第35話 そういうことだから
湯気が薄っすらと立ち込める浴室。
浴槽を満たしたお湯の温かさが、身体の芯へと染みわたる。
水音、呼吸音、換気扇の駆動音。
それと――馬鹿みたいにうるさく感じる、自分の心臓の鼓動。
原因は目と鼻の先にある。
頭のてっぺんで纏められた白い長髪。
綺麗なうなじと、そこから伸びる肩は細く薄い。
ほのかに赤みを帯びた肌の持ち主が、はふぅと緩んだ様子で息をつく。
湯船に浸かる俺の膝にすっぽりと収まる形で座っていたソレが伸びをする。
「……湯船に浸かってると眠くなるね。このまま寝たら気持ちよさそう。ねえ、湊はどう思う?」
軽く振り返りながら問いを投げてくるのは言わずもがな、莉世である。
しかも、当然のように全裸で湯船を満喫していた。
……いやさ、もうどうにでもなれって感じだよね?
どうにかなったらそれはそれでまずいんだけどさ、流石に限度ってものがあると言いますか、俺も男の端くれではあるわけで。
莉世がいる理由は至って単純。
酒を飲んで寝落ちして、その間に俺が風呂に入っていたら、目覚めた莉世が制止を聞かずに突入してきただけの話。
つまりは酔っぱらいの奇行で、原因は酒で、莉世の理性は既に怪しい状態だ。
一応の弁明をさせてもらうと俺は莉世を止めようとしたし、強引に入って来るなら先に出させてくれと交渉もした。
けれど酔いが残った莉世は聞く耳を持たず「湊は私のことが嫌いなの?」と今にも泣き出しそうな雰囲気で迫ってくる始末。
ほぼ酔っぱらいの戯言だとわかっていても、俺の中に罪悪感を芽生えさせるにはじゅうぶんすぎた。
だからこうして一緒に風呂に入っているわけだけど、普通に後悔している。
時間を巻き戻せるなら風呂に入る前に戻したい。
経緯はどうあれ莉世と風呂に入っている現実は揺るがないのだから。
俺に出来るのは可能な限り莉世に関する諸々の事柄を記憶に遺さないよう努めることだけ。
「あー、そうかもな。でも溺れるから寝るなよ」
「わかってるけど……頭がぽやぽやして、すごい」
俺の気が入っていない返事に、これまた莉世もふにゃふにゃとした声音で返す。
莉世は俺を男と認識していないのか?
お互い全裸で風呂に入って何も起こらないと本気で信じているのか、あるいは何か起こってもいいと思っているか……酔った勢いで理性が蒸発しているか。
どれにしても今後へあまり良くない影響を残しそうだ。
「風呂って心を穏やかにして入れるものだと思ってたんだけど、そこのところ
「背もたれがあって楽だし、話す相手がいるのは暇をしなくていい」
「……一応言っておくけど俺は背もたれじゃないし、付き合ってもいない男女が一緒に風呂に入るのはかなり危ない状況だと思うんだけど」
「私は危なくないけど」
「その発言が既に危機感なくない?」
だってもう、俺がその気になったら莉世にそういうことが出来てしまう。
筋力の差もあるから抵抗されても抑え込める。
ましてや莉世は俺の胡坐の上に背を向けて座っているのだから、半分くらいはその領域へ踏み込んでいる気がしなくもないけれど。
……この体勢だと反応したらすぐにばれるよな。
今は頭から徹底的に莉世のそれを排除して、全く関係ない授業のこととかを考えているから、ギリギリそうなってはいない。
でも、それもいつまで持つのやら。
「そもそも一緒に入る意味なくない?」
「お風呂に入らないで寝ると起きた時に気持ち悪いから嫌」
「それは莉世が風呂に入る理由で、俺と入る理由にはならないんじゃあ……」
「寝落ちするくらい眠いから、湊が上がるまで待ってられない」
「交代して俺が後で入ればよかっただけでは??」
「二人で入れば時短でお得」
「その分俺のメンタルがものすごい勢いで擦り減ってるのは理解されていますか????」
掘削機並みの勢いで削れている自覚があるぞ?
メンタルもそうだし、理性って方も否定はしない。
「やっぱり私のこと嫌いなの?」
「この一連の出来事でちょっとだけ苦手になったって言ったら?」
「悲しさを紛らわすために夜に寝てる湊のベッドに潜り込んで優しかったころの湊を思い浮かべながら添い寝するかも」
「なんかすっごい具体的」
でも、添い寝の方が今よりよっぽどマシだと思う。
服着てるし、寝てるだけなら無害だし、どっちも寝相がいいのもわかっている。
「湊――改めて、ありがとう。彷徨っていた私を拾ってくれて」
唐突に莉世から零れた感謝の言葉。
思い出されるのは、莉世を初めて泊めた日の夜。
「別に。ただの自己満足だから気にするな」
「それと、入学式の日にも助けてくれたのに、ちゃんとお礼を言えてなかった。ありがとう」
「一年以上も前のことだろ?」
「お礼を伝えるのは私の自己満足だから、素直に受け取って」
「……そういうことなら、まあ」
俺も自己満足だからと押し付けた手前、莉世のそれを否定する気はない。
「どうして今になってそのことを」
「ずっと湊に助けられていたんだって思ったら、言わなきゃって」
「……たまたま機会があっただけだろ?」
「助けられた側としては伝えないと納得できない」
そういうものだとしても、莉世はやっぱり律儀だな。
惜しむらくは莉世が現在進行形で恐らく酔っていて、約束したはずのあれこれに抵触しそうな状況ってところだろうか。
「これからも、よろしく」
「……ああ。あと、お酒は外で飲まないようにしような。このノリだと大惨事になりかねない」
「私、そこまで見境なくない。家だから気が抜けてる。こういうのは湊にだけ」
俺にだけされても困るんですけど?
ていうかこの返答の仕方――
「…………まさかと思いますが本当は理性が残っていらっしゃる?」
「人間、そう簡単に理性が全部溶けることはない。幾分かぽやぽやしてるのは認めるけど」
「よし今すぐ出よう俺はそろそろのぼせそうだし莉世も酒が回ったり、また湯あたりしたら大変だ。だから先に上がってくれないか? じゃないと俺立ち上がれない」
お願いだから、と莉世の肩を軽く叩く。
すると、身体を捻りながら振り向いて、無言のまま顔が近付いてくる。
あまりに自然なそれを、無警戒で受け入れてしまって。
「――――っ」
頬に当てられた、莉世の唇。
柔らかくも弾力のある感触を遅れて認識し、離れていく莉世の碧い瞳を見送った。
今、莉世にキスされて……?
頭が困惑で支配され、考えていたことが全て吹き飛んでしまう。
そんな俺を置いてけぼりにするかのように莉世が立ち上がり、
「そういうことだから」
一方的に告げて、莉世が浴室を出ていく。
その過程で一糸纏わぬ後ろ姿を見てしまったことすら頭に入らない。
頭が茹で上がったように感じるのは、きっとお湯のせいじゃない。
「……何だったんだ今の」
ここで莉世を追って風呂を上がると脱衣所で鉢合わせになってしまう。
それを思えば、一人で思考を整理する時間が出来たのはありがたい。
……まあ、とても数分程度で冷静になれる気はしないけど。
それでも湯船に浸かったまま心を落ち着け、上がった頃にはなんと莉世はもう眠ってしまっていた。
答えを聞けずじまいになったことへのもやもや感がすごい。
これ、ちゃんと寝れるのか……?
なんて思いながら莉世が片付け損ねたコンビニ袋を拾い上げると、中から四角い小さな箱が転がった。
「なんだ……?」
拾って確かめると、表面には『極薄0.01ミリ!』などと書かれていて。
「……………………マジかぁ」
瞬間、悶々としたまま夜を越すことが確定してしまうのであった。
―――
備えあれば憂いなしってね(?)
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