第21話 葵
成瀬が杏子に連絡を入れると、思いのほか杏子は冷静だった。
もし、夜中までに見つからなかったら警察に連絡するから、随時連絡が欲しいと言われた。
また、葵が一人で家に帰ってくるかもしれない。
杏子は成瀬に自分はこのまま自宅で待機していると伝えた。
一臣も連絡を受け、今日は早めに仕事を切り上げさせてもらうようにお願いすると言っていた。
そして、そのまま街を探してみると答える。
成瀬が思う以上に、二人とも冷静に受け止めてくれていた。
葵が逃げ出した理由も、成瀬が学校まで迎えに行った時点で予測は出来ていたようだ。
自分ばかり焦っていたのだと、情けなくなった。
試験勉強の妨げになるとは思ったが、結城の言う通り、浜内にも連絡した。
彼は快く引き受けてくれた。
同時に結城も自分のつてに電話を入れていた。
葵の通う青山女子学院は割と都内の中心にある。
そんな場所でいなくなってしまったら、そう簡単には見つからない。
場所によっては危なく、お嬢様学校で有名な私立女子の制服を着ているのだから、誘拐されてもおかしくはない。
だから結城は東京23区に詳しい助っ人たちに出来るだけ協力してもらうことにした。
その中にはホストのレオンたちも含まれている。
一時間後に成瀬たちの元に浜内がやってきた。
浜内は成瀬を見かけると急いで駆け寄ってくる。
「葵ちゃん、見つかった?」
成瀬は首を横に振った。
浜内も心配そうにしている。
時計は既に9時を過ぎていた。
10時を過ぎれば、警察に届けると杏子とも約束していた。
すると、結城の携帯に一本電話が届いた。
結城は電話口で要件を聞きながら頷いている。
そして、電話を切ると成瀬の方へ振り向いた。
「葵が見つかった。家の近くの駅まで送るから迎えに来るようにって」
その言葉を聞いて、成瀬の力が一気に抜ける。
そして、膝をガクリと落とした。
「良かった……」
成瀬は小さな声で呟く。
もし葵に何かがあったらと思うと気が気ではなかった。
そんな成瀬の背中を浜内は摩っていた。
結城の表情にも少し余裕が出来ていた。
電話の連絡通り、成瀬たちは家の近くの駅で葵を待った。
葵を連れて来たのは、以前新宿で訪ねたバーのママだ。
結城は彼女たちにも声をかけていたのだ。
以前遊びに行ったときに葵の顔は見ている。
それに、あの界隈で彼女ほど情報網を持つ者もいないだろう。
彼女はそっと葵の背中を押した。
ずっと葵は成瀬たちの顔を直視することが出来なかった。
ただ、目線を外して顰め面するばかりだ。
「葵、心配したんだぞ!」
成瀬は葵に近付いて叱った。
葵の身体が驚き、揺れる。
けれど、それでも成瀬の顔を見ようとしない。
「別に探してくれなんて言ってない。それにそもそもお兄ちゃんが勝手に学校に来るからいけないんじゃない!」
葵は成瀬を突き放すように言った。
成瀬は何も言い返せなかった。
葵はずっと学校で惨めな扱いを受けていたことを隠していたのだ。
あんな形でばれてなどしてほしくなかっただろう。
成瀬の唇をぎゅっと噛みしめた。
こんな時、何も言ってやれない自分が悔しかった。
成瀬の横からすっと結城が前に出て、葵の前に立つ。
その彼女の顔は無表情のままだった。
葵はそんな結城にさえも睨みつける。
すると次の瞬間、結城は葵の頬を思い切り平手打ちした。
それは大きな音を立てて、葵の身体を揺らす。
頬は赤く腫れ、じんじんと痛んだ。
抑えた頬が熱い。
その横にいた成瀬もその光景を目の当たりにし、驚いていた。
結城は口が悪いが、だからと言って女の子に手を上げるような人間ではない。
「バカやろうっ!! みんな本気で心配したんだぞ!」
結城は葵を見下ろしながら、思いっきり怒鳴った。
その顔は真剣そのものだ。
葵も泣きそうな顔をこらえながら、地面を睨みつけている。
「いつまでも子ども扱いしないでよ! 私もう15だよ。一人でなんだって出来るんだから!」
葵も負けずと叫ぶ。
しかし、結城はそんな葵を許さなかった。
「何が子供じゃないだ! こんな事をすることが子供だって言っているんだ。どれだけの人間がお前を心配して、街を捜し回ったと思っている!」
「そんなの……頼んでない……」
葵の身体は震え出した。
結城は大きくため息をつく。
「いい加減に自分がどれだけ周りの人間に大切にされてきたのか自覚しろ。今までだって知らないところで、誰かがお前を支えてきたんだ。人が一人でできることなんてたかが知れている。そうやって一人で何でも出来ると思っているうちは、何もできていないんだよ」
その瞬間、葵の瞳から涙が溢れた。
もう我慢ができなかったのだ。
あの時、成瀬たちから逃げても仕方がないと葵自身もわかっていた。
しかし、どんな顔をして成瀬に、そして両親に会えばいいのかわからなかったのだ。
自分が惨めな思いをしているのは、両親の所為ではない。
けれど、あの学校は格差社会だ。
葵が多少頑張ったところで、状況が一変することはないだろう。
わんわん泣き出す葵を結城はそっと抱きしめてやった。
葵が自分のしたことを本心ではわかっていることを知っている。
でも、負けず嫌いの強がりだから素直に言えなかったのだ。
それでも葵は結城の胸の中で小さな声で繰り返すように言った。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
そんな葵の頭を結城は撫ででやる。
葵が落ち着き、両親に電話を入れている間、茫然と立ち尽くしていた成瀬にママは手招きをした。
成瀬は彼女の近くに寄る。
「あの、本当にご迷惑おかけしました。それと、葵を見つけてくださってありがとうございます」
成瀬は彼女に深々と頭を下げた。
彼女はふふっと小さく笑う。
「本当に見つかって良かったわ。青山女子の生徒がいなくなったって聞いて、さすがの私も少し焦ったわよ。あの子ももう少し自分の立場を考えることね。あんな制服着ている子が街を徘徊していたら、一発で誘拐されるわ。今回は運が良かったのよ」
成瀬も本当にそう思っていた。
いつもなら家にまっすぐ帰ってくるから問題ないと思っていたが、行く場所によっては本当に危ないのだ。
「私はね、馨のお願いだから聞いたの。どこの馬の骨ともわからない他人の子を私がいつでも助けると思ったら大間違いよ。私は
初めて誰かの口から結城の母親の話が出たことに、成瀬は驚かずにはいられなかった。
母親が結城親子にとって特別な存在なのは理解していた。
しかし、結城も勝も結城の母親の事を話したがらないので、周りがあえて気を使って話さないでいるのかと思っていた。
「酒場とおるって店名でわかるでしょ。馨の母親は
「なんで、それを俺に教えてくれるんですか?」
成瀬は彼女の意図が分からず聞いた。
彼女が成瀬や葵を良く思っているようには見えなかったからだ。
「あなたたちが馨を頼りにしているのは見ていてわかる。だから、関わる者の責任として、あの子の事情も知っていて欲しかったのよ。これはあなたが私にした貸しよ。だから、いつか必ず返してちょうだい。もう絶対、馨を悲しませないように、あんたたちが全力で守ってあげて」
彼女の言葉から切実な想いが伝わった。
成瀬は一度だって結城が悲しんでいるところを見たことがない。
むしろ、結城はいつも他人の心配ばかりしている。
だから、彼女の言う『守る』とはどんなものかは予想がつかなかった。
それでももし、結城に助けが必要になった時は誰よりも一番に助けに行こうと思う。
それぐらい成瀬にとって、結城は大切な存在になったのだ。
恩を返すなんて言えないほどの恩を抱えている。
「絶対、守ります!」
成瀬は言い切った。
彼女は目を閉じて笑う。
「あら、ちょっとは男らしいところもあるんじゃない」
彼女は結城にも葵にも声をかけずに駅に引き返した。
そして、背中を向けたまま成瀬に手を振る。
「その言葉、死んでも忘れないでよね」
その言葉の重さを成瀬は感じる。
彼女にとって透と同じぐらい結城は特別な存在なのだ。
きっと全てを投げうってでも助けたい相手。
その思いを心に染み込ませるように成瀬は深く目を閉じた。
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