【カクヨム短編賞応募中】追憶の旋律〜彼らは再会する〜
心桜 鶉
第1話
指が重い。動きが鈍くなっている。
指が思い通り動かず焦り始めた俺に構わず、その横では母親がコピーした楽譜を目で追いながら、テンポを刻んでいた。その表情は厳しく、演奏に集中しながらも視線は気になった。
体がすでに覚えているメロディでもひたすらに反復練習する。だが、俺の指はすでに疲れ果てていた。
「――っ!」
指を伸ばしたところで激痛が走った。痛い。いつもなら届くはずの鍵盤に届かず、違う音を出してしまう。その横で動く影があった。
「はい、演奏やめて。もう一度さっきと同じところから」
母親の冷たい低い声に、俺の中の何かが壊れる音がする。だが、指示通りにしなければまた何か言われる。それなのに――。
「春樹?どうしたの。ほら、ここ。Hの三行目からでしょ」
母親の少し呆れた声を耳にしても俺の体は動かなかった。俺は二ヶ月後にはコンクールを控えていた。
それは、小学生から高校生を対象にしたコンクール。日頃の練習の成果を表彰することによって今後の励みになることを目指すためのもの。
そこで入選し、本選の中で五人が選ばれる優秀賞を受賞すれば受賞記念披露コンサート出演資格を得ることができるので、このコンクールの参加者のほとんどは受賞記念披露コンサートで演奏することを最終目標としている人が多い。
俺は半年前に行われた予選を上位で通過し、次が受賞記念披露コンサート出演資格者を選出する本選会なのだ。入選をしても必ず本選会にいかないといけないと言うわけでは無いが、俺の隣でなお、俺が弾き始めるのを待っている母親の目標はもちろん本選上位五位の優秀賞に入ること、いや――その上の最優秀賞かもしれない。
このようなコンクールで取った賞は学校の通知書などにも書けるし、こういったコンクールで受賞することで将来、新たの一歩を踏み出すきっかけになるのでピアノ演奏者の応募者は多いのだ。だからこそ、上位に入るには練習に次ぐ練習――猛練習が必要になる。そのため、俺は毎日4時間ほどピアノ練習に費やしているが、俺のライバルとなる他の若きピアニストはもっと練習しているはずだ。だからこそ、母親――元ピアノ講師の指導が厳しくなることも俺は理解しているが、俺の体が限界を迎えているのだった。
「……っ!」
だが、俺はピアノにむかった。再び鍵盤に指を置く。指が限界を迎えていても『諦めたくない』という言葉が俺の頭の中を支配していた。小さい頃から続けていたからか唯一の俺の取り柄でもある、ピアノ。ここで終わってしまったら自分自身が否定されるような気がした――。
俺は4歳からピアノを始めた。始めたといっても『俺がやりたい』といって始めたわけでは無く、ピアノ講師だった母親の影響が大きいだろう。母親が楽しそうに弾いている姿を見て俺が興味を持ち始めたのだった。
ある時母親が演奏していたときに、俺は隣でその様子を見ていた。母親が休憩していたときに俺は椅子に座り、見よう見まねで母親が弾いていた曲のメロディを弾いてみたのが始まりだった――と言っても両手弾きなんてものではなく、一音一音出す程度だったが。
それをみた母親が、俺に何かを感じたのか、俺にピアノを教えるようになった。物覚えが良かったのか俺の腕前はメキメキとすぐに上達し、すぐに両手である程度は引けるようになっていた。
お試しで出場したジュニアコンクールでは俗にいう一位の最優秀賞とまではいかなかったが、数十名参加者がいる中で四位に輝いた。その時は両親もまぐれだろうと思っていたが、それ以来、ジュニアコンクールに出場すれば、常に上位に入るほどの腕前にまでなっていたのでそれで母親も力が入ったのだろう、その日を境に練習が厳しくなった。
だが、一位になれたことはなかった。その結果に母親は満足せず、その度練習が過酷になった。
「春樹の演奏を聴くと、心が温まるよ」
いつしか言ってくれたお母さんの笑顔が見たくて練習をしていたのに――。
春樹の演奏をもっと皆に聴かせたい――そう言っていたお母さんに喜んでほしいからコンクールに出てみたのに。
俺のピアノ人生はどこかで狂ってしまったようだった。
あれから一ヶ月弱、練習を続けた。だが、コンクールを目前に俺は急にピアノを弾けなくなり、本選会を辞退した。
※ ※ ※
ピアノを弾かなくなってから十年近くたったのではないかと、ふと頭をよぎる。あの日以来、外に出かけるようになり、今まで練習に費やしていた時間を友達と遊ぶための時間に使うようになってから、自然とピアノのことは考えなくなっていた。
練習に厳しかった母親も元の優しいお母さんに戻った気がする。俺に対する罪滅ぼしなのか、俺が買いたいと言ったもの買ってくれるし、やりたいことをやらせてくれるようになった。お母さんもピアノの講師を辞め、家族内でピアノの話が上がることも彼女自身ピアノを弾くことは無くなった。
本当はお母さん自身はまだ弾きたかったのかもしれない。俺の練習のために自分のピアノを練習する時間を削ったのだから。だが、ピアノの話題をすることが怖くなり、俺は自らお母さんの本心を聞くことを拒んだ。
本当は申し訳ない気持ちでいっぱいだ。本当は一言言うべきなのかもしれない。だがピアノの話を掘り返すことを俺自身が嫌がったのだった。
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