第16話

 家に帰りたくない、と思ったのは何度もあったけどこんなにも酷い気分ははじめてだと空炉は思った。学校から離れていくたびに徐々に叩きつけられた全身が熱い。それに対して、鞄はいやに冷たい。疑問符が浮かび上がる中、雫がひとつ地面に落ちた。鞄の下を触ると湿っている。ぽたり、ぽたりと雫が落ちる。嫌な予感がして鞄を開ける。そこにはぐっしょりと水に濡れた教科書、ノート、文房具、ファイルがあった。急いで捲って見るが、水につけられたのではと思うぐらいに乾いているところが無かった。カッと頭の血が上っていく感覚と同時に目が熱くなる。唇を噛んで涙を堪えた。ここで泣きたくない。私はなにも悪くないのに。そう考えても大粒の涙は瞳の許容量を超えてしまい、頬へ流れ出した。漏れ出る嗚咽は空炉をただ惨めにした。

 濡れたハンカチで拭うわけにもいかず、乾いている袖で拭うも徐々に湿っていく。涙の跡がくっきりと残ってしまっている。どうしよう、と空炉は考えるが、解決方法を思いつくほど頭は働かなかった。帰りたくないという思いしかない空炉はフラフラと側にあった公園へと立ち入った。公園は広く、隅で子ども達がボールで遊んでいるのが見える。それを見て、空炉はいいなと思う。あんな風に友達がいれば、こんなことにはならなかったのかな。再び流れ出す涙をそのままにうずくまった。

 そうして、何分いや何十分経っただろう。空炉に影がかかる。普段の空炉であれば、知らない人の気配が近づいただけで逃げそうなものだが、泣き続けている今、誰が近くにいるかなんて気にもしなかった。

「大丈夫?」

 声がかかる。凛とした鈴のような心地よさを感じる声だが、空炉はそれが自分に向けられたものだとは思いもしなかった。なぜなら自分は大丈夫だと思っているからだ。

「いや、君は大丈夫ではないね。顔を上げてくれないかな」

 大丈夫ではないことを気付かれた。そのことに驚いて空炉は顔を上げる。空炉の目の前には、絵画のように美しい少女がしゃがんでこちらを見ていた。夢かと思ってもう一度伏せようとすると、「起きてよ」と言われた。もう一度顔を上げると、少女は微笑んだ。春が来たかのような微笑みに空炉はなぜか嬉しくなった。さっきまで辛かったのが本当に夢のような気持だった。

「ほら、立ち上がって」

 差し伸ばされた手は細く、触ったら折れてしまいそうだと思って空炉は少女の手を取らずに立ち上がろうとしたが、少女に無理矢理手を取られて引っ張り上げられた。イメージとは違う力強さと掌の温かさに涙腺がまた緩む。

「泣かないで。私は貴方に話を聞きに来たのだから」

 

 互いに自己紹介をして、空炉は少女の名前が水城玲華というのを知った。人に自己紹介をするときなんて久しぶりだから詰まってしまった空炉を、玲華は優しく見守ってくれた。気をかけてくれたこっちの方が感謝をいうべきなのに、玲華は自己紹介を終えた空炉に感謝を伝えた。優しい人だと空炉は思った。優しい人なのに、何故私なんかに声をかけるのかわからなかったが、空炉は玲華の口から紡がれる本題に耳を傾けた。

「この前、放火事件があったよね。それについて知ってることはあるかな?」

 その言葉に朝から夕方までのことが走馬灯のように過ぎ去る。思わず表情がひきつってしまった。良くないことだと思うが上手く声にできない。全身が痛む気がするし、鞄が重く感じる。その様子を見て、玲華は黙って空炉の手を握った。

「……君には辛いことだったのかな。話さなくていいよ。勝手に聞いてしまってごめんね」

「そん……な……」

 そんなことはない、と言おうとしたが声は詰まってしまう。辛いのは本当だ。聞かれたくないのも本当。でも、彼女は施設の人(かぞく)じゃない。話して同情してもらってもいいんじゃないか。私は悪くないと誰かにそう言ってもらわないと本当に私が悪いことをしてしまったんじゃないかと思ってしまう。それを否定してほしい。違うって真っすぐにいってほしい。その思いが溢れて空炉は思わず玲華の袖を握った。手は握れなかった。


「あのね」

 話すことは空炉にとって辛いものだった。あの事件の日に自分が事件現場にいたこと、それがSNSで晒されていたこと、そのせいで今日一日酷い扱いを受けたこと、言葉にするたびにあのときの痛みが蘇るようで空炉は怖かったが、玲華が黙って聞いてくれたおかげで最後まで喋ることができた。

「教えてくれてありがとう。夕坂さんが受けたのは悪質なデマだね。先生には言ったの?」

「先生には言いたくない」

「それでも言ったほうがいい。生徒を守るのは教師の務めだと思うからね。もみ消してくる可能性もあるから、私の方から上の組織に通報しておこう。上からの指導が入れば否応なく対応するだろう。問題は件のSNSだけど」

「ちょ……ちょっとまって。そこまでは」

「そこまで、と言って加減することは無いよ。君は今日精神的にも肉体的にも被害を受けたんだ。そのことを泣き寝入りする必要なんてどこにもない。しかるべきところに訴えてもいいんだよ」「でも、大したことないし」

 そうだ。大したことは無い。ただ少しだけ周りが冷たくて、意地悪をされただけだ。もっと酷い目にあってる人なんて探せばいくらでもいる。だから、事を大きくしないでほしいというのが空炉の主張だった。

「だからといって、夕坂さんが傷つくのを黙って見ることはできない。人間には人権があるんだ。それが侵害されたのなら声を上げてもいいんだよ。それを責める権利なんて誰にもないんだから。大事にしたくないと思ってるのかもしれないけど、SNSでデマが拡散されている時点で大事になっているんだよ。どうしても夕坂さんが関わりたくないのなら、私が代わりにやっておくから」

 関わらなくていい。その言葉は空炉にとって素晴らしいことだった。今日嫌なことしてきた奴ら全員が自分の知らぬ間に報いを受ける。考えただけでスカッとする。でもいいのだろうか。自分だけ何もせず、他人にやらせるのはよくない気がする。心に影がさしたかのように何も言えなくなる。玲華が言っていることは確かに正しい。正しいけど、それでいいのかと空炉は思ってしまう。これってよくないのかな。

「じゃあ、先生に言うのは頑張るよ」

 言葉には出来なかった。玲華が心配してくれるのは善意であって悪意ではない。悪意に満ちた学校の人々より優先するべきものだと空炉は思った。善意が困ることってあるんだなって思いはしたが口には出さない。目の前の玲華を止めようとは思わなかったからだ。

「今日は話を聞かせてくれてありがとう。これ私の連絡先だから、何かあれば連絡してね」

「こちらこそありがとう」

 上手く笑えただろうか。握りしめるメモ帳には玲華の連絡先が書かれている。空炉はそれが濡れてしまわない様に上着の内側のポケットに仕舞った。涙は乾いたけど、心は晴れない。問題のSNSは玲華がどうにかしてくれそうだが、それでも今日のようなことが無くなるということはないだろう。それどころか、先生が注意したら悪化しそうなものである。今でさえ私の写真がネットで出回っている。ネットに上げられた写真は誰かが保存してまた上げることがあるから消しても消えることはないらしい。だから上げるのならその点をちゃんと考えて上げましょうって先生が言ってた。いくら玲華がお金持ちの家だからといって個人の写真までは消せないはずだ。学校の全員がSNSやってて私の写真を見てああなったのなら、数日後にはテレビデビューしててもおかしくはない。そうなったら、怒られちゃうかな。空炉が一番怖いのは、学校にいる他人なんかじゃなくて施設のみんなに見放されることだった。乾いた笑いが漏れ出る。明日も今日と同じようなことをされることが目に浮かぶ。貰った連絡先の重みを感じながら、空炉は公園を出た。

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