18 その追手、狼騎兵につき――

 

 振り上げた手斧が意思に反してピクリとも動かないことにレイラは目を見開いた。

 どれ程力を入れ、魔力を腕に流そうとも振り上げた腕は震えるばかりで一切動こうとしない。

 そこまでやってレイラはいやと首を振った。


 身体が動かないのではなく、手斧を振り下ろす気になれないのだ。

 そして今のレイラに、そんな気を起こす心当たりなど一つしかない。


「まったく、魂を完全に取り込んだっていうのに私の邪魔をしてくるなんてね。流石は本物の私レイラちゃん、折角の機会だっていうのに本当に鬱陶しいッ」


 心底忌々しそうに舌打ちを一つこぼし、湧き上がる仄暗い怒りを奥底に沈め、レイラは深呼吸一つと共に女に向かっていた矢を切り払う。

 これは本格的かつ早急に自身の変化を確かめる必要があるなと考えながら、さっきから矢を放ってきている鬱陶しい存在に身体を向ける。


「あ、あの、どうして……?」

「気が変わったの。死にたくなかったら邪魔にならないように大人しくしてなさい。それとも私に殺されたい?」

「お、大人しくしてます!!」


 三度降ってくる矢を切り払い、改めて彼我の距離が三十メートルを切ったのを確かめたレイラは手斧を獣車の縁に突き刺して投石紐に持ち変える。

 散発的に降り注ぐ矢の間を縫って投石紐を回したレイラは僅かに思考し、一先ず先頭を走る一際大きな狼に狙いを定める。

 回転、魔力共に十分に高まった状態で放たれた石は猛然と空を切って突き進むが、命中する直前に狼が横へ跳んで躱される。


 再度狙いをつけて石を放ってみるも、今度は余裕をもって躱される。

 舌打ちと共にレイラは眼前に迫っていた矢を躱し、お返しとばかりに騎乗している遊鬼ゴブリンに向かって石を放つ。

 だが遊鬼は短弓を手放す代わりに背に背負っていた斧で石を切り払う。


「主従共に随分と優秀なようね。今までで一番の相手かしら? なら先にやるべきなのは――――」


 石を再び投石紐で包んで回したレイラは横向きにスナップを効かせて紐の片端を手放し、緩やかなカーブを描く剛速の石を放つ。

 先頭を走る遊鬼の頭上を掠める軌道を辿る石は僅かに姿勢を低くしただけで先頭の遊鬼に命中することはなかった。


「――――頭数を減らすことよね」

『GUGYAッ?!!』


 だが遊鬼が外れた石にニヤりとした笑みを浮かべるよりも早く、やや右後方から追従していた別の遊鬼の短い悲鳴が上がるのだった。

 先頭の遊鬼が慌てて振り返ると、石を顔面に受けて吹き飛ばされた遊鬼があった。

 更に衝撃の反動で手綱を握り込んでしまった遊鬼に釣られて倒れ伏す狼の姿が目に入る。

 驚愕に目を見開く遊鬼だったが、背後を見ていた遊鬼の耳に風切り音が届く。


『GYABAッ!!?!?!』


 咄嗟に身を低くして躱した遊鬼だったが、今度は左後方から追従していた仲間の悲鳴が鼓膜を打った。

 左後方を振り返ると、顔面が陥没した狼と街道に投げ出されてピクリとも動かない遊鬼の姿が目に入る。

 歯を食いしばり、手綱を握りしめた遊鬼は鐙を蹴って狼を加速させる。


『Tozo ozg aq cyiudi!!』


 遠目からでは向かってきている遊鬼の表情までは見えなかったが、風に巻かれながらも、僅かに届いた遊鬼の悪態に内包されている憎悪と怒りはレイラの身を震わせる。


「怯える相手を殺すのもいいけど、激しい感情を向けられるのもまた好いものねぇ……」


 快感に身を震わせながら腰に提げてある布袋の一つに手を伸ばし、石を抜き取って残る一体の遊鬼に投げつけるが、いとも簡単に切り払われるか躱される。

 何度も試してみるが、結果は変わらない。

 どうしたものかと思案しながら布袋に手を入れるが、そこにあるべき感触がない。

 布袋を手に取り中を覗き込むと、何も入っていなかった。


「石も品切れだし、どうしたものかしら……」


 投石紐を布袋に入れて腰に提げ直し、レイラは顎に手を当てて考える。

 追跡してきている遊鬼を倒せる数少ない遠距離武器は品切れ、例えあったとしても有効打にはならないだろう。

 他に武器になりえる物は荷台には見当たらず、御者や隅で丸くなっている女の魔法も当てにならないと見て問題ない。

 そもそも追跡をどうにかできる魔法が使えるのなら、とっくに使って追手を振り切れていることだろう。


 大分距離を詰められているが、幸い残る騎獣兵は短弓を手放しており、遠距離から獣車を曳く丸猪牛ファンゴールが狙われることはない。

 そこまで考えたレイラは縁に突き立てていた手斧を抜き取り、挑発的な笑みを浮かべて追ってきている遊鬼を見る。


「仲間を殺した私はここよ。殺せるものなら殺してみなさいな。まぁ、貴方程度に狩れる命じゃないけどね」


 ついでにレイラがこれ見よがしに人差し指をにくいくいっと数回折り曲げると、何かが引き千切られる音が聞こえた気がした。

 距離が詰まったといえ、大声を上げた訳でもないレイラの声が届く距離ではない。

 だから言葉が通じたわけでも、声が聞こえたわけでもないだろう。


 だが、例え言葉が通じずともレイラの行動と何かを喋ったという素振りだけでも相手を挑発するには十分だった。


「ああ言う手合いは行動が読みやすくて助かるわ。あとはこの手で首を刎ねるだけね」


 遊鬼は狼の脚を更に加速させ、一直線にレイラの元へと向かってきている。

 これで獣車の往く手に先回りされ、要である丸猪牛が狙われることもないだろう。




 お互いに殺意を滾らせ、見つめ合いながら時間が経つことしばし。




 双方の顔の細部まで分かる距離にまでなった瞬間、今まで地を駆けていた狼が飛び上がり、大きな口を開きながらその鋭い牙を光らせる。

 それに対してレイラは身体を捻りながら狼の下に潜り込むようにして凶牙を躱し、ついでとばかりに丸見えになっている首元へ手斧を走らせる。

 ただ狼の巨体に対して手斧の刃はあまりに小さく、致命傷ではあるが即死させるには至らなかった。


 手斧を振り切ると同時に横へ跳んで狼の懐から抜け出たレイラだったが、影から出て明るくなった視界の隅に淡く輝く何かが映り込む。

 咄嗟に短剣を抜いて輝く何かとの間に滑り込ませるが、レイラが光の正体を認識するよりも早く予想外の事態が起こった。








 それは極度の集中力によって間延びしたようにゆっくりと進む視界の中。

 盾代わりに滑り込ませた短剣に輝く何かが抵抗もなく食い込み、バターを切るように容易く両断される光景だった。




「ッ?!」





 脳が事態を飲み込む前に身体が動き出していた御蔭で、光る何かに服の一部を切り裂かれるだけの被害で済んだ。

 だがもし避けてなかった時の事を想像し、レイラの背筋を僅かに冷たいものが撫でる。


「……まったく、今日は予想外の事ばかりで驚きに堪えない日ね」


 慢心、していたのだろう。

 気を引き締めなおしたレイラは狼の巨体が荷台に転がった事で大きく揺れているのにも関わらず、見事に着地している遊鬼と対峙する。


 狼に下敷きにされるでもなく、転がっているわけでもなく、大振りの戦斧を構えてジッとレイラを見つめる遊鬼。

 その両手には淡く白く輝く半透明の刃をした戦斧が握り込まれており、刃が放つ輝きは短剣を容易に切り裂いたものと酷似していた。


「それは魔道具なのかしら? なんにしても、その切れ味は厄介このうえないわね」


 そう呟いたレイラだったが、その表情に畏れの色はない。

 それどころかさっきまでの愉悦と恍惚に満ちた表情も消え、酷く冷徹な仄暗い瞳が一瞬たりとも離れることなく遊鬼に注がれている。


 殺気や殺意、それどころか感情の色も消え失せた作り物のようにも見える瞳を向けられた遊鬼は一瞬だけ怯んだ様子を見せるが、即座に気を持ち直してレイラへと躍りかかった。

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