第6話『弟子、師匠のお背中に心震わす』
――それは決して忘れ得ることのない記憶。
かつて住んでいた村に、突如として現れた魔獣の群れ。そのとき、最初に襲われたのが俺だった。
不意に身体に激痛が走り、しばしの浮遊感の後で近くの家屋に叩きつけられ意識を失い……次に目を覚ましたときには、村は既に火の海になっていた。
村を破壊し尽くしていた魔獣は、俺の呻き声を逃すことなく聞きつけて、鋭い双眼でコチラを捉えた。
そしてゆっくりと、一歩ごとに地面を揺らし、村を砕きながら近づいてくる……。
俺は、逃げようとも思えなかった。
朦朧とする意識のまま、俺の命も踏み潰そうとする巨大な魔獣の足音が大きくなるのを、ただ聞いていた。
そこに思考はなく、感情もない。
確実に近づく死を、まるで他人事のように俯瞰するばかり。
……もしかすると、このとき俺の心は既に死んでいたのかもしれない。
全身の痛みと、村全体を包む死臭に、心は既に朽ち始めていたのかもしれない。
だから、もう生きるのを諦めて、肉体の死を迎えるのを漠然と待っていたのかもしれない。
もしそうなのだとしたら、死にゆく俺の心を、蘇らせてくれたのは――
目の前まで辿り着いた魔獣が、その剛腕を振り上げる。
赤黒い液体のこびり付いた巨大な爪が、次は俺の身体を容易く引き裂く……そう、確信した時だった。
――風が、吹いた。
最初はそう思った。
そして次に気づいた時には、俺と魔獣の間に誰かが居て……俺の代わりにその誰かへと、魔獣の爪が振り下ろされた。
舞い散る赤い血。
女の人の呻く声。
俺はその時ようやく、目を見開いて眼前の光景を見た。
そこに立つのは、村では見たことのないような美しい女の人。
長く黒い髪、透き通るような白い肌。
その表情は苦悶に耐えていたけれど……俺の視線に気づくと、すぐに明るく綻ばせて、優しく笑いかけてくれた。
『大丈夫ですよ。心配しないで。必ず、護りますから』
鼻につんと刺さる鉄臭い匂い。
彼女の背から滴る赤が地面へ滴る音。
その人を見た瞬間に、その人を中心にして、五感が戻っていくのを感じた。
そして、何より強く感じたのは……胸の奥でズンと響く、自分が魔獣から受けた傷より遥かに強い痛み。
俺は、その痛みをずっと覚えている。
忘れない。忘れやしない。絶対、絶対に。
俺が彼女に……ルヲ師匠に出会った日のことを、決して忘れることはない。
○
「で、では師匠、お背中を流させて頂きます……っ」
「……はい」
2人して湯布一枚の姿で、俺――カザク・トザマの前には、ルヲ師匠が背を向けて座っている。
共に一旦汗だけ流して、洗い場にて湯を溜めた桶を傍に置き、いよいよお背中を流させて頂く……という状況なのだが……。
宿屋の浴場は想像以上に広かった。
浴槽だけで俺と師匠とで過ごしていた山の家の物とは比べ物にならないほど大きく、洗い場も麓にあったボノロコ村の人間なら全員入ってしまいそうなぐらいだ。
これだけの規模に関わらず、特別性の魔石を用いているおかげでほぼ無尽蔵に清潔で暖かな湯を楽しめるのが売りらしい。ここに来るでの道中で店主が自慢げに語っていた。
流石は国営の冒険者ギルドを有する街ガラヌ・レグナといったところか。
だが……貸し切りにしたのだから当然ながら、そんな大勢で入れる風呂に俺と師匠の二人きり。
ガランとしていて、足音すらもやたらによく響いて、余計に静寂が強調されているように思う。
そんな状況のせいで、師匠に湯を共にさせていただく慣れ親しんだ筈のことにも緊張感を覚えてしまっていた。
加えて師匠は過敏に俺の視線を気にしているご様子だ。
かつて湯を共にさせていただくことなど珍しくなかった頃は、師匠は入浴を楽しむのが最優先で俺のことなど視界にも入れていなかったように思う。
けれど今の師匠は、背を向ける体勢ゆえに視線こそ向けていないが、髪を洗うその手がどこかぎこちなく、ビクついてるように思えてならない。
そしてそれは……俺も同じだった。
入浴前に、お背中を流させて頂く提案を一度拒絶されたことが、どうしても心に重くのしかかっている。
一年前、修業を受けていた頃は当たり前だったことが……今の師匠のお心を傷つけてしまうかもしれない。
そんな不安が頭を過って、俺もまた師匠の表情を伺ってしまっていることに気づく。
俺も、師匠も、互いに表情を探り合って。
あの頃の心休まる入浴とは、まるで違っていて……。
(……なんだか、切ない……………………じゃあないだろうがッ!!!)
そんな風に沈みかけていた気持ちを、首を振って振り払う。
この空気の片棒を自分で担ぎながら被害者ぶって"切ない"などと、片腹痛いにも程がある。
俺の気持ちの問題であるならば、再会してからここに至るまで何度も繰り返してきたはずだ……俺の師匠への想いは何があろうと揺るぎはしないと。
故に今この時に大事なことは、弟子として師匠に至高にして究極なる安らぎの時間を与えること以外にないではないか……!!
湯布で泡立つ石鹸に、己が"気"を注ぎ込む。
"気"とはすなわち生命力――己が身に漲らせれば万物破壊する力を宿し、他者に注げば気力満たし万病癒す施しとなる!
今お背中を任せて頂くのは、その"気"を操る術たる"輝皇拳"を伝授してくださりし師匠その人!
であればこれは恩返し。俺に気を伝授せし師匠に、その気を以て最高最上の癒しをもたらそうではないか!
「さぁいきますよ師匠ッ!! お背中をッ!! 流させて頂きますッ!!」
「えっ? あっ、は、はい……」
緊張からか張られた背中へと、いよいよもって湯布をあてがった。
「ん……っ」
その瞬間に小さく上がった師匠のお声。
それに沸き起こりかける邪心を無視し、優しく丁寧に、湯布を握る手を動かすことに集中し続ける。くれぐれも細心の心使いを心掛けねばならない。
(……そう、本当に、お美しい背中だ……)
確かに、一年前から随分とやせてしまった。背にも浮き上がる骨が目立たないわけではない。
それに、修行を共にしていた頃から……いや、それよりもさらに前から、魔獣との闘いの中に身を置いていた師匠。
その背に傷一つない、などという筈もない。
だが、どんなにやせてしまっても、どんなに傷だらけであっても関係ない。
このお方の美しさ、素晴らしさは、その本質は、それらとは別の場所にあるのだから。
(あぁ……この感じ……懐かしいな……)
鼻の奥にツンとしたものを感じる。
師匠のお背中を流しながら、その美しさに想いを巡らせる……そんな修行時代の日常そのままの時間がそこにはあった。
そう感じるほどに、また師匠に会えたのだと、またこれから共に過ごせるのだと、深く実感できて……不覚にも、背を流す手が止まってしまう。
感極まるのを、どうしても抑えられなかった。
――と、そのとき気づく。
師匠の方が、微かに震えている。
お背中を流しながらでは気づけないほどに小さい震え。
一瞬、師匠も俺と同じ気持ちなのかと期待してしまった。
俺と同様に、かつての日常に想いを馳せて、思いいることがあったものかと。
しかし、それは正しくもあり、間違いでもあった。
「……くっ、う、うぅ……っ」
師匠は、泣いていた。
その涙が、喜びや懐かしさからではないことは、すぐ分かってしまった。
抑えたくても抑えられないのが伝わってしまうしゃっくりあげる泣き声。
その声のくぐもり方に、きっと唇の噛みしめているであろうことがお顔を拝見せずとも分かる。分かってしまう。
部屋でその提案した時と、脱衣所と、師匠は二度も入浴を……いや、俺にそのお身体を晒すことを拒絶した。
それでもこうしてお背中を流させていただくことを許してくださっているが、その胸中にはやはり暗い感情が渦巻いていることは察して余りある。
羞恥か、後悔か、それとも屈辱? 恐怖?
どれだけ慮っても、俺程度では答えにたどり着けるものか分からない――
『……離れるのは、もっと嫌……なの……カザク……独りに、しないで……っ』
――だから、俺に出来ることは……。
「カ……ザク……ごめん、なさい……私、私は――」
「師匠、俺が初めて湯を共にさせて頂いたときも、こうしてお背中を流させて頂きましたね」
「――え?」
師匠の言葉に、意図して己が声を被せる。
平時であれば許されない無礼千万。己の腹を裂いても足りない所業。だが、それでも。
「あの時、俺は初めて見ました――初めて会った俺を庇ってくださった時の、この大傷の跡を」
俺の視線の先には、泡にまみれてなお隠れ切らないほどに大きな傷の跡が、師匠の背中に刻まれていた。
まだ10歳にも満たなかった頃の記憶。
魔獣に村を焼かれ、死にゆくはずだった俺は師匠に助けられた。
その時の傷跡は、未だにこうして師匠の背中に残ってしまっている。
「こうしてお背中を流させていただく度に、この傷跡を見る度に、俺は思い出すんです。師匠に助けて頂いた出会いを。そして――ルヲ・スオウという俺の師匠が、どんなに尊く素晴らしいお方なのかを」
「!」
「それは今も同じです。何があろうとも、アナタが、ルヲ・スオウこそが……俺の最愛なる師匠なんです」
出会ってすぐ、と呼ぶにも足りない駆け付けた先で襲われていた子供を、その身を挺して守る優しさ、覚悟、決断力……。
あの頃は、師匠もまだ10代ほどの年頃だったはずで……そんな少女がそれだけに至る日々を想うだけで、心が震える。
俺と出会う前、出会ったとき、そして出会ってから弟子入りを許され共に過ごした日々……その積み重ねの全てが、俺がこのお方を師と仰ぐ理由だ。ルヲ・スオウが最高至上の存在であると示す証左だ。
「カザク……だけど私……私は……今の、私は……ッ!!」
「変わりませんッ! 何があっても! 何が変わっても! 俺の想いも貴方の尊さも何も変わらない!!」
例えどんなに姿が変わっても、消えることのないこの大傷のように。
師匠の素晴らしさも、俺の気持ちも……俺の弱さが、この傷を師匠に残してしまったという過去も、何があろうと消えることはない。
だから、未来永劫、那由他の果てまで俺の師匠がこの人であることは、絶対決して揺るがないのだ。絶対に。
「……っ、う、う、くぅ……っ」
師匠の肩が、また震えている。
その嗚咽の理由が、先程までとは別のものであることを、俺にはもう願うことしかできなかった。
――――――――――
第6話読了ありがとうございます!!
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