堕ちる堕ちる堕ちる

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第1話 知る

 少年漫画が嫌いだ。特に、友情・努力・勝利というスローガンを掲げる雑誌が。嫌い、というよりは苦手と言う方が正しい。多くの少年少女がそうであるように、私は漫画が大好きだった。月曜には友人と雑誌を回し読みしたし、好きなキャラのイラストを描いた。二次創作もした。同人誌も出した。

 ――今ではもう、雑誌を定期的に読むこともない。

 いつからだろう。夢を真っ直ぐ追いかける主人公が苦手になったのは。主人公たちの目標よ、どうか叶わないでくれ――と思いながら漫画を読むようになったのは。打ち切り漫画ならいざ知らず、人気漫画ではラストで夢を叶える主人公が多いように思う。私はそんな展開に耐えられなかった。

 理由は自己分析できている。私は、夢を叶えられなかった側だからだ。漫画家になるという夢を諦めた。要するにこの感情は、夢を叶えられなかった私という社畜の、成功者への僻みなのだ。

 みみっちい~、と思う。

 でも感情は自然と湧き出てくるもので、自制なんでできない。だから私は今日ももやもやと、こんなしょうもない感情を抱きながら社畜に勤しむ。




「フレックスなので、お先に失礼します」


 勤怠表を入力してパソコンを閉じる。今日は十六時に上がる予定だったのに、一時間近く押してしまった。これも、昼に営業部の社員が立替払を大量に持ち込んだせいだ。締め日は昨日だと再三通告していたのに。グループ長も引き受けるのはいいがそれを私に押し付けないでほしい。ただでさえ総務グループは人が少ないのだ。


「え! 蜜浦みつうら先輩が早引きなんて珍しぃ~!」


 隣の席で、天野さんが大声を出した。モニターには芸能人の顔写真。また業務と関係ないサイトを見ている。再来月で入社して丸一年なのに、彼女は未だに仕事も碌に覚えず、手ばかり抜いている。


「あ! もしかしてぇ、先輩、彼氏でもできましたぁ~?」

「……違うってば。久しぶりに高校の頃の友達と会うの」

「友達ですか~。あははっ、ですよねぇ~!」


 車で家へと帰る際、不意に先ほどの天野さんの笑い声が脳内に響き、私は思わず舌打ちをする。屈託のない、純真な、甲高い笑い声。きっと私とは違って、毎日が幸せに溢れているのだろう。


 軽い身支度をして電車に飛び乗った頃には集合時刻になっていた。待ち合わせている二人に、少し遅れると詫びを入れる。せっかく久しぶりに会えるというのに。

 集合場所は、浅草駅から少し離れた路地裏に佇む居酒屋。結局一時間ほど遅れての到着となった。戸を開けると、奥のテーブル席に、田橋くんとゆきえちゃんの姿が見えた。


「おう、蜜浦。久しぶり!」


 田橋くんが手を挙げる。彼らは高校の頃に所属していた漫研のメンバーで、一緒に同人誌を出したこともある。卒業後も連絡を取り合うのは今や彼らだけだ。

 上司に気を遣い、説教を受ける必要のない飲み回なんて本当に久しぶりだ。それは彼らも同じだったようで、私たちの酒は進んだ。


「嫁の束縛が強くてさ」顔を真っ赤にした田橋くんが言う。「俺、今の時期、帰ったら二十二時よ。あいつ、そこから一緒に飯作ろうとか言いだすんだぜ。お前は在宅だからいいけどさ、ちょっと勘弁しろって感じだよ」

「わ、わあ……。大変だねそれ……」

 ゆきえちゃんはか細い声で言う。アルコールの類が苦手な彼女はオレンジジュースを飲んでいる。

「今日の飲み会だって二週間前には嫁に申請を出してんのに、文句言われてさ……」

 昨年結婚したばかりの田橋くんは、家庭の愚痴を多く言う。前会った時と比べて随分と白髪が増えており、色々と苦労が見て取れた。

「でもさ」私はグラスを傾け笑う。「そんなこと言って待ち受けは奥さんじゃない」

「あ、勝手に見んなよ」

 田橋くんはのろけたように笑う。文句を言いつつも幸せそうだ。


「ゆきえちゃんの方は、今の仕事どうなの? もう半年くらい経つっけ?」

 私の言葉に、隣のゆきえちゃんは小さく頷く。

「お給料は減ったけど大声で怒鳴る人もいないし、前よりずっと働きやすいよ……」

 大人しい彼女は昔気質の職場に馴染めなかったようで、昨年転職していた。一時期は精神的に追い詰められ、通院もしていたという。


「転職も今や当たり前だしな。俺の同期も三分の一は辞めたぜ」田橋くんは私に水を向けた。「蜜浦の職場は? 新人が入って少しは楽になったんだっけ?」

 脳裏に天野さんの笑顔が浮かび上がった。思わず口からため息が漏れ出る。

「逆。むしろ倍増かな。その新人、全然仕事覚えてくれないの。ミスも多いから私が確認しなきゃなんないし」私はハイボールを一気に煽る。「最近は平日も全く時間が取れなくて、漫画を描く時間もないし……」

 漫画を描くのは、学生時代からの私の唯一の趣味だ。描くと言っても今ではネットに数ページの思い付き短編をラフで上げるくらい。最近は忙しくてそれもできない。

「ああ、私も全然描けてないなあ……」とゆきえちゃん。「サークル活動、楽しかったよね。もう一冊くらいは出せればよかったけど……」

「学生の体力だよなあ。今じゃ無理だわ」田橋くんは懐かしむような口調で言う。

「……だよね」


 私を含め、社会人の皆にそんな猶予があるはずもない。結婚した田橋くんはなおさらだ。昔あれだけ話した漫画やアニメの話題は、随分と減った。友人との集まりでも、会話は仕事や将来、家庭への愚痴ばかり。

 高二の冬休み、私たち四人で出した一冊の同人誌。気の合う漫研の皆でわいわい言いあっての創作――あの頃が一番充実していたかもしれない。


「今回、舟鴨ふながものやつも来られればよかったのにね」

「いや、あいつ連絡取れなくてな……」と田橋くん。

「そうだよね。研修医ってすごく忙しいだろうし」


 舟鴨悠――私たちの同級生で、漫研のメンバーだ。

 彼は、私たちとは違い創作をせず、入稿や製本を取り仕切る役割をしていた。漫研に所属しているのは大なり小なり創作意欲を抱えている人が多い。彼みたいな自ら創作をせず取り仕切るタイプは珍しかった。


 高校生の頃、部室で二人きりの時、なんで漫研に所属しているのか彼に尋ねたことがある。

「好きなんだよ。何かに、真剣に打ち込んでる奴を見るのがさ」

 夕陽の差し込む部屋、屈託のない笑顔を浮かべるあいつの顔を、今でも鮮明に思い出せる。

「人が真剣になる姿って、なんか、それだけでかっこいいだろ。俺、頑張る奴には夢を叶えて欲しいんだよ。それが理由かな」

「ふうん。じゃあ将来は編集者とか、考えてるの?」

「いや、医者。編集者ってムズいだろ」

「……医者の方も相当だと思うけれど。舟鴨には向いていると思うけど。現行の進捗確認とか、内容の相談にも乗ってくれるし」

「俺、売れ線がどうとか分かんねえからな。なんでも面白く見えちまうし、アドバイスなんてできねえよ」

「ああ、それはそうかも……」

 舟鴨が他人の作品を非難しているところを見たことがない。私たちが描いたものを、彼はいつも満面の笑みで「最高じゃん!」と褒めてくれる。

「蜜浦は漫画家目指してんだろ?」

「……うん。まあ、一度応募して、賞にも何にも引っかからなかったけど」

「いやいや、頑張れよ。努力すりゃあ、夢って必ず叶うんだぜ。応援してるよ俺!」

「はは、ありがと」

 暑苦しい奴だった。でも、その暑苦しさは私には欠けていて、それがどうしようもなく眩しくて、だから彼が好きだった。彼の言葉に私はいつも勇気を貰っていた。


 私たちの中で群を抜いて勉強ができた彼は、国公立の医学部へ進んだ。彼の家は開業医で、将来的には引き継ぐつもりだという。


(……羨ましいな)

 ハイボールを飲みながら、私は思う。医学の道へと進んだのは彼の努力の賜物だし、医者が大変な職業であることは分かっている。しかし、私なんかとは比べ物にならない年収を稼ぎ、良い生活を送れることを考えると、少し羨んでしまう。……羨んだり僻んでばっかだな、私。


「……ん?」

 そこで私は、田橋くんとゆきえちゃんが、気まずそうに顔を見合わせていることに気付く。黙りこくっている。何だろう、この雰囲気。私、何か変なこと言った?

 田橋くんは恐る恐るといった風に私へ問いかける。

「蜜浦、お前もしかして、舟鴨から聞いてないのか?」

「……なんの話?」

「一年くらい前に連絡があったんだよ。あいつ、医者の道は諦めたってさ」

「え?」ぽかんと、口を開けてしまう。

「わ、私のとこにも連絡あったよ。蜜浦ちゃんには、一番に連絡が行ってるものかと思ってたけど……」


「諦めたって……何それ? 本当なの?」二人の間では周知の事実だったらしいが、私にとっては初耳だ。「な何かあった? 浪人もして、あんなに頑張ってたのに」

「いや、俺も電話で聞いただけなんだけど、あまり深堀りできなくてさ……」

「わ、私も……」

「そう、なんだ。医者を辞めた……。っていうか――」私は空になったグラスを机に叩きつけていた。「舟鴨の奴、なんで私には言ってくれなかったの……!?」

 無性に悔しかった。なぜ二人には教えて、私には言ってくれなかったのか。酔いすぎたのか、感情に抑えが効かない。私の様子を見かねた二人が、少し焦っている。


「ま、まあ、舟鴨ならどこ行っても上手くやれるだろ。さっきも言ったけど、俺たちの世代で転職なんて珍しいことでもないしな。あ、店員さん、こっち注文いいですか!? ほら蜜浦、酒足りないんじゃないか?」


 私はハイボールを頼む。とっくにキャパは超えているが、とにかく今は無性にアルコールが欲しい気分だった。なんだよそれ、私一人だけ仲間外れか。まあいい――私とあいつが短い間だけど付き合っていたのはもはや遠い昔。今の私たちの関係は、ただの友達なのから。




 0時近く、東京に住む二人と別れ、私はすかすかの終電に一人揺られていた。窓ガラスに額を預けると、ひんやりと冷たい。瞼を閉じる。あんなに楽しかった飲み会なのに、頭に浮かぶのは舟鴨のことばかり。

 

 私が舟鴨と付き合っていたのは高三の秋から、大学一年の冬にかけてだ。告白したのは、私からだった。別れ話を切り出したのも私からだ。思うに、私と彼はあまりにも違いすぎたのだと思う。私にはない彼の実直な側面に惹かれて好きになった。ただ彼は、近くにいるにはあまりにも眩しすぎた。価値観が根本的に違った。そんな面に、私自身が耐えられなくなった。

 友達の関係に戻ってからは、それなりに上手くやれていたと思う。最後に会ったときも変な様子はなかった。二年前には国家試験も受かり、彼は順風満帆に、世間一般でいう勝ち組に分類されるレールへと乗っていたはずだ。


 その舟鴨がどうして医師を辞めた? 研修中に何かあったとしか考えられない。例えば人間関係のもつれ。でも、舟鴨は要領も良く人付き合いも上手い。

 とすれば、理由は?


「あー、もう……」

 駅から降りると、肌寒い夜風が通り抜けていった。それでも、一向に思いは冷めやらない。いてもたってもいられず、私は舟鴨に通話をかける。電話をかけるのは久しぶりだ。酔いでごまかせないくらい緊張してしまう。


『おかけになった電話は現在電源が切られているか――』

「……なんなの、もう」

 苛ついて通話を切る。自分の心が今も舟鴨に向いていることを自覚する。社会人になって数年経った今でも学生時代の恋愛をずっと引きずっている――こんなんだから会社の後輩から舐められるのだ。まあいい。今だけだ。ゆっくり寝て明日にでもなれば、この思いも少しは冷めているだろう。

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