第20話その2(SIDE F)


「僕達は目を覚ましたら石造りの床の上で、魔法陣の上で寝転がっていた。『クラス全体で異世界にトラック転生したんだ!』なんて喜んでいた人もいたけど、それも最初だけだったよ。僕達の前に現れたのは帝国の魔法使いで、彼等はほとんど何も説明なしで『命令に従うこと』、ただそれだけを要求した。もちろんみんな反発したけど一番激しく抵抗したのはバスの運転手さんだった」


 そうなんだ、とちょっと驚く総司。


「六〇くらいのおじさんだったからね。異世界転生なんてオタク向けの創作物なんかきっと触れたこともなかっただろうし、多分元から無意味に自尊心だけ高くて頭が固くて、目の前の現実を受け容れられなかったんだろう……剣を持った兵士が大勢いたのに。結果として彼は惨殺された。僕達はずっと、それを見せつけられた」


 なるほど、と頷く総司。バスの運転手さんだけ所在不明だった理由が判明し、引っかかりが一つ取れた気分である。


「それでも虎姫さんあたりは抵抗しようとしたけど総司君が説得して抑え込んだ。彼女一人ならともかく他の人間は全員殺されるからって。彼等は何者なのか、僕達に何をさせようとしているのか、この世界はどうなっているのか、ここを逃げてどこに行くか、何一つ判らないままじゃ逃げようにも逃げられない、とにかく情報が必要だ、今は彼等に従うしかない――総司君がそう判断して、僕達は彼等の奴隷となった。彼等の正体が判明したのはそれからずっと後のことだよ」


 魔法帝国元老院直属研究院、それが総司達を召喚した者の名前である。


「実際には召喚じゃなく、異世界から情報を抜き取ってコピーを作り出しただけ、オリジナルの僕達はコピーの僕達がこんな目に遭っているなんて夢にも思っていない、というのは総司君の推測通りだよ。そして彼等の目的だけど……その頃、帝国は完全に末期だった。このままじゃ滅亡は免れない、早いか遅いかの違いしかないと、誰の目にも明らかだった。目も耳も塞がれたに等しい当時の僕達にはそんなこと判るはずもなかったけど。ともかく、彼等は彼等なりに事態の打開を試みていた。そのために必要な人材を召喚し、出てきたのが僕達だったわけだ。そして僕達は『祝福』を持っていた」


 水無瀬の祝福は「水の魔法」。三島総司は「解析」、虎姫若葉は「身体強化」、高月匡平は「加速」、桂川里緒は「呪歌」、向日葵は「索敵」、


「どうかした?」


 その問いに「いや、なんでも」と答えつつも、総司は腑に落ちた思いをしている。「跳躍」という葵の祝福は迷宮限定のものなのだろう。


「あと、大海千里は『複製』――どうかした?」


「いや、なんでも。続きを頼む」


「そう……ええと、使える祝福を持っていたのはそんなところかな。他の人は祝福を持っていないか、持っていても弱くてほとんど意味のない代物だった。それでも三四分の七というのはあり得ないくらいの高確率なんだけどね。でも逆に、だからこそ僕達が選ばれてこの世界に召喚された、とも言える……そしてこの事実は、僕達の間に亀裂を生むのに充分過ぎた。お前等のせいでって、二七人全員に最低一回は言われたかな」


 水無瀬はそう言って肩をすくめ、総司は「そうか」としか言えない。


「奴隷と言っても強い祝福を持つ僕達は帝国に優遇された。君と僕と大海千里は魔法研究に従事し、虎姫さんと高月君は軍に所属して獣人の反乱勢力討伐に東奔西走した。元の世界の常識からすれば獣人はどう見てもモンスターだったし、あの二人も彼等と戦いこれを殺すことにさして抵抗を覚えなかった……最初のうちは。獣人が人間と変わらないこの世界の住人だと、帝国が彼等を不当に弾圧していると判ったのは大分時間が経ってからで、その頃にはあの二人は全身獣人の血に染まっていて、もう身動きが取れなくなっていた」


 また、長く軍で戦う中で同僚や戦友、部下も生まれ、彼等を見捨てることも難しくなっていた。結果として二人は帝国の言いなりとなって戦い続け、血塗られた道を歩むこととなる。


「向日と桂川は?」


 その問いに水無瀬は「ああ」とどうでもよさそうな態度を装い、総司は若干の不審を覚えた。


「あの二人の祝福は戦場向きだったけど獣人と殺し合いをさせるのは酷だったからね。僕達の助手って立場で他の有象無象から保護していた、ってところかな」


 そして他の有象無象――二六人のクラスメイトと一人の教員は、優遇されない奴隷だった。


「それでも総司君が少しでも改善させるよう懸命に交渉して、研究成果を上げて取引をして、彼等の待遇だって決して悪いものじゃなかったよ。他の奴隷と比較すれば、の話だけど」


 彼等に課せられたのは研究機関での小間使い、掃除や洗濯といった種々の雑用である。


「下手をしたなら男は鉱山、女は売春宿に売られていたんだから、それを思えばどれだけ感謝してもし足りないと思うんだけどね。彼等はそんな風には考えなかった。あいつらはきれいで楽な仕事をしているのにどうしてわたし達はこんな汚いきつい仕事を――そんな風に逆恨みを募らせていた。僕達がどれだけ研究成果を上げて、元老院に評価されて、それと引き換えに彼等の処遇を改善しようと、それは根本的には変わらなかった」


 逆に研究成果を上げ、元老院に評価されたことは、憎しみを増幅させる原因にもなったのだ。


「くり返しになるけど帝国はもう末期で、元老院もそれは判っていて、何とかしなければならないとは考えていた。でも彼等は魔法を一般にも開放するとか、有産階級からも元老院議員を選出するとか、獣人への搾取や弾圧を止めるとか、帝国が行き詰まった原因にはこれっぽっちも手を付けようとしなかった。彼等が発案し、実行したのは『永遠の楽園』計画」


 総司は思わず前のめりとなり、


「クソみたいな脳みそから生まれた、引きこもりのオタクの妄想にも劣るクソみたいな思いつきを本当に本気で実現しようとした、クソそのものの狂気の沙汰さ」


 汚い言葉を使ってくり返し罵る水無瀬に逆に冷静となり、身体を起こした。


「もう気付いていると思うけど、それはフュルミナン地下神殿に仮初の楽園を築くという計画だった。龍脈から汲み上げられる無限に等しい膨大な魔力を利用し、今の身体は封印して保存し、複製の魔法で作り出した身体に遠隔で意識を宿らせ、コピーで作り出した美酒美食、美姫を貪り、酒池肉林に明け暮れる……もちろん本当ににそれを続けられるわけじゃない。でも魔法の補助脳を使えば脳の老化を最小限に抑えて、計算上は百年単位でそうやって生き続けることが可能だ。最後に帝国の全てを投じるには充分に意義のある計画だと、彼等は判断した」


「俺達みたいにコピーで作られた存在もある。技術的には不可能じゃないってことか」


「その通り。ただ、僕達を作り出したコピー技術は何十人もの魔法使いが一昼夜もの間儀式を続ける必要があるとか、極めて効率が悪い代物だった。僕達に課せられた研究テーマはそれを最大限効率化し、半自動化することだった。帝国の優秀な魔法使いが何十人もこの研究を続けてきて成果が得られず行き詰まっていたのを、僕達三人が壁をぶち抜いて一気に前進させたんだ」


 「そうか」と頷き、「でもどうして俺達が」と疑問を抱き、そして理解する。元老院は必要な人材を召喚した、と水無瀬は言っていた。


「やり方は判らない。召喚魔法の精霊的な何かがダウジングでもやって探したのかもしれないけど、ともかく見つけられたのは僕達だった。多分だけど、本当は君と大海千里の二人がいればそれで充分だったんだと思う。でもそこまでピンポイントな指定ができず、僕を含めた三三人が召喚に巻き込まれてしまった。僕や虎姫さんや高月君のように強い力を持った人間が他に何人もいたことも、召喚魔法の焦点をぼやけさせてしまった原因の一つじゃないかと思う」


 クラスメイトは被害者意識をこじらせ、負い目を持った総司が彼等を甘やかし、結果としてそれを助長した。彼等はこの世界になじもうとせず異世界人だけで固まり、この世界の言葉や文化も最低限しか覚えようとせず、このため周囲からも白眼視され、総司が研究成果と引き換えに彼等を守ろうとし、彼等はそれを当然の権利のようにふるまい……この悪循環を背景とし、事態は破局へと向かっていく。


「四年に渡る研究を経て、ついに僕達は元老院の要求する仕様を全て満たす魔法のアイテムを作り出した。正確には、その作り方を完成させた。素養のない人間でも魔法が使える魔法の杖、およそあらゆる魔法を半自動で行使可能な魔法のパソコン――でもそれは人間の脳を元に、人間を改造して作られる、悪魔の発明だった。僕達はそれを隠匿して別のやり方を検討しようとした……でもそれは元老院には見え見えだったらしい。設計図は奪われて、ついでに僕達の中から一人を選んでパソコンに改造するよう命じられた」


「コピーで作られた俺達は他の人間よりも成功確率が高いから?」


「その通り。そして選ばれた生贄が」


 ――言うまでもない。大海千里だ。


「推測だけど、元老院の側から安土譲治と稲枝に接触があって、彼を生贄に選ぶよう促されたんじゃないかと思う。どのみちあの二人なら喜んで彼を生贄に差し出しただろうけど」


 彼が選ばれたのは彼が複製の祝福を持つためで、改造されてもその特性を失わないことが期待されたからだろう。安土譲治と稲枝聖良はクラスメイトをまとめ、大海千里を生贄とすることをクラスの総意とした。


「もちろん君は簡単に受け容れようとはしなかった。でも、選べる道はいくつもなかった。クラスメイトの中から別の生贄を選び直すか、帝国に反旗を翻すか。もし虎姫さんや高月君が近くにいたなら本当に反乱を選んでいたかもしれないけど、二人とも遠征中で連絡すら取れなかった」


 結局総司が選んだのは大海千里を生贄とする道だった。そして――


「その日の夜、僕は研究院を脱走した」


 水無瀬は淡々と語り、総司は大きく目を見開いた。


「彼等の、君の選択はどうしても受け容れ難かったし、何より彼の改造が失敗したなら次に生贄に選ばれるのは、高確率で僕だ。逃げるしかない、とそのときは判断した」


 経費をちょろまかして小銭を溜め、言葉を覚え、周辺の地図も用意して逃げ込む先にも目星を付けていた。脱走自体はあっけないくらい簡単に成功した。


「その日のうちにチンピラに捕まって、強姦された上に全財産奪われたけどね」


 そう言って笑う彼女に、総司は何も言うことができなかった。こうして彼女は無一文で異世界を流離うこととなる。


「僕は女だったからお金を稼ぐことは難しくなかった。……反吐が出るような、死にたくなるような毎日だったけどね。あの子の父親だってどのときだったかどの客だったか、顔も何も判らない……本当に、君に泣きついて研究院に帰ることを毎日毎晩考えていたよ」


 総司に言えるのは「そうか」という、陳腐な相槌だけである。汚辱にまみれ呻吟する日々だったがそれでも彼女は耐え忍び、何年もかけてそこから抜け出していく。


「研究院で培った知識と祝福を使って薬を作ってそれを売って、それで何とか、真っ当な場所で親子で食べられるようになった。認定された魔法使い以外が魔法を使えば死刑って法律は残っていたけど帝国の支配体制は崩壊していて、とっくに有名無実化していた。それでも獣人とか、人間でも帝国に恨みを持つ者はいくらでもいたから、研究院にいたことがばれると面倒なことになる。だから薬屋もあまり大っぴらにはできず、モグリみたいな商売を続けるしかなかった」


 それに転機が訪れたのは、共和国軍にその事実が露見したからだ。


「共和国軍の中の、情報を集める部署に見つかって捕まった。でも別に無体なことをされたわけじゃない。帝国の内情について情報提供を求められただけだ」


 それがディアデムの部下であることは言うまでもない。この時点からディアデムは彼女のことを、その娘のことを知っていたから総司達との通訳としてアリアンを呼び寄せたのだ。


「僕は喜んでそれに応じた。それと引き換えに市民の地位を保証してもらって、何とか安定的な立場を手に入れたんだ」


 その時のことを思い返したのか、彼女は心底から安堵のため息をつく。そのときの総司やクラスメイトからすればあるいは裏切り者かもしれないが、彼女を責められる者がどこにいるだろうか? それに、


「研究院を脱走して何年も経っていたし、大して役立つ情報はなかったんじゃないかと思う。……それに、別の情報源も得られたし」


 水無瀬が悔しげな顔をし、わずかに歯を軋ませる。不審に思いながらも総司は彼女の感情が整理されるのを待った。


「……わたしは用済みになった。向日葵と桂川里緒が帝国から抜け出して共和国軍に接触したからだ」


 総司が驚きに目を見張るが水無瀬はそれにも気付かず、一気に吐き出していく。


「二人が持つ情報は最新のもので、量も僕とは比べ物にならなかった。しかもそれはリアルタイムで更新されていった。……多分だけど間違いない。彼女達は帝国内部の誰かとつながったままで、そこから情報を得ていたんだ」


 その誰かとは誰か――これも憶測だがまず間違いない。三島総司、その人だ。


「僕はもう共和国軍から離れた、市井の中の一庶民でしかなかった。その後のことは全部風の噂で聞くだけ、それを元に憶測を膨らませているだけ――でもそれが許されるなら。その頃『永遠の楽園』計画は実行段階に入っていて、君は帝国を店じまいしようとしたんだと思う。そしてなるべく犠牲を出さず、なるべくスムーズに共和国に権力が移譲されるように画策した」


 そのために心底気が進まないながらも皇帝などという面倒の極みみたいな役割を引き受けた。葵と里緒を共和国に送り込んだのもその一環であり、また二人を帝国滅亡に巻き込まないためなのだろう。


「他のクラスメイトには……多分愛想が尽きていたんだろう。虎姫さんと高月君は、君の計画に最後まで付き合った」


 匡平は部隊ごとまるごと脱走して共和国軍に合流。最後まで皇帝ミシマ・ソウジの剣だった虎姫若葉と死闘をくり広げ、ついには相打ちとなって果てることとなる。


「……と吟遊詩人には歌われているけど、実際にはどうだったんだろうね。二人で示し合わせて上手く死んだふりをして、今もどこかで生きていても何も不思議はないだろうね」


 そうだな、と言いつつも総司は内心ではそれに同意しなかった。匡平だけが共和国軍に合流したのは役割分担で、犠牲が無用に大きくならないよう二人で調整していたのはその通りだろう。だが、犠牲がゼロだったわけでは決してない。二人の手には獣人の、共和国軍兵士の、帝国軍兵士の血が骨の髄まで浸み込んでいる。それを忘れて自分達だけ生き延びようと、あの若葉が決断するとはまず考えられないし、若葉を死なせて自分だけ生き残ることをあの匡平が是とするとは、なかなか思い難かった。


「多分だけど、他のクラスメイトは帝国陥落時に皆殺しになったんだろう。あの連中があの混乱時に上手く立ち回って生き残れるとは、ちょっと考えられない」


「向日と桂川は?」


「桂川里緒は病気で死んだと聞いている。帝都や研究院はその外と比較すれば温室そのものだ。ひ弱なあの子じゃ耐えられなかったんだろう」


 まるで嘲笑するような物言いに総司は反発を覚えながらもそれを隠し、再度問う。


「向日は?」


「さてね!」


 吐き捨てるような語気の強さに、総司の驚きは小さくなかった。


「多分どこかで生きているだろうけど、どこで何をしているやら。共和国軍に接触してきたとき、あの二人は金貨銀貨をざくざくと持っていたし、どれだけ遣ってもなくなりはしなかった。あの子は僕にも施しをしようとしてきたよ。慈善家が物乞いに金を恵むように……冗談じゃない! 僕がたった一枚の銅貨を手に入れるのにどんな目に遭ったと思っている! どんな思いをして、どれだけのことを呑み込んで身体を開いたかを……」


 水無瀬は怒りに身体を震わせ、身体を丸めた。総司はそんな彼女に、深い悲しみを覚えている。

 葵達は帝国内の総司とつながったままで、活動資金も援助されていた。島本水無瀬を見つけた、と報告を受けたなら、彼女が困窮していると聞いたなら、自分なら間違いなく支援をしようとするし、ファーストコピーの自分もまたそうだったことを疑う必要はない。葵や里緒だって、困窮する水無瀬を何とか助けたいと、純粋に思っていたはずだ。水無瀬と葵は元から仲は良くなかったが、別に憎しみ合っていたわけでもないのだから。

 だがその善意は水無瀬には届かなかった。ここで二人の慈悲にすがってしまったらこれまでの自分の艱難辛苦は何だったのか、あの塗炭の苦しみの日々には何の意味があったのか――それを無為にする選択を、彼女はどうしても選べなかったのだ。それは「己が意地を貫き通した」とも言えるし、「苦労のあまり性根がねじ曲がってしまった」と言っても間違いではない。

 怒りは、恨みつらみは彼女の魔力を、生命力を浪費してしまったようだった。水無瀬は自分の胸に顔を埋めるようにし、激しく咳込んだ。


「大丈夫か? とりあえず落ち着け、横になれ」


 総司の手を借りて水無瀬が身体を横たえる。痩せこけた彼女は目ばかりが大きく、それはぎらぎらと異様な光を放っていた。


「……帝国を出てからも向日葵は資金援助を受けていて、温室に入ったままだった。でも帝国はもう滅んだ、彼女を援助する者はいない。金だってそのうちなくなる。知り合いはいない、助けてくる者はいない、金を稼ぐ方法も知らない、町での生き方も知らない……一体どこで何をしていることやら。僕が二〇代のときに味わったあの苦労を、あの子はこれから経験することになるんだ」


 水無瀬のそれは推測や予測ではなく願望だった。「そうなればいい」「そうなってしまえ」という、呪詛の言葉だった。あるいは彼女の言うように今悲惨な目に遭っているのかもしれないが、要領がよくコミュ強な、あの葵のことだ。上手く立ち回って、手助けしてくれる人を見つけて、どこかで平穏に暮らしている可能性はそれなり以上ではないか――だがそれをわざわざ指摘しようとは思わない。自分の苦労に意味があったと、そう思うためには葵が地獄に堕ちている必要があるのだから……それは彼女の弱さで、それは非常に悲しいことだが、総司は彼女を赦した。彼女の弱さを赦した。彼女自身も自分の弱さを理解しているのだから。


「ああ……そうじくん」


 水無瀬の瞳から涙があふれ、流れ落ちるそれが枕を濡らした。涙は止まることなく流れ続けている。


「僕も今の君のように若くはなれないかな。あの頃に戻りたい。きれいな身体の、何でもできると、何にでもなれると思っていたあの頃に」


 総司が答えを返すのに時間がかかったのは、歯を食いしばり、涙を堪えていたからだった。


「……迷宮には島本のデータも、まず間違いなく残っている。でもそれは二五年前の、この世界に拉致されてすぐの時点の島本だ。今の島本の記憶や経験を何一つ持たない島本をわざわざプリントしてこの世界に放り出すことに意味があるとは思えない」


 今のこの島本水無瀬の四二年の人生も、二五年の艱難辛苦も、全て今のこの島本水無瀬のものだ。他の誰のものでもない。迷宮から遠く離れたここでその記憶や経験を新しい、若い身体に引き継がせることは不可能だし、仮にそれができたとしてもそれで救われるのは(救われるとするなら)新品の、コピーの島本水無瀬だ。今のこの島本水無瀬を救えるのは彼女自身しかいなかった。

 そうか、と彼女は残念そうに深々とため息をつく。


「でも君と一緒に、改めてこの世界を冒険するのも、それはそれで悪くないかもしれない」


 と水無瀬が微笑み、総司もまた笑い返した。だが、


「止めておいた方がいい。今の俺はただの過去の亡者だ。犯した罪のせいで地獄に堕ちて、延々そこを彷徨っているだけの。正しい道を選んだ島本が地獄めぐりに付き合う必要はない」


「正しい道……僕が?」


 瞠目する彼女が総司に問い、総司は力強く頷く。


「俺達の中に島本がいなかったのは、君だけが正しい選択をしたからだ。俺も、高月も、向日も、誰もかれもが間違えた」


 そう、逃げることもできたと――彼女自身が証明したのだ。それを選ばずに我が身可愛さで生贄を差し出すことを選んだのは自分自身で、その因果があって今の自分がある。最低でも四回死んでリポップした、コピーのなれの果てという今の自分が。

 ああ、と彼女は言葉にならない吐息を漏らし、溢れんばかりの涙を流した。だがその涙の意味は先ほどまでとは違っている。


「僕は……正しかったんだね? 僕が選んだ道は間違いじゃなかったんだね?」


「島本だけが正しい道を選んだ」


 その問答は二回三回とくり返された。総司は彼女が望むなら百回でも二百回でも、胸を張ってそれを断言するだろう。それはただの事実なのだから。


「ああ……ありがとう」


 満足そうにそう告げる水無瀬は、眠るように目を瞑った。


「少し疲れた……悪いけど眠らせてもらうよ」


「ああ。起きたらまた話をしよう」


「うん、話したいことがいくらでもある……」


 目を閉じた彼女は静かに寝息を立てた。非常に小さく、耳を近付けなければ聞こえないくらい静かに。

 島本水無瀬が息を引き取ったのは、その日の夜のことだった。

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