第32話 家族

ごめんなさいちょっと遅れましたorz


―――


 湊が病室を出てお父さんと二人になっても、私たちは黙って向かい合うままだった。


 話があるとは言ったけれど、肝心の切り出し方がわからない。

 それはお父さんも同じなのかもしれない。


 何年も拗れたまま家族の体裁だけを守り続けていた私にすんなりと話を進められるなら、こんなことにはなっていないはずだから。


「……信号を無視した自動車に撥ねられて右脚骨折。全治二カ月だそうだ」


 重苦しい空気の中で真っ先に告げられたのは、お父さんの怪我の具合だった。


 命に別条のない怪我だったことは不幸中の幸い。

 でも、事故に遭ったことは変わらず、運が悪ければ死んでいた可能性だってある。


「事故で他の怪我があったら困るらしく、数日は入院生活だ。仕事に支障が出るが……こればかりは仕方ない。後で後れを取り戻さねばな」


 淡々とお父さんが述べる。

 私を落ち着かせるかのように、ゆっくりと。


「……とにかく、無事ならよかった」

「どこが無事に見える。くそ、弁護士を雇ってきっちり慰謝料を払ってもらわんと割に合わん」


 不機嫌そうにお父さんが口にして、またしても会話が途切れる。

 いや、これまでのものがそもそも会話ですらなかったのかもしれない。


 お互いに言いたいことを言うだけの、一方的な連絡。


 私がしたいのは、そうじゃなくて――


「――父娘、揃いも揃って対話には向かないらしいな。どうにもお前と話すとなると、必要以上に刺々しくなってしまう。悪い癖だ……本当に」


 いつもの声のトーンのまま放たれる、お父さんのものとは思えない言葉。

 偉そうだけど、謝罪が雫ほどの分量だけ含まれているように感じた。


「妻にもよく言われていたが、私は不器用でな。伝えたい言葉を伝えるために、不要な前置きや修飾をしてしまう」

「……言い訳のつもり?」

「…………そう捉えてもらっても構わない。あの日かけるべき言葉は罵声ではなかった。現実を受け止め、喪に服する時間があればよかった」


 それはもしかすると、お父さんなりの後悔なのかもしれない。


 忘れられるわけがない。


 私がお母さんを目の前で亡くした日。

 遅れて病室に着いたお父さんの顔が悲痛に歪んだ。


 そして、家族は壊れた。


 砕けた食器のように、どうやっても同じものには戻らない。


「いや、それよりも言うべき言葉があるな。――すまなかった」


 唐突に、お父さんが頭を下げて謝罪の言葉を口にした。


 ……嘘。


 お父さんが、私に謝った?


 あの強情で人の話を聞こうともせず、否定だけを繰り返していたあのお父さんが?


 思ってもいなかった展開に、お父さんをまじまじと見つめた。


「今更何のつもりだと思われても仕方ないと思う。失った時と信用は戻らない。だからこの謝罪も信じられないだろう。しかし、それでも言わなければならなかった」


 私はこれまで、お父さんと関わることを避けてきた。

 どうせ顔を合わせても否定と罵声しか飛んでこないと諦めていたから。


 事実、それで言い合いになり、家出をして湊に拾ってもらったわけだけど。


「本当はわかっていた。わかっていながら妻のいない現実から目を背け、見当違いな言いがかりをお前につけていることくらい。……情けない話だが、私はどうしていいかわからなかったのだ。なにしろお前の世話は妻に任せっきりにしていたからな」

「……そういえば、そうかも」


 お父さんはお母さんが亡くなる前から、毎日仕事で忙しそうにしていた。

 家に帰ってこない日も多く、平日は何日も会えない日が続いたこともあった。


 それはお父さんが私たち家族を養うために働いていたから。

 お陰で金銭面で不便を強いられたことは一度もなかった。


「でも――誕生日の夜は絶対に家にいて、祝ってくれた」


 そう。


 お父さんは、ちゃんと私を見ていてくれた。


 それも私の記憶に刻まれた、大切な思い出。


「…………父親として、せめてその日だけは一緒に過ごそうと思っていた時期もあっただけだ」

「私、嬉しかった。誕生日は家族みんなが揃うから」

「……もう二度と、そんな日は来ないのだがな」


 力無くお父さんが口にする。


 家族三人で過ごす誕生日は戻ってこない。


 私はそれを受け止めているけれど、お父さんは違うみたいだった。

 結婚するほど好きだった人が死んでしまったら、そうなってもおかしくないのかもしれない。


 まだ、私にはその気持ちを完全に理解することは出来ない。


 けれど、一番身近な人になった湊が、もしも死んでしまったら。

 そんな想像をするだけで、頭の奥がくらりと回った気がした。


「……話を戻そう。私はこれまで、お前に酷いことをしてきた。許してもらえるとは思っていない。だが、家族としてやり直す機会が欲しい。…………こんな情けない父親を、まだ父親だと認めてくれるなら――」

「…………本当に、お父さんって不器用なんだ」


 私はそっと、お父さんの手を取った。


 節ばっていて、太くて、硬くて、ちょっと乾燥していて、温かい手。


「これまで色々酷いことを言われたし、そのことについては怒ってるし、まだ全部納得して許せないけど――私のお父さんはお父さんだけ。家族なのも変わらない」

「……本当に、許してくれるのか?」

「許すとまでは言ってないけど、恨みはしない。形はどうあれ、私をここまで育ててくれた恩は忘れてないから」


 子どもの力だけで現代社会を生きていくのは無理だ。

 金銭面でも、権利面でも。


 それを保証するのが親の役目だとしても、当たり前だとふんぞり返って享受するのは傲慢だと思う。

 自分の手で金銭を稼ぐ苦労を知ったからかもしれない。


「しばらく見ないうちに大人になっていたわけだ」

「もう二十歳。お酒だって飲める歳。飲んだことないけど」

「成人式の用意もしないとな。……妻にも、お前の晴れ姿を見せてやりたかった」


 お父さんの目が潤み、涙が溢れて頬を伝う。


 やっと、私はお父さんとちゃんと話せたんだ。


「ああ、そうだ。ずっと言えていなかった言葉があった。今年こそはと思っていたのだが……あの日は、喧嘩別れをしてしまったからな。――誕生日おめでとう、莉世」

「ありがと、お父さん」


 お父さんから貰ったのは、ちょっと遅い誕生日祝いの言葉。

 何年も聞けなかったそれを聞いて、やっと家族らしさが戻ってきた気がした。


「誕生日プレゼントの希望は?」

「お父さんと仲良くできたら、それでいい」

「……慎ましすぎる内容だな。こちらから頼みたいくらいだ」


 ふっ、と笑うお父さん。


 昔は、お父さんもこんな表情だった。


「莉世が見舞いに来るとは思っていなかったのだが、これも怪我の功名か。右脚一本で大切な家族を取り戻せたのなら安い代償だ」

「なら、湊にもお礼を言わないと」

「……湊、というのは、付き添いで着ていた青年のことか?」

「そう。呼んできてもいい?」


 湊の名前を出した途端、お父さんの顔が険しいものに変わる。


 百面相をしながら無言で考え込み、


「……呼んできなさい。それと、私にも彼と話しをさせてもらいたい。莉世が随分と世話になっているようなのでな」

「わかった」


―――


実は莉世ちゃんは二十歳で湊より年上なんだよね……

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