城塞の花壇(渡仏日記)

そうげん

1997.9.11

1997.9.11


 月に500F(1F(フラン)≒22円)という破格の値段で借り受けることができたのは、すでに建てられて五十年以上は経っているであろうappartement、その一階入り口すぐの、十五畳ほどの広さの部屋だった。そこは空気が滞っていた。天井には、黄色い光を放つ、うすぼんやりした照明がひとつあるきりだった。あまりの薄暗さに、ネアンデルタール人の壁画が見つかった洞窟のことが連想されたほどだった。

 風の通りも悪そうだった。どこか見えない片隅に、見たことのないキノコかカビの胞子でもコロニーをつくっていそうな雰囲気がある。マイナス面を挙げればきりがなかったが、とにかくこの部屋に決めた。定員は四名。現在同居人が二人いるらしい。たとえ彼等と面識はなくとも、ここに決めたのはやはり家賃の安さと、わたしが日本人であることに拘らない大家の態度に安心感を覚えたためだった。

 窓際には、木製のテーブルを挟んで、二つの長ベンチが置かれていた。入口の向いの壁面に設けられた棚に型遅れのミニコンポが置かれてある。黒のボディ。CDの挿入口はあるものの、MDのそれはなかった。ラジオを聴いてみたかったが、同居人の許可なく電源を入れるのは憚られた。

 同居人はわたしを受け入れてくれるだろうか。この数か月、他の土地でもフランス人と交流してきた。こんどの同居人はどんな人たちだろう。不安もあるけど、期待もしている。知らない人しかいない土地で、関係を一から作れるチャンスはそうあるものではない。この土地で経験してみたいことは数多くある。資金面からいっても、長く滞在することはできないだろう。見るもの、聴くもの、味わうもの、なんでもかんでも新鮮な感覚だ。後悔しないように、滞在期間中にできることはなんでも経験しておきたい。

 明日はなにが起きるだろう、なにが見つかるだろう。前途に希望がある。人生にこんな時期はそう長くはない。貴重な機会なんだから、楽しむだけ楽しんでやろう。


 同居人は夜にならないと帰ってこないらしい。わたしは荷物をかたしてから、ミシュランガイドを手にして、ズボンの後ろポケットに財布をつっこんだ。扉の鍵を閉め、これから住むことになる街へと出る。


 2時間ほど、街中を散策してきた。Beauneは城壁に周囲をぐるりと取り囲まれており、その中に都市機能が集中している。城壁の建築は15世紀末に始まったというから、うちの地元の建物の、彦根城、そしてその石垣群よりもさらに以前の造りになるのかと感心する。城壁の上は、いまは散歩コースになっていて、ある場所では視界が開けて市街地を見下ろすことができるし、反対側は、街の周囲をめぐる道路上の車の流れに目をやることもできる。古いものと新しいものとが混在している印象が強い。

 わたしが歩いたときにも、少なくない人たちが同じように散策に興じていた。丈の高い樹木が並んでいる場所もあれば、街の通りと接続するためにこまかに階段のつけられた箇所もある。

 街中を歩けば、主に土産物店だけれど、ワイン関連のお店があちらこちらに軒を連ねていた。さすがブルゴーニュワインのメッカ。日本でも見かけることのあるラベルのDomaineも郊外に拠点を構えていることもあって、ワインそのものを身近に感じられるのがとてもいい。ここは日本よりも格段にワインの価格も安いし、機会を捉えてできるだけたくさんの物を味わうようにしていきたい。

 

 Hôtel-Dieuの正面に中央広場があって、そこを中心にBeaune市の各所に放射線状に道路が伸びている。また同心円状に道路が取り巻いてもいて、これはまた、碁盤目状の京都市の街づくりとは違った街が構成されている。もちろん歩くだけではわかりにくい。ミシュランガイドのBeauneの地図を見ながら、あちこち歩きまわっての感想だった。

 郊外にはブドウ畑が広がっているらしい。Côte d’Orに属する地域。はじめて行ったブドウ畑はCôte de NuitのGevrey-Chambertinの畑だったが、Côte de Beauneはなにがちがうのか気にならないではない。

 城壁の外、南側にスーパーのCasinoがあったから入ってみる。Gevrey-Chambertinと同質のワイン、Morey-Saint-Denisが30F程度で売られている。これを買って、近場のワインショップで安いグラスを見繕う。


 部屋に帰って冷蔵庫を開けると、幸い食材がほとんど入っていない。買ってきたワインを入れるスペースを確保することができた。同居人の顔を見る前に冷蔵庫を開けたことに気がとがめたが、背に腹は代えられない。どうせ一人で飲むわけじゃないのだし、あいさつ代わりに同居人に振舞うことで許してもらおう。

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