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 僕は、古い10階建てのマンションを見上げている——。


 神原社長には近付くなと言われたが、ネットで検索するだけでは、瑛斗の借りている部屋で、過去に何があったのかを突き止めることはできなかった。不気味なくらい、何の情報も出てこない。


 それならもう、マンションまで行くしかないと思ったのだ。


 せめて、誰かに話を訊くことができれば、怪奇現象が起こる理由が分かるかも知れない。どうせなら、この周辺に長く住んでいる人に、話を訊きたいけれど——。


『本当に言うことを聞かないねぇ、あんたは!』


 神原社長の怒鳴り声が脳裏をよぎる。もちろん、社長の言っていることはちゃんと理解しているが、瑛斗は大事な友達だ。このまま放っておくわけには行かない。


 ——まぁ、部屋の中にさえ入らなければ、大丈夫だろう。


 僕はマンションの横にある駐車場から、辺りを見まわした。


 閑静な住宅地で、車もほとんど通らない。しばらくの間眺めていると、自転車に乗った小学生や、ベビーカーを押す若い夫婦が、目の前を通り過ぎた。


 ——子供や若い夫婦には、分からないか。もっと、この辺りのことを色々と知っている、年配の人の方がいいんだけどな……。


 僕が道路ではなく、戸建ての住宅がある方へ目を向けると、ふと視線を感じた。


 駐車場の斜め前には、黒っぽい屋根の日本家屋があり、庭に年配の男性が立っているのが見える。


 ——マンションのすぐ横にある家だし、あの人なら、瑛斗が引っ越してくる前のことを知っているかも知れない。


 そう思った僕は、男性の元へ走る。マンションの駐車場を出て、道路を横断し、日本家屋へ目をやると、男性と視線がぶつかった。


「すみません! ちょっと伺いたいことがありまして」


 僕が言うと男性は微笑み、軽く2回頷いた。どうやら優しい人のようだ。男性は80代くらいだろうか。白髪でベージュのシャツを着ている。


「そこにあるマンションの、住人のことなんですけど。前に、3階の角にある部屋に住んでいた人を、見たことはありませんか? とても綺麗な女性が住んでいたはずなんです」


 僕は3階の、今は瑛斗が住んでいる部屋を指差した。


「あぁ、知っているよ。芸能人みたいに綺麗な子だ」


「その人って、長い黒髪の、モデルみたいな感じの人でした?」


「そうそう。結婚する前は、モデルをやっていたらしいよ。可愛い子供と一緒に、いつも挨拶をしてくれて、良い子でね」


 ——よかった! 知っている人に会えた!


 まだ何も解決していないのに、嬉しくて心が弾む。


「おじいさんは、その女性と話をしたことがあるんですか?」


「あぁ。私はいつもここから外を眺めていてね。あの子達はマンションから出てくる度に、挨拶をしてくれるんだよ。それで、たまに話をするようになったんだ。色んなことを話してくれたよ。旦那のことや、実家のこともね。私の口からは、詳しいことは言えないが……あまり良い話ではなかったな」


「あの……。その人って、事件に巻き込まれたとか……何か、ありませんでしたか?」


 ——仲が良かったようだし、いつ死んだか。とは訊きづらいな……。


 僕が言葉を探していると、家の目の前に、白い軽自動車が止まった。60代くらいの女性が、買い物袋を持って、車から降りてくる。おじいさんの娘だろうか。どことなく雰囲気が似ているような気がする。


 家の前に立って、おじいさんと話をしている僕と目が合うと、女性は怪訝けげんな顔をした。


「……どなたですか?」


「あ。いや、ちょっと、話を伺いたかっただけなんです」


「はぁ……」


 女性は僕の足元から頭まで、じろりと睨むように見た。随分と警戒されているようだ。


 僕は助けを求めようと、おじいさんに視線を向ける。


「えぇと……」


 すると、おじいさんは優しい笑みを浮かべ、また頷いた。


「君、今日は帰りなさい。話が聞きたいのなら、またいつでもおいで」


 たしかに、おじいさんの娘がいては、これ以上は話ができそうにない。まだ肝心なことが訊けていないが、出直した方が良さそうだ。


「今日は帰ります。すみませんでした」


 僕は2人に頭を下げた。そして顔を上げると、女性はまだ僕を睨みつけている。眉間の皺は、先ほどよりも深い。


 ——もしかして、詐欺師だと思われているのか?


 お年寄りを狙った詐欺事件は、よく聞く話だ。通報されては困るので、僕は急いでその場を後にした——。

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