6

 奥さんの顔は、恐怖の色に染まっている。


「覚えていなかった……? それって、いつ頃の話ですか……?」


「たしか、1週間ほど前です」


「1週間……」


 ——2人で食事に行った時には、もう奥さんと話をしていたってことか。


「しっかりと話し合ったのに、寝て起きたら、全部忘れてしまっていたと」


「そうなんです……! 別の不動産会社にも行ってみようと話したので、不動産会社に行くのはいつにするか、と訊いたら、「何のこと?」って……。私、びっくりしてしまって。紙風船のこともあったので、怖くてそれ以上はもう、何も言えませんでした」


 間違いなく、麗華が何かをしたはずだ。でも、操るような力はないと言っていた。何をしたのだろうか。


「その時の瑛斗は、他に何か、いつもと違うところはありませんでしたか?」


「違う、というか……顔色が悪いな、とは思いました。だるいのか、眠いのか、そこはよく分からなかったんですけど……」


 眠いのなら、夢の中に麗華がいたせいで、眠れていなかったのだろうか。でもそれだけでは、記憶が消えた理由にはならない。


「やっぱり、幽霊のせいでしょうか。そのせいで、主人はおかしくなってしまったんでしょうか」


 奥さんの手の震えは大きくなった。


 ——まだ大丈夫だと思いたいけど……。


 奥さんはもう、霊の存在を認識しているし、瑛斗に護符を持たせるのを、協力してもらった方がいいのかも知れない。


「そうならないように、今日はこれを持って来たんですけど……」


 僕は、奥さんの目の前に護符を置いた。


「これは、魔除けの護符なんです。肌身離さずに持っていれば、瑛斗を守ってくれるはずです」


「魔除け……。主人は、元に戻るんでしょうか」


「それは、瑛斗が目を覚ましてからでないと、分からないんですけど……。さっき、この家にいる霊に対して使ったら効いたので、少なくとも、これ以上酷くはならないと思います」


「分かりました。これをずっと、持たせておいたらいいんですね。……どうしようかな……。布で小さな袋を作って、首に掛けておけばいいですかね」


「すごく、いい考えだと思います。作ってもらえますか?」


「はい。すぐに作ります。……でも……」


 奥さん護符を見つめて、表情を曇らせた。


「どうか、しましたか?」


「あの、これって……1つしかないんですよね? 結衣は、どうなるんでしょうか。結衣にも、何かが取り憑いているんじゃ……」


「あぁ。今のところは取り憑いてはいないので、大丈夫です。ただ娘さんと遊んでいるだけなので。ちなみに今は、その霊はここにはいません。瑛斗からは、娘さんの雰囲気が変わったり、体調が悪くなったりはしていないと聞きましたが、どうですか?」


「そうですね。特に変わったことはないです。変なものに取り憑かれていないのなら……少しだけ、安心しました」


 こわばっていた表情が、少しだけ和らいだように見えた。しかし、魔除けの護符だけでは、問題は解決しない——。


「……よその家のことに口を出すのは、どうかと思うんですけど……。引っ越しは、出来そうですか?」


「そう、ですね……。急いだ方が、いいってことですよね……?」


 奥さんは僕を真っ直ぐに見た。怖がらせてしまうかも知れないが、この人なら、ちゃんと受け止めることができるだろう。


「……はい。できる限り、急いだ方がいいです。祓えたわけではないので、また瑛斗に近付いてくると思います」


 奥さんの口元に、グッと力が入ったのが分かった。


「……分かりました。私もパートの時間を増やして、何とかしようと思っていたんですけど……。でも、急いだ方がいいのなら。もう、私の方の家に頭を下げてでも、何とかお金を借りようと思います。……この家から出れば、主人も、結衣も、大丈夫なんですよね?」


「はい。僕も霊を祓える人を探すので、奥さんは、早く引っ越せるように頑張ってください」


「ありがとうございます。よろしくお願いします」


 奥さんの目は潤んでいたが、涙は流さなかった。


 ——家には霊が棲みついているし、瑛斗はあんな状態になってしまって、不安だろうに。強い人だな……。


 引越しの方は何とかなりそうな気がするから、僕はもう一度、神原社長に相談してみよう。できれば、あの護符を書いた人を紹介してもらいたい——。



 ふと、奥さんの後ろにある写真に目が行った。


 幼稚園の前に立っている、娘の写真だ。


 写真の下の方には、文字が書いてある。



『 結衣ゆい 瑠衣るい 』



「なっ……!」


 僕は思わず、机に両手を突いて、勢いよく立ち上がった。


 ——なんで、瑛斗の娘と、あの女性の息子が、一緒に写ってるんだ!


「あの、写真の男の子って……!」


 奥さんは目を丸くして、僕を見上げていた。


「えっ、あぁ。あの子は、幼稚園で結衣と仲良くしてくれていた子で。……でも突然、幼稚園に来なくなってしまったんです。園の方も理由が分からないらしくて。今は、どうしているのか……」


 ——そういえば、瑛斗がそんな話をしていた気がする。あの子が幼稚園へ行かなくなったのは、死んでしまったからだ。


 瑛斗と母親の会話が、脳裏によみがえった。


『1番仲が良かった子が幼稚園に来なくなった時は、そこからしばらくは行きたがらなかったけどな。でも、1週間もしない内にすっかり元に戻ったよ。もう忘れたんだろう。今は楽しそうに行ってるよ』


『そう。結衣ちゃんはまだ4歳だし、子供ってそんなものよね』


 ——違う。元気になったのは、忘れたからじゃない。今も、そばにいるからだ……!

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