暁の幻惑 ー傍観者たる少女は、当たり前を夢見るー

Hours

第一部

第1話 愛花の1日



 ーーわたしの世界は狂ってる。

 きっと、ずっと。彼に出会った時から。




「ねぇ、ママ。私のお気に入りのシュシュ知らない?」

「…………」

「ねえ、ママ」


 木皿儀愛花は、朝、日課である神棚参りをしている母に声を掛けた。

 忙しい中でも、母は決してこの日課を止めることはない。信心深いと言えば良いのか、母は何か普通以上の思い入れを持って、神棚に神拝するのだ。


 御神酒を供え、神棚を綺麗に掃除して、礼をする。


 ーーシン。

 周囲の音が止んで、澄んだ空気が家に満ちた気配がした。

 愛花の影が不自然に揺れる。愛花はそれに気付きながら、無視をして母にもう一度問うた。


「……マーマー? シュシュ知らない?」

「……知らないわよ。愛花、自分の持ち物は自分で管理しておきなさいって言ったでしょ」

「えーー」

 

 ピシャリとした口調で返されて、愛花は不満そうな声を出す。しかし、ギロッと睨み返され、手を挙げて方向転換した。

 朝の母は忙しさで気が立っている。これ以上聞くと、怒られそうだ。


(くわばらくわばら、触らぬ神に祟りなし)



「えー。どこやったかなぁ」


 愛花は自分の部屋に戻り、机の上や、棚の物置、バッグの中などを荒らしまわる。

 物が散らかるばかりで何も見つかりはしない。……視界の端でポヨンポヨン影が揺れているのに気づいたが、また無視した。


 そのまま愛花はしばらく探したけれども、視界の隅で跳ね続けている影を見て、いつものあれかと諦め、結局黒い髪ゴムでポニーテールに纏めた。


「……ふぅ」


 白いブラウスを纏い、野暮ったい紺のスカートを着る。

 鏡台の前でリボンを整え、深く息を吸った。


 ーー今日も、一日が平凡に過ぎることを祈りながら。




「いってきまーす」

「いってらっしゃい」


 玄関前で、母が愛花を見送る。


「この頃、不審者情報が相次いでるみたいだから、帰ってくる時は気をつけなさいね。なるべく明るいうちに帰ってくること」

 

「……はーい」


 (そういうなら、送ってくれてもいいんじゃ?)


 そんな文句を感じながら、愛花は背中にリュック、右手には学校鞄を携えて家を出た。結構な大荷物だが、彼女の学校は教科書の量も課題テキストの量も並外れて多いので、これくらいは当たり前だ。お陰で体が毎朝毎夕、鍛えられている。


 家から学校までは1.5キロの距離。徒歩20分くらいで、学校に着く。愛花の家は街とは少し離れた場所にあるので、歩き出しても人並みはほとんどない。ご近所に家はあるのだが、おばあさんやおじいさんばかりで愛花の集落にはほとんど子供はいない。過疎とまでは言えないけれども、まあ、そんな感じである。


 愛花は長いポニーテールを、ぴょんぴょんと左右に動かしながら道を歩いていく。愛花の肩に不自然に存在する小さな影もまた、それに合わせて左右に揺れた。


「あ〜、眠い」


 ぐいーっと、身体を伸ばし小さく欠伸をする。

 今は新学期が始まって、一月ほどだ。春休み明けの鈍った身体が、まだ眠たいと言っていた。

 それを誤魔化すように愛花は、緑いっぱいの風景を見回した。

 歩く町並みは自然に溢れ、青々とした樹々に、色とりどりの野花がそこかしこに咲く。


「春日和だね〜♪」


「にゃぁーん」

「ミャアァーン」

 そこで猫たちの声がした。砂利の上に集まって、何か話しているようだ。にゃーにゃーという声に混じって、副音声のように意味を伝えてくる。

 あれらは、普通の猫ではない。よく見れば、尻尾が二叉や三叉に分かれていた。


「魔法使いが失敗して落ちてきたって」

「……馬鹿だよなぁ、空を飛ぶくらいしか能がないのに。飛ぶのも失敗するだなんてさ」

「あとその魔法使い、愛し姫のものを盗んだみたいって」

「……えー、本当かよ、そりゃやばいなぁ」

「だよなぁ……」

「魔女になろうとでもしてるんじゃないか」


 好き勝手話している猫たち。そんな中で、「魔法使い」という言葉が気になった。魔法使いが、空から落ちてくるーー。


 (魔法使いとは……誰のこと?)


 愛花は、思い浮かぶような思い浮かばないような子たちを何人か頭の中に出してきて、空を飛ぶのに失敗して落ちてきた姿を想像する。ーーぼとぼとと、落ちていく。


 (とんでもなく、シュールだ)


 彼女がじっと猫たちを見つめていると、肩の影が猫たちを威嚇するようにシッと動いた。その瞬間、猫たちはすぐに姿を消し、話の続きを聞くことはできなくなる。


 (……せっかく話の途中だったのに)


 肩に乗っている影を掴み、ヒョイッと道に投げた。


「いや、聞いちゃいけないのか」


 普段は異物の話す言葉は聞かないようにしているのだが、なぜか猫又たちの話は耳に入ってしまう。雑学とか面白いことばっかり言ってるんだから、聞かずにはいられないのだ。


 ぶつぶつ呟いて、また歩みを進める愛佳の機嫌を覗き見ながら、影はスルッとまた愛花の肩に戻った。


 そんな感じでマイペースに歩いていくと、やっと自然の景色から人工的な街並みに様変わりする。

 灰色と黒のコントラスト。コンクリートとアスファルトに、空には電線と電柱が蔓延っている。愛花の住む地帯とは、距離的には近くても全く違う景色。愛花はその風景があんまり好きではないけれど、住む上では便利なのだろうと思っている。スマートフォンすら持ってもいない彼女にとっては、他人事に過ぎないが。



 街に入り、斜面に沿って道を上り、少しすると学校がある。愛花は学校の正門の前で立ち止まった。


 (うわぁ……、今日は何があったんだろ)


 空気が澱んでいる。空には水に浮いた脂のような奇妙な模様が見え、ねばつく重みを感じた。見るだけで気分が悪くなる。

 生徒達は何もわからないようで、入るのに躊躇している愛花を素通りし、正門から普通に登校していった。よく耐えられるな、こんなにヒドイなら絶対に気分が悪くなるはずなのに……と、思っていると影が少し揺らめき、パンッ!! と澱んだ空気を吹き飛ばした。


 (…………)

 

 なんとも言えない気持ちで、愛花も生徒達と一緒に中に入っていく。



 教室に入ると、まだ人はそこまで来ていなかった。いつも早く来ている子達も、見当たらない。カバンはあるんだけどなと、愛花は自分の机に移動する。


 机の上にカバンとリュックを置こうとして、一瞬、魔法陣のような紋様が見えた。一瞬しか見えなかったのは、またまた影がそれをかき消したからだ。


 (……知らないふりしてたら、それでなんとかなる)

 

 見えたことをやはり無視して、そのまま席に着席した。


 すると、急に女子たちが現れた。

 隣の教室にいたのだろうか、結構な人数の女子だ。ぞろぞろと動き、愛花の周りを囲むようにして近づいてきた。


(え⁈ なになに、急に集団で来ないで)


 コミュ障である愛花は多人数と一度に接触するのは苦手だった。それも圧強めな女子グループたちである。


「あ、ちょっと、占いに興味ない? 当たる占いがあるんだけど……」


 (占い? 急にどうしてそんなものを)


「いやぁ、ちょっと興味ないかなぁ」


 私は占いとか、非現実めいたものはあんまり得意ではない、と圧の強い女子たちから身を引きながら返答した。しかし彼女たちはさらに愛花を取り囲み、近づいてくる。うつろな瞳だ。


「面白いんだよ!恋占いでも失くしものでもなんでも当たるの」

「私の好きな人も当たったよー。お金の在処とかでもいいんだよ」

「そうだよー、聞きたいことないの?」

「ユイカに祈るだけでなんでも分かるし、教えてくれるよー」



「『なんでも』?」


 その言葉が愛花の琴線に引っかかった。


 愛花がなんでも? と繰り返すように質問すると、彼女たちの顔が目前に迫ってきた。すごい顔で彼らは「なんでも」と繰り返す。


 (……なんでもか。なんでも。本当に答えてくれるの?)


 「なんでも」というフレーズが頭の中で回る。絶対にわからないことでも、確定していない未来や終わってしまった過去のことでもいいのだろう。

 ならそれがもし、どんな禁忌でも、どんな間違いでも、本当のことを教えてくれるのか。


(……そう。私は)


 ーー私は間違っていないと、本当はあんなことはしていないと答えてくれるのだろうか。


 それをどんな形でもいい、教えてくれるならば聞きたいことがあると、甘い誘惑に愛花は口を開きかけた。


「……っ


 ーーその時、ガラッと扉の開く音とともに男子が入ってきた。


「おい、女子たち! そこ邪魔。集まりすぎて通れねーよ」


 ざっくばらんな男子の一言は、愛花の思考を正常に戻す。

 


 ( ……何を私は聞こうとしているんだ。誰に聞かれるかわからないこんな場所で、私の秘密を吐露するわけにはいかない)


 (それに……)


 チラッと自分の影を見る。……許されたところでもうとっくに手遅れなのだ。


***

 授業中、愛花はボーっとする頭で猫の話に出ていた「魔法使い」と「魔女」について考えていた。

 鉛筆をクルクルと回す。


 「魔法使い」は自然に集まる根源や力を借りて、自分の魔法を成立させる。大きな魔法を使うには自然の力を使うことが手っ取り早いけれど、失敗しやすいのが難。一番基本の魔法が空を飛ぶことである。

 一方で、「魔女(黒魔女)」は自分の力や他人の力を使って、事象に干渉することで魔法を成立させる。もちろん、こちらの方が成功率は高い。でも大きな力を使えるわけではなく、魔女そのものの力によって制限がある。もし大きな魔法を成功させようとするならば、極めて大きな代償が必要となるのだ。時にそれを求めて悪魔と契約したり、大量虐殺を行おうとしたりする例があった。


 (魔女の代償の媒介は、盲目の信念とか捧げ物とか色々あったなぁ。「占い」も多分それに入っていた)


 あと魔法使いは得てして、魔女に転向するものだと聞いたことがある。これも確か猫が言っていた。たとえ禁忌であっても、魔法がうまくいかないことに嫌になって、手を出してしまうのだ。


 そこまで考えて、朝に行われていた占いや机の紋章を思い出す。虚な目の少女たち。


 (……じゃあ、アレは魔女の代償の媒介?)


 なら、このままいくと絶対に巻き込まれる。いや、もう巻き込まれている。


 愛花は誰が「魔女」に転向してしまったのかを考えた。

 魔法使いは基本的にズルいので、テストの成績が極端に良く(もちろん、カンニングだ)、授業をサボったり休んだりを繰り返すので、とても分かりやすい。ーーそれに、プライドが異常に高いーー普通の人でも彼らがおかしいのはわかるはずだ。

 愛花の中で思い浮かんだ「魔法使い」は同じ教室に一人、隣に二人、別の学年に五人。

 愛花の教室の魔法使いは男で、まあ魔法使いの中では真面目な人間に入るだろう。そこまで授業を欠席しないし。

 多分転向したのは、隣のクラスのユイカと言われる子だ。「占い」について語っていた女子たちが口に出していた。

 


 ーーあ、鉛筆が落ちた。


 グルグル回していた鉛筆が落ちてしまい、そこで思考が断ち切られてしまった(あと、先生に集中してないのがバレた気がする)。

 しょうがない、学生の本文は勉強だと愛花は勢いよく勉強を始めようとした。しかし、黒板を見ても今どこをやっているのか分からずテンパった。

 ……うぅ、ちゃんと勉強はしなくてはならない。



 昼。みんな一斉に、好きな友達と机を囲んでご飯を食べる、ぼっちには辛い時間。この空間にいるとアウェイ感が増す。

 この時間は早くご飯を食べて、図書館に行くのが日課。

 愛花は本は大して好きじゃないが、図書館の空気と司書の先生が好きだから、楽なのだ。図書館のソファで隠れてグダッとするのが、いい。


 しかし、今日に限っては良くない予感がひしひしとするので、図書館に行くのではなく、行動を起こさなければならない。

 やる気のない身体をのっそりと机から起こして、ノートと鉛筆をカバンから出す。ゆっくりと言葉を考えながら、愛花はノートに何かを書き起こした。


 ノートをビリビリと破り、正方形に折るとため息をつきながら教室から出る。


  (これでどうにかなるはずないけど。でも、私にはこれくらいしかできないのだ)


 そして、隣の教室に向かった。



 放課後、学校が終わってしばらくすると、目に見えて身体の調子が悪くなってきた。

 身体の芯がゾクゾクとし、まともに歩けない。気力という気力が吸い取られている。クラクラするような酩酊感と身体の奥底から得体の知れぬ感覚が襲ってくる。


 (……あぁ、やっぱりダメだったか)


 手紙を渡した意味なかったな、と愛花はスッと思った。


 愛花は昼休みに、これ以上余計なことをしないように、隣の教室にいるユイカ宛に手紙を渡した。直接伝える勇気もなく、そもそも彼がそれを許さない。故に女子たちを通じて手紙を渡したのだが、見たのだろうか。

 まあ、それ以上手を出すと危ない……だなんて、聞くわけもないか。

 

 愛花は普通の人間だ。ただ影に取り憑かれているだけの。相手を説得する力はないし、そもそも人間に対してのコミュ力さえない、人間としても少し劣っているかもしれない。あるのは少しばかりの正義感と同情、そして諦観。言い換えれば子供じみた甘さを持った少女である。

 相手がその少しばかりの甘さを、受け入れなかったならそれまでなのだ。それ以上、介入することなど愛花には出来なかった。



 周りを気にしながら、気怠い体を引きずり歩くと愛花の影ーー彼が大きく揺らぐ。


 影は震え続け、周囲の物が少しずつ宙に浮きはじめ、愛花の体もそれに従って動き始める。

 厄介事に巻き込まれる、そう思いながら愛花はそれに身を任せた。


「……どこいくの」


 返ってくるのは沈黙だけ。そもそも返答があるとも思ってはいなかったが、それがやけに愛花の気に障った。モヤモヤして気持ちが悪かった。彼の言う通りに動くのが嫌になった。


 身体に無理に力を入れて、行くのをやめてやると思った途端、身体がどこかへ飛んだ。どこかに行くという予告もなく移動したため、バランス感覚に違和感が出た。ふらつく頭で周囲を見渡す。


「どこ?」


 林の中のようだ。墓がたくさんある。無理やり飛ばされた驚きに身構えつつも、見覚えのある場所だーー確か校舎の裏手の墓地ではないか? と辺りを見回す。


 ーーすると、そこには地面に座り込む少女がいた。


 何かの前で座り込んでいるようだ。

 魔法陣? か。そこには何故かシュシュが真ん中に置いてある。

 ーー失くしたはずのシュシュ。この子が取ってたのか。


作動プレゼント作動プレゼント作動プレゼント


「なんで、なんでうまくいかないの? 作動式だって問題なく書けたはずなのに。供物だって魔力の豊富な女を用意したり、人間もいっぱい使ったのに。なんで動かないの」


 彼女は何度も何度も魔法陣を作動させようとしている。多分、捧げ物をしたのにうまくいかなくて困っているのだろう。


 愛花は、それにしてもシュシュだなんて可愛らしい捧げ物成立するのだろうか、などと疑問を抱きながら恐怖心を抱くこともなく、その魔女の後ろに近づいた。


 しかし、信じられないほど気づく気配がないので、わざわざ横に座り込んで言う。


「……ねぇ。誰かのものを盗って儀式に使っちゃダメだってお母さんに教えてもらわなかった? 魔法使いが黒魔女になるってどういうことか、本当にわかってる?」


 彼女は私の声に驚いたように振り向いた。ぎゃあ! と大袈裟に驚かれる。

 ユイカ……? と呼ばれていた少女ーー魔法使いだろう。


「……なんであなたがこんなところに。今さっきまでいなかったのに」


 少しの恐怖を孕んだ顔で、周りをキョロキョロと見回している。周りは墓だらけで、何もありはしないのに。

 彼女は誰もいないと分かると気を取り直したように、私に向かって悪意を向ける。


「まあ、なんでもいいわ。供物から私のところに来てくれたのだもの。綺麗に殺してあげる」


 彼女はスッと慣れたようにナイフを取り出して、私に振りかざした。流れるような動作だった。


 ーー影が動き、ナイフを跳ね返す。


 馬鹿だ、この子。本当に馬鹿。もうこれで本当に救えない、そう思った。

 愛花はほんの少しだけ、まだ彼女が生きられるのではないかと期待していたようだった。その可能性がほぼゼロに等しくても、何とかならないだろうかと言葉で説得しようとした。しかしそれも愛花に手を出した時点で終わりだった。


 (相手は自分のことなんて、動物以下に思ってるのにホント笑える)


 彼が怒っている。愛花に直接手を出そうとするこの不埒者に対して、今にも迫ってしまいそうなほど怒っている。


 背後の威圧感が徐々に増す。


 ーー彼が現れてしまう。


 愛花の背負う禁忌。罪の結晶。


 あぁ、まだ太陽が昇っていたはずの空が暗くなる。この世の規則を裏切って、世界を裏返す。


 どんどん濃い闇に包まれて、夜に。彼の世界に。



 ーー変わる《現化》



「な、なに、急になんで暗くなるの?」


 愚かな魔女は起きてしまったことも分からないようで、ただ慌てふためいている。

 あなただって異世界の生き物なのだから、こんなことがあってもおかしくないとわからないのかな、と愛花は疑問に思った。


 そんな中でも、事態はどんどん進行していく。


 獣のうめき声。獣の唸る声。

 あぁ、誰も救われない時間が始まってしまう。


 完全に夜になり、像を結んでやっと、彼女は私の影に気づいた。


「……あなた、後ろのそれ!……なによ、なんなのよ。そんなもの、存在していいわけ」


 彼女にはきっと、世にも恐ろしい怪物が見えているのだろう。私の身体に張り付くように取り憑いている化け物。

 この世の理不尽を全て背負ったような生物だ。彼にできないことなど、この世に存在しないと私は思っている。

 彼女が私を捧げ物にしようと目をつけたのも、私の力ではなく彼の力が漏れ出したものを見ていたからだろう。


 私は彼女から目を背け、背中を向けた。

 彼が彼女に迫っていく。叫び声が響いている。


「いやよ、来ないで! なんで、なんなのよ。これは/#/&//&b//&$→°#だっえ、ええぇぇェェ、ぐっげっ…………」


 プチっと何かが潰れた音がした。あっけなさすぎる。

 あぁ、こんな世界大嫌い。耳塞いでおけばよかったと愛花は後悔した。



 一人の女学生は居なくなったが、まるで何事もなかったかのようにその事実は忘れ去られて、毎日は進んでいくはずだ。これまでもずっとそうだった。

 こうなるから異世界のものなんて嫌だ。

 この世界に入ってこないでほしい。入るなら入るで、私に関わらないで。そうすれば、全て忘れていられるのに。心の底から愛花はそう思った。


 学校からの帰り道、夕暮れが切ない色を写している頃。


 愚かな魔女が死んだあと、愛花は歩きながら自分の犯してしまった罪を久々にしっかりと思い出していた。


 頭の中では十年前の名もなき神社で、小さな彼女が泣いていた。そこでは剥がされた封がユラユラと揺れる。

 意識が朧げではっきり覚えていないのだが、幼い子供ながらの好奇心で、神社の本殿の扉に貼り付けられた護符を破いてしまったのだろう。


 そこから現れ出でた怪物。

 はじめに思い出すのはいくつもの目、目、目。

 極彩色で彩られた数え切れないほどの目が、愛花をくるみ、とても嬉しそうに笑う姿。ゲラゲラとケラケラとずっと笑っている。その中で彼女は泣きじゃくる。


 何にもない平凡で当たり前の世界が、その時から一変した。

 「ファンタジー」の中でしか見られないような生物が、あの穴から出現しはじめたのだ。「魔女」や「魔法使い」もその一部。もっと危険なものも現れた。

 街は混沌として「ファンタジー」に侵蝕され、しかし、そうでありながら現実世界では、愛花以外の誰も知覚していない。昨日いた筈の人間が原因もわからず行方不明になり、それは別の要因として処理される。「ファンタジー」が人間を喰らっているのを知っているのは、愛花だけ。扉を開いてしまった彼女だけ。

 でも、彼女にはそれに対処する術もなくただその世界から目を背けることしかできない。

 それ以前の幸せな少女は消えたのだ。いるのは現実から目を背ける愚かな子ども。


 そしてまた、愛花にもあのときから変わったことがある。それは彼女が、彼に取り憑かれていること。

 解放されたと喜ぶ彼は幼い私のことを気に入ったように、巻きつき身体を締め付けた。そして、そのまま私とずっと一緒にいる。


 普段は影や身体の中に勝手に住み着いて、基本的には私が危機に陥った時に現れる。

 例外は、彼が勝手に私の物を取ってしまうとき。私が大事にしている物がよく失くなってしまうのは、それに嫉妬してしまって彼が隠すから。

 けれど、本当に消してしまったら嫌われるとでも思っているのか、数日経ったら私の元に失くしものを戻している。そう考えると彼の行動は意地悪なのか、何なのかよくわからないものが多い。


 彼の行動を簡単にまとめるなら、彼は愛花を繭に包むように大切にしているということだ。

 今回の事件のように、異世界の異物が愛花に危害を加えることはほとんどないに等しい。

 ーーそう、彼が守っているからだ。私に傷一つつかないように庇い続けているから。

 怪物なのに、人を殺してしまえる怪物なのに、愛花は少しずつ彼に絆されそうになっている。


 いつも意識しているくせに、意識してないフリをしている。そんな自分が最後どうなってしまうのか、愛花は考えたくなかった。

 

 「……私が私の罪を忘れて……、彼が私の全部になってしまう前に……」




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