第1章 懸ネン

1

 机の上にある携帯電話が、ブブッと音を立てた。


 ——誰だろう……?


 ベッドに寝転がっていた僕がおもむろに起き上がり、携帯電話の画面を見ると、そこには、懐かしい名前が表示されている。


瀬名せな 瑛斗えいと』彼は高校時代の友人だ。


 3年間クラスが一緒だったので仲良くしていたが、大学は別々になったので段々と疎遠そえんになり、名前を見るのも久しぶりだった。楽しかった高校生の頃を思い出し、思わず顔がゆるむ。

 

 僕は飛びつくように通話を押した。


「もしもし、元気?」


『——おう。久しぶりだな、蒼汰そうた


 久しぶりに聞く瑛斗の声は、少し低くなったように感じる。


「本当にな。全然連絡してくれないから、どうしてるかなと思ってたよ」


『まぁ、子供が生まれてからは、忙しかったしな』


 瑛斗は大学に入ってすぐの頃に、彼女が妊娠していることが分かり、大学を中退していた。生まれてくる子供と妻をやしなう為に、働くことを選んだのだ。初めて聞いた時はもちろん驚いたが、結婚すると決めた瑛斗を、僕は応援した。


「そうだよな。会社の先輩たちも、小さい子供がいると大変だ、ってよく言ってるよ。でも、可愛いんだろ?」


『そりゃあ可愛いよ。じゃなきゃ子育てなんて、やってられないよ。全然言うことを聞かないし、突然泣き出すし、最近は口答えもするようになったよ』


「はは、そうなんだ。今、何歳になったんだっけ?」


『もうすぐ4歳だよ。俺たちが20歳になる年に生まれたからな』


「あぁ、そうだったな。今年24になるってことは、子供は4歳か」


『そういうこと』


「よその子が育つのは早いってよく聞くけど、本当だな。そんなに大きくなっているとは思わなかったよ。瑛斗が結婚してからも、もう4年も経っているってことだもんな。全然、実感がないよ」


『俺もないよ。本当にあっという間だったからな。自分でも、もうそんなに経ったのかって思うよ。今じゃ完全に子供中心の生活になっているから、友達と遊びに行くことは、なくなったんだよな……』


 瑛斗が、深くため息をついたのが聞こえた。


「何、遊びたいの?」


『んー……。たまには息抜きくらいしたいな、とは思うけど。仕事以外は、家族としか会わないような生活をしているからな。それに、久しぶりに、蒼汰に会いたいし』


 その時——。


 きゃー、ははは! と無邪気な笑い声が響いた。


 電話の向こう側からは、幼い子供の声が聞こえる。何を言っているのかは分からないが、まくし立てるようにしゃべり、たまに興奮したように叫ぶ。その高くてよく通る声が、耳の奥に刺さる。瑛斗の子供は、やんちゃ盛りの元気な男の子のようだ。


 たしかに、いくら可愛くても毎日これをやられては、ため息をつきたくもなるかも知れない。


「元気な子供だな」


 僕は思わず、フッと笑ってしまった。


『——あぁ、聞こえる?』


「うん、ずっと聞こえてる。何を言っているかは分からないけど」


『そうだろ。親でさえ何を言っているか、分からないんだから。まぁ、病気をしたりするよりはいいけどな』


「そうだな」


 きゃはははは!


 話をしている間も時折、子供の金切かなきり声が鼓膜こまくを揺らす。これを間近で聞いても、全く動じることなく話をしている瑛斗を、素直にすごいと思う。僕なら我慢できずに、すぐに逃げ出してしまうかも知れない。


 ——これが、親というものなのか。


 急に同級生の友人が、自分よりも随分と大人に思えた。社会人2年目になっても、まだ学生気分が抜けない僕とは、大違いだ。


「そうだ。坂下慎也さかしたしんやって、覚えてる? クラスは違ったけど、何度か一緒に遊んだことがあるだろ? 今度、飲みに行くんだけど、瑛斗も来ないか? 久しぶりなんだから、奥さんも許してくれるだろ」


『そうだな。里帆りほは仕事で今はいないから、あとで訊いてみるよ』


「うん。楽しみにしているから、ちゃんと説得してくれよ?」


『分かったよ。じゃあな』


 僕は仕事柄、相手が電話を切るまで待つ、という癖がついている。


 携帯電話の向こう側からは、相変わらず、子供の笑い声が聞こえた。


 ——本当に、元気な子供だな。


 そう思った時、ひび割れるようなノイズ音が聞こえ、電話は切れた——。

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