。脳みそで感じられる自分はきっと薄くなっているのだ。
―ゴーン、ゴーン
近くから鐘の音がした気がした。遠くに行った意識を取り戻し、耳を起こす。気がするのではない、しているのだ。一つの鐘の音でなく、いくつかの音が重なり下手な合唱団のようになっている。急いで手元の時計を確認する。長針は十二を指している。もしかしたら佐々木の家の時計の鐘かもしれないと思い、音の発信源がある方へと向かう。足取りは自然と早くなり、疲れも忘れて、夢中だった。草をかき分け、木の根を飛び越え、かやぶき屋根の家を、佐々木を、僕の思い出を探した。すると、「そこをまっすぐ。」という声が聞こえた気がした。それに素直に従うとあの家があった。佐々木の家だ。喜ぶ前に佐々木に会いたい思いが先走り、夢中でドアをノックした。誰も出ない。どうやら留守らしい。とりあえず待つことにした。五分、十分、刻々と時間が過ぎていく。高ぶった心も時間経過とともに落ち着いていく。落ち着けば落ち着くほど、疲れやケガの痛みが自己主張を強くしていく。一時間ぐらい経った頃には完全に正気になっていた。鐘の音を聞いてからは夢中だったため、帰り道のことなんて全く考えていなかった。帰り道なんてわからなくなっていた。後悔の念が今になって押し寄せる。しかし、家にまでたどり着けたのだから、会えずに引き返すのはもったいないと思い、僕は佐々木を一晩待ち続けることにした。季節は冬でも夏でもなかったため、一晩なら越せなくもなかった。佐々木がいつ帰ってきても良いように僕は一晩中起き続けるつもりだったが、疲れからか眠ってしまった。
朝日で目を覚まし、体を伸ばす。夢では佐々木に会えた気がしたが、その内容は思い出せない。佐々木の家のドアをもう一度ノックしてみたが反応が無い。もう一日待つのは現実的でないため僕は帰ることにした。眠ってしまったため、体力と頭はある程度回復している。そのおかげで詳しい道のりは覚えていないが、どこから来たのか、ある程度の方向は覚えていることに気づけた。疲れで忘れていたが携帯も持っていることも思い出す。圏外だけれど、電波のあるところを探しながら下ればなんとかなるだろう。しかし、このまま帰るのももったいないため、佐々木宛の手紙だけ書き残していった。
十数年前に助けてもらった者です。覚えていますか。絶対会えるという言葉を。僕はまだ信じています。
心残りしかないが、とりあえず下山することにする。来た時と同じで、歩けるところを探しながら歩いた。三十分ぐらい歩くと、水の音が聞こえてきた。川沿いに歩けば道に迷うこともなく下れるし、水分補給もできると思い、川と合流して歩くことにした。僕の体力は本当に落ちていたのかと、疑問が湧いてくるほど、このまま山道を歩いて、帰れることが僕の中では確定していた。病気は誤診で、周りの人がそれを信じて、体力の落ちている人みたいな扱いを僕にするから僕もそう思い込んでしまっていただけなのかもしれない。本当は僕の体はすこぶる健康なんだと、そう思えてきさえている。
そんなことを思いながら川沿いを歩き続けていると、割と綺麗な状態のしめ縄のかかった大きな石と遭遇した。携帯の電波はまだ圏外だけれど、しめ縄を石にかけるなんて行為は人間しかしない。ここまで来る人がいるのだろうと思うといくらか安心できた。僕は少し休憩することにした。いくら元気でも、休憩は大事だし、喉も乾くし、汗も出る。水分補給と顔を洗うために、川を覗く。川の隣を歩いてきたが、ちゃんと川を覗いたのは初めてだった。川は浅く、僕の膝丈にも満たない程の水深だろう。水は透き通って、川底が見える。底は石が詰まっており、その隙間に水草がなびいている。焦点を手前に持ってきて水面に合わせると僕の顔が映っていなかった。
この顔は僕ではない。鏡ではなくとも何かに映った自分の顔ぐらいなら毎日見ている。その経験が僕に、川に映るこの顔が僕の顔ではないと思わせる。では、この顔は誰の者なのか。恐怖よりも好奇心が勝った僕は身を乗り出す。細くて形の良い目。顔全体のバランスをまとめる、筋の通った高すぎない鼻。この顔は…
「佐々木さんだ。あなた、あの時の佐々木さんですよね。」
水面に浮かぶ顔は口角をあげる。これは肯定の意を示しているのだろうか。
「嬉しい。僕はあなたに会いに来たんです。覚えていますか。十数年程前に助けていただいた永塚です。」
佐々木は口をぱくぱくさせ何かを言っている。川の音のせいなのか、彼の声は全く聞こえない。僕は自然と身を乗り出していた。彼の声を流してしまわないように、横を向き耳を水面に寄せる。
「ボ…、モ…。ヤット…。コレ…ク。」
あっ、聞こえた。もう少しで何を言っているかわかりそうで、僕はより身を乗り出す。
「ボクモ…ア…カ…。ヤットキテ…。コレカラ…シク。」
あともうひと踏ん張り。耳は水面ぎりぎりだ。もうこれ以上は乗り出せない。バランスを保とうと力を入れた腕と腹が震えている。神様お願いします。佐々木が何を言っているのか教えて下さい。
「僕も会いたかった。やっと、来てくれたね。これからよろしくね。」
水面ではなく僕の背後からそう声が聞こえた。小学生のときのように僕はうしろを振り向き、安堵する。きれいな声と優しい笑顔。作務衣を着た佐々木が立っていた。僕は見とれた。佐々木は僕に近づき、耳元で、
「今度は絶対むかえに行くね。」
とささやき、僕の肩を優しく押し、僕を後ろの川に落とした。僕はそれを笑顔で受け入れる。落ちる瞬間まで佐々木は僕を笑顔で見つめていた。きっと、つま先が水につかるまで、僕が落ちていくのを見てくれているのだろう。白い肌、日に照らされた深く何色にもみえる黒の髪。三日月の唇が描く、優しい笑顔。僕はもう忘れない。佐々木との縁が今やっと正式に結ばれた気がした。
僕は落ちた。僕の膝丈にも満たないほどの浅い川だったのに、僕が頭からつま先まで縦に入っても足りないほど深い川になってしまっていた。
「兄さん。兄さん、大丈夫?」
弟の呼びかけと、弟の腕時計の音で目覚めた。一定のリズムを刻む、時計に対して、弟の声と呼吸は、不安定だった。
「どうした?頂。」
僕は長椅子に座った弟の膝の上で目覚めた。弟は僕を膝枕しているらしい。さっきまでの元気さが嘘だったかのように体が重い。少し、上体を起こし、周りを確認する。どうやら、散策ルートの途中にあった休憩所にいるようだ。
「どうしたも何も、俺が休憩所に帰ってきたら、兄さんが倒れていて、言い合った後だから、俺、心配で。あんなこと言って本当にこめん。」
目を赤くしながら弟が訴えた。僕は、弟が休憩所を離れている間に倒れたらしい。弟と僕では時間経過と場所の動きがどうやら合っていないようだ。あぁ。あれは、佐々木に会えたことは夢だったのか。いや、違う。僕は佐々木に会えた。だって今、僕は今までで一番佐々木を身近に感じている。僕と佐々木の関係は近くなったに違いない。そして、僕はいつか佐々木に連れられて、あの山に還るのだ。
「もう大丈夫だよ。」
弟の顔に手を伸ばす。心なしか、服が湿って、重かった気がした。
学校が終わり、俺は着替えや差し入れなどを兄さんに渡すために、病室へと向かう。俺と山に行った日から兄さんは山へ行きたいとは言わなくなった。そして、その日を境に兄さんの体力は著しく落ちていき、刻々と死へ向かっていることが本人以外でも実感できるようになってきていた。あの日から半年ほど、経った今、医者も、そろそろ限界が近いと言っていた。兄さんはだんだん寝ている時間が長くなったし、立ち上がれなくなっていた。だけど、兄さんはどこか幸せそうだった。
「兄さん、来たよ。」
兄さんのベッドの横に荷物を置き、兄さんの耳元で呼び掛ける。
「いつ、も、わる、い、ね。」
ほぼ口パクだし、口もあまり開いていないが、そう言われた気がした。
「兄さんに会いに来るのは好きだから、気にしなくて良いのに。」
兄さんは、一言しゃべるのも精一杯で、体力の消耗も大きく、会話を続けることが難しい状態なため、俺はとりあえずベッドの横の椅子に腰を掛けて、窓の外を見つめた。静かな時間が流れる。時計の針の音と兄さんの呼吸の音に耳をすませるだけの時間。意外と心地が良い。
「あ、」
何分か経った頃、兄さんの呼吸が乱れた。兄さんの方を見る。
「か、れが、」
管のついた腕を振るえさせながらあげて、何かを指さしている。
「兄さんどうしたの。」
兄さんに耳を近づけ、話を聞く。
「佐々木さんが。」
空気が多く含まれた、微かな声だったが兄さんは絶対にそう言った。しかし、指さす方向を見ても、病室の白い天井しかない。
「むかえに、来てくれてありがとう。一緒にあの場所に還りましょう。」
兄さんは笑顔で割とはっきりとそう言って、腕を降した。それ以降、俺が兄さんの声を聞くことはなかった。静けさを取り戻した病室は、時計の針の音だけが響いていた。
山に還る理由 清水霞 @kasu3kan-
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