にび王

ぐーすかうなぎ

第1話 ヒヅメ滝

 地面の泥水には空がうつりこんでいた。それはそれは、さわやかな晴天だった。

 地平線を見失いそうなくらいに空の色をおびたこの泥水湿地には、女人の肩幅ほどしかない木道(もくどう)があり、おボケはよたりながらそこを道なりに進んでいた。

「わっ」

 姿勢が崩れ、湿地に足を突っこんでしまう。

 おボケの足は裸足だ。だが、いくら汚れるのもいとわない軽装とはいえ、やってしまった感はこれを十回とむかえてもぬぐえなかった。

 今度は苔むした巨岩たちが待ち受けていた。飛び移ったり、よじ登ったり。なかなかに険しい道だ。

「ふぅっ」

 そしてその向こうに、ようやっと滝があった。

 とはいえ小滝である。連なる滝口は目線の少し上にあり、サラサラと落ちる水はおボケを囲うようにして円陣をくんでいた。

 これは通称・ヒヅメ滝。昔の人が馬のヒヅメを連想し、そう名づけたのだという。

 しかし馬に縁のないおボケは「まるでお月様ね。見事な三日月」とつぶやいた。

 ふと、滝を見上げるおボケの目から涙がこぼれた。

 ことの発端は、昨日までさかのぼる。

 寝息を立てて、わざと寝ているフリをした夜だった。

 おボケは妹と弟の会話を、ふすま越しにうっかりと聞いてしまったのである。

 ――いくらボケ姉に器量がないからってな、家族を捨ておくことを考えるか。

 ――そう言うなよ。おっかぁだって精一杯で、大変なんだよ。

 二人の話によれば、おボケだけに留守番をさせ、そのすきに家族らはどうも隣町へ行くとのことだった。

 そう。おボケだけをおいて。

 しかも、それは今日の昼から。

 つまりは、おボケの家族はもうとっくに山道をくだり隣町へと向かっているということになる。

「そうだよね。あたし、全然ダメだもんね。怒られてばかりで、いまだに左右の区別もつかない。おぼわらんもんの面倒を見るには、根気がいるよな。それはわかっとる。わかっとうけど」

 でも、あたしとの何もかもが苦痛だったか、本当にそうだったのか。

 本当に、あたしを捨てるほどまでに、おっかぁ。それに、サチにユキ。

「でも、でもいいんだ。うん。他人が死ぬだけだからな」

 そうだ。もう遠くの他人が死ぬだけだ。むしろ、彼らにとってはいないんだ、すでに。

 ヒヅメ滝の滝壺は青色が深い。さぞかし、そのふところも深いのだろう。

 そろ、そろ、そろと、おボケは岩のうえを歩いた。

 やがて淡い金色(こんじき)の霧がたちこめ、滝のあたりが蒸す感じとなった。

 その背が、霧の中へと消えていく。

 そして鈍く、重たい水しぶきの音がした。おボケが滝壺へと落ちたのだ。

 水が、泡が、ブクブクとおボケの周りを舞う。

 その何もかもが見えたのか、おボケは混乱した。

 怖い。怖いよ。誰か――っ!

 美しい泡に包まれながら――透ける青色の中で、まぬけにもおボケは溺れた。

 わけのわからぬ言葉だけが胸の中に溢れてくる。

 ――この身はずっと混乱の中にあるんだよ。頭にモヤがかかって、誰の言葉も声も届かない。そんな世界で一人にされたんだよ。あたし、一人。一人。たった一人なの。

「おっかぁ‼嫌だよぉっ‼あたしの顔を見てぇっ‼――お願いっ‼」

 ――あたしはね、こんなあたしのことを、いつでも案じてくれる優しいおっかぁが大好き。もうね、こんな人はあたしの前には現れない。そう知ってるから、好きなんだ。

「村の皆は、あたしのことが大嫌いなんだよっ‼どうしておいてくのっ。そんなことしないでよぉっ‼」

 この時、おボケは気づいていなかった。

 ヒヅメ滝の水が不思議な勢いを持って、枯れていったことに。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る