ニーナ・ラブズ・ミー

あさの

ニーナ・ラブズ・ミー

ニーナ・ラブズ・ミー


 仁奈(にいな)は私の友達である。他の人には見えない。

 いわゆる空想の友達というものだ。仁奈との出会いはある冬の朝だった。

 大学に行くのがおっくうで、地下鉄で知らない土地に行っては散歩ばかりしていた頃の話。

 その日の朝も、目は覚めたものの準備をする気になれずにコーヒーだけ飲んでから家のあたりを歩いていた。

 北海道の冬は美しい。朝なんて特に綺麗だ。辺りが真っ白に染まって吐く息さえ白い。お気に入りの赤い手袋が白に映える。雪玉を作って、川の雪捨て場の山のほうに投げた。

「痛いよ」

 雪玉を放ったほうから声がした。

「ごめんなさい」

 誰かいたのかと思って山の裏側に回り込む。しかし、誰もいなかった。

「乱暴者ね、コートが雪まみれ」

 また、声が聞こえた。誰もいない、いや、見えないが確かに女の子がいた。

 私は、見えない女の子の存在を感じ取ることができた。その子は、長い黒髪に灰色のダッフルコートを着て、青いカチューシャをしていた。

 あ、この子は私の友達だ。私は直感した。

「仁奈、ごめんね」

 その子の名前は仁奈。見えない彼女に手を差し伸べる。

「まったく、葵(あおい)ったら。いいわ。温かい紅茶が飲みたい。家へ帰りましょう」

 仁奈は私の名前を呼び、すたすたと家の方へ歩き出した。私は彼女についていく。紅茶を淹れなくては。



「これはなんていう紅茶なの?」

「オリジナル・ブレンドよ。チョコレートの匂いがするでしょう」

「ふうん、おもしろいわね。冬にピッタリ」

 仁奈は静かに紅茶を飲んだ。その所作は美しく、ここだけ高貴な空間になったようだ。

「さあ、大学に行くわよ」

「え?」

「え、じゃないわよ。あなたは大学生でしょう。大学へ行くのが仕事。どんなに足が向かなくても、行かなくちゃいけないの。さあ、髪を梳かしてきて」

 妙な事態になってしまった。仁奈の存在はずっと昔から知っていたような気さえするし、違和感はないのだけれど、大学に行かなくてはならないなんて。大学へは秋ごろから行っていない。履修登録は済んでいるが単位はほぼ絶望的だろう。いや、一部は取れるかもしれないが。

 髪を梳かして着替えをしながら、音楽を聴いていた。その曲はピアノソナタで、最近詳しくはないけれどピアノを聴くのにはまっているのだ。心が落ち着いてくる。

「仁奈?」

 階下へ降りると仁奈がいなくなっていた。テーブルには数口飲んだ冷めた紅茶だけが残っている。二階からピアノの音が流れている。

 仁奈にまた会うために、私は二限からの講義に出席した。



 数日、仁奈は現れなかった。仁奈と出会ったのが火曜だったので、金曜の今日は三日目ということになる。

 金曜は一限目にドイツ語の講義が入っている。散歩などしている時間はない。起きたのがギリギリの時間だったので急いで支度をした。

 地下鉄に揺られながらスマホの画面をぼうっと眺める。金曜日。メールの着信が来る。仁奈からだ。

「いま私も地下鉄に乗ったよ。起きられて偉いね」

「仁奈」

 周囲の人がじろっと私を見る。満員の車内では仁奈を探すことはできない。

「大学に着いたら連絡する」

 メッセージを送って目を閉じる。仁奈には会えるだろうか。

 以前にもこういうことがあった。こういうことというのは空想の友達のことだ。私には普通の人間の友達はいない。大学にも知り合いはいない。話すのは普段家族と、飼っている金魚のメアリーだけだ。



 初めは幼稚園に通っていたとき。カイトくんという空想の男の子と知り合った。カイトくんは前髪の長い長身の男の子でよく一緒にぬいぐるみ遊びをした。

 カイトくんとは小学校に上がるころに会えなくなってしまい、私は一人ぼっちになった。

 小学校は行ったり行かなかったりしていたので記憶があまりない。ただ、公園に行くといつもお姉さんが遊んでくれた。お姉さんの名前は聞いていないのでわからないが、一緒に鬼ごっこをしたり、砂で泥団子を作ったりした。お姉さんの髪の毛は長くてサラサラで、私も真似をして今でも髪を伸ばしている。

 中学に行くころには引っ越しをしてしまったので会えなくなった。

  中学、高校は一貫校に通った。中学受験をしたのだ。勉強は大変で本当に嫌だった。自分で行きたいといったわけではない。お父さんが決めて、押し付けてきたのだ。

 塾へ行くと、周りは勉強熱心な子ばかりだった。先生も熱心で問題の解き方や文章の上手い書き方を教えてくれたが、誰も、普通の人間の友達の作り方は教えてくれなかった。

 塾帰りは夜の九時ごろになり、いつもお腹がすいていた。お金を持たせてもらっている子はコンビニで肉まん、パンを買っていたようだが、私は小学校から塾までのバス代しか持たせてもらえなかったのでそのバス代を塾終わり缶のコーンポタージュを買うのに使っていた。冬は歩いて通うのは大変だったが、楽しみがコーンポタージュしかなかったので惜しまず歩いた。

 やっと入れた中学、高校でも友達はできず、一人でノートに気持ちを書いたりして過ごしていた。そのころのノートを見ると悲しい気持ちになる。

 仁奈は小学校のころのお姉さん振りの友達というわけだ。大切にしたい。



 一限のドイツ語の講義には間に合った。後ろの方は席がいっぱいで、前の列の席に腰掛ける。

 比較的小さい教室だ。辺りを見渡して仁奈の姿を探す。仁奈は最後列の席に座っていた。誰かと話しているようだ。

 仁奈には他の友達がいる。

 ショックを受けて、授業が始まる。九十分の授業だ。とても長く感じた。

 授業終わりに最後列にいた人に話しかける。

「あの、授業前髪の長い女性がいませんでしたか。話していたと思うんですけれど」

 女子生徒たちは目を見合わせて、誰? この子という風に不振がっている。

「サポートの方ですか? 彼女はこの授業の先輩サポーターですよね」

 ああ、そんな制度があったなと思う。この講義を受けていて成績の良かった生徒が次年度授業のサポーターになるという制度だ。

「今どちらにいらっしゃいますでしょうか」

「さあ、自分の授業を受けているか、それか、ラウンジじゃないでしょうか?」

「ありがとうございます」

 あんな子、いたっけ? という笑い声を背にしてラウンジへ向かう。

 笑われるのには慣れっこだ。友達がいないということは仲間がいないということなのだ。しかし今回は胸が痛んだ。自分自身弱くなってきているのかもしれない。



 ラウンジでは、話をしてもいいし、勉強もしてもいいということになっていた。一年生の前半は大学へ通っていたのだがここは利用したことがない。少しざわざわしていて、人が多くて、苦手だったから。主に空きコマなどは、図書館にいた。

 仁奈を探す。彼女はすぐに見つかった。彼女は数名の生徒と話していた。ここは女子大なので、女子学生しかいない。仁奈は、長い黒髪に、今日は緑のカチューシャのようだ。美しい彼女の周りだけ光って見えた。そこに行って身を寄せたくなる。

 仁奈に話しかける。

「仁奈……さん。こんにちは」

 そこにいた数名が一斉に私を見る。さっと空気が冷たくなるのを感じた。

「こんにちは、ええと……」

「葵です。今日は忙しいのですか?」

 仁奈は考える風な仕草をした。周りの人はあれ誰? とざわついている。

「そうね、サポート授業があと一つ入っているし、自分の授業もあるから。でも、五限の時間ならあいているわ」

「待っています」

「そう? では、その時間にここで」

「はい」

 私は踵を返してラウンジを去る。後ろでは誰なんですか? と問う声と、さあ、サポートを受けたい子だと思うわ、という仁奈の声が聞こえた。冷たいではないか。私の友達なのに。

 私は五限の時間まで待った。図書室で窓の外をぼうっと眺めて過ごし、昼食はパンを食べた。外は晴れていて、穏やかな一日だった。



「仁奈さん」

「お待たせ。ええと、」

「葵です」

「葵さん。ごめんね、体育だったから汗をかいていて」

「大丈夫ですよ」

「それで、どんな質問かしら? それに、どうして私のあだ名を知っているの? 誰かから聞いたのかしら」

「あだ名?」

「そうよ」

 仁奈は長い髪をお団子にしていた。ペットボトルの水を一口飲む。

「仁奈は高校の時、文芸部だった時のあだ名なの。だから同じ高校の人しか知らないはずなんだけれど」

「あ……そうです。誰かから聞いたことがあって」

「そうだったの。私は椎名 翠(しいな みどり)。葵さんの苗字は?」

「結城です」

「ゆうきさん。椎名って呼んでください。そのあだ名は恥ずかしいから」

「わかりました」

 ラウンジは人がまばらで、外はもう暗くなり始めていた。私たちのほかには、教授に質問をする学生と、何やらお喋りをしている数名の学生のみだった。

「ドイツ語は複雑よね」

 椎名さんはどう見ても仁奈なのに、私とのことは何一つ覚えていないみたいだった。私はドイツ語の質問をして、一時間ほどそれに答えてもらった。そのあと、少しお喋りをした。椎名さんは学生課に所属していて、イベントなどを取り仕切っているらしかった。私は、友達ができない悩みを話し、いくつかのサークルのチラシをもらった。椎名さんがこの後学生課の活動があるみたいなので、ラウンジで別れた。

 私は仁奈と一緒にいたいのに、仁奈はどうしてその気持ちが分からないのだろう。家に帰りつき、冷めた体を湯船に沈めて、仁奈のことを考えていた。



 その後、年を越しても仁奈の姿は現れず、私は大学に通い、椎名さんとは食事を共にする中になった。けれど友達だと意識したことはなかった。彼女を仁奈と呼ばなければ、心は開けなかった。

「椎名さんはどうして文芸部サークルに入らなかったのですか」

 放課後大学から少し街のほうに移動して夕食を共にしていたとき椎名さんに訊ねた。文芸サークルなら私も本は好きだし、書くことに自信はないけれど所属できるかもしれなかったのに。椎名さんは学生課だ。

「書いている自分が嫌になってしまったの」

 椎名さんは遠くを見て呟いた。

「私はなんでものめり込んでしまうタイプなの。執筆も、はじめは楽しいだけだったわ。でも、なんだか、別の世界に行ってしまうようで、怖くなってしまったのね」

 別の世界。仁奈の世界だろうか。

「私は良いと思いますけど」

 椎名さんはグラスの水を一口飲んだ。

 あなたにわかりますか。ずっと友達が欲しいと思いながらも誰とも心通わないこの苦痛が。あなたは知らないでしょうね。嘲笑され、無視される悲しみが。いつも誰かに囲まれているあなたにはわからない。

 椎名さんは悲しそうな顔をした。

「でも、本当の世界ではないから」

 私はそのとき無性に仁奈に会いたくなった。目の前にいるのが椎名さんでも、仁奈でも、どっちでもよかった。

「仁奈」

 椎名さんは、はっとして私のほうを見た。そのときわたしはどんな表情をしていただろう。

 彼女はきっと目を吊り上げて、席を立った。

「もう、関わらないで」

 コツコツとヒールの音を立てて去ってゆく。ああ、あれは仁奈なんかじゃない。私の知っている仁奈ではない。仁奈はどこにいるのだろう。

 その日私は家へ帰り、支離滅裂な言動をしていたらしい。父が救急車を呼び、入院することになった。



「つらいことがあると、逃避をよくされる性格のようですね。それは人によって程度がありますが、今回は何か心理的にかなり追い詰められていたようです。もしくは、今まで堪えていたものが爆発してしまったか。いずれにしても、ここへ通うようにしてください。経過を見ましょう」

 入院は一日だけだった。医師はこのように述べ、私は家へ帰った。家でも父も母もよそよそしくなり、私の居場所はついになくなってしまった。

 金魚のメアリーも何らかの病気になって私が入院している間に死んでしまった。空の水槽を持って部屋でぼうっとする。

 どこからか声が聞こえた。

「また、紅茶が飲みたいわ」

「仁奈」

 その日は講義がなく家で過ごしていた。夕方で西日が部屋に差し込んでいる。夕日を受けて仁奈の髪の毛は茶色く光っていた。

「どこへ行っていたの」

 仁奈にさえ心が開けなくなっている自分に気づく。水槽を持ってじっと彼女をにらむ。

「私にも私の事情ってものがあるのよ。許して頂戴」

 仁奈に触れようとしてみる。手を握ると、確かに、彼女の体温を感じた。

「私は彼女の記憶みたいなものなのよ」

 どうして椎名さんの記憶が私の前に現れるの。どうして椎名さんと私は仲良くできないの。どうしてあなたはどこ変え消えてしまうの。

 一気に質問をしてしまい、仁奈を困らせる。

「最初の質問には答えられないわ。あなたがそういう子だとしか言えない。二つ目の質問は、仲良くできるわよ。私と仲良くできているのだから。ただ、私と同じように気は強いわよ。最後の質問は……」

 仁奈は少し遠くを見た。

「まあ、記憶ですからね」

 とだけ答える。

 その日、仁奈と私は濃密な時間を過ごした。一緒にお風呂に入り、ピザを頼んで食べ、映画を見て、写真を撮った。仁奈は

「私のことは撮らないで」

 というので、空になったメアリーの水槽や外の雪のきらめき、花瓶の花なんかを二人でどちらがきれいに撮れるかを競った。

 仁奈の肌は白くて、すべすべだった。一通り映画を見終わり、ベッド一緒に横になり、ふざけてお互いの鼻をこすりあわせる。椎名さんはこんな顔をするのかな、と思うような柔らかい表情を仁奈はしていた。

「仁奈」

 私は暗闇の中で仁奈の手を握り、呼ぶ。

「なあに、葵」

「明日もいてほしい」

「約束できないわ」

 仁奈は私の頬にキスを落とす。

「一生懸命生きてね」

 その言葉が悲しくて、泣きじゃくる。そのうち、寝てしまった。



 翌日、隣に仁奈はいなかった。今日は金曜だ。一限のドイツ語がある。

 早めに教室へ行くと、複数人の学生がおり、椎名さんは一人で書き物をしていた。

「椎名さん」

 椎名さんは私のほうを見て、目を伏せた。

「結城さん、この間は、ごめんね。先週休んでいたでしょう。手紙を出そうとしていたの。でも、会えたわ」

 私は、椎名さんの隣に座る。

「いいんです。私も、失礼なことしちゃって」

「また、一緒にご飯に行きましょう」

 そのとき、ああ、もう仁奈はいないんだなと思った。

「はい」

「椎名さんはカフカ好きですか」

「どうしたの急に」

 椎名さんが笑う。

「この間、読んだんです。私、文芸サークルに入ろうかなあ」

「ええ、嫌よ、学生課にしなさい」

「そんな明るい人たちの集まりは私には無理です」

「それは、文芸サークルに失礼よ」

 二人で笑いあう。

 冬が終わりを迎えようとしている。ああ、来週は期末テストだったな。また新しい金魚を飼おうかしら。文芸サークルは今からでも入れるだろうか。椎名さんとは仲良くやっていけるだろうか。

「一生懸命生きてね」

 聞いたことのある声が聞こえた気がした。

 私は、椎名さんを見て、仁奈に対しては無かった感情が芽生えるのを覚えた。

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ニーナ・ラブズ・ミー あさの @asanopanfuwa

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