手が落ちぬ

おくとりょう

夏の夜の畔

「もしもし。うん、ちょうど仕事終わったとこ」

 乾いた草の香りがする。そういえば今朝、側の川で草刈りをしているのを見た。

 ……夜風が心地よい。田んぼの間の舗装道路。泥に汚れたアスファルトをポツポツと立つ街灯が白く照らす。

「うん。へぇ、そうなんだ。よかったね」

 離れて暮らす恋人との電話。今、住んでいる部屋は壁が薄いので、電話はいつも外でしている。職場へは徒歩で通勤しているので、その際に電話することが多い。

「あはは、そう。でも、危ないことはしないでね」

 電話の先で、コロコロと転がる鈴のように今日のことを話す彼女の声。僕はいつも相づちを打つだけ。


 薄暗い草の影から、ジーッと虫の鳴く声がする。少し前はカエルの大合唱でうるさかったのだけれど、ここしばらくは聴いていない。乾いた泥にまみれた道を歩きながら、ぼんやり考える。もしかしたら、カエルの鳴く時期は過ぎてしまったのかもしれない。僕はそういうことにも疎いから。


『――っ!!』

 突然、声を荒げる彼女。『話を聞いているのか』『返事をしろ』と怒鳴る彼女に応えるものの、彼女の怒りはちっとも治まらずに、そのままブチッと切られてしまった。


 静まり返った夜の畦道。いつの間にか、僕の住んでるアパートの前に着いていた。小さく聴こえる虫の音は、何種類があるようだった。何故か肩の荷が下りた気がして、空を見上げた。彼女が浮気をしていたことを思い出す。夜空は綺麗な黒色で、星の光は可憐に見えた。

 部屋の鍵をそーっと開ける。生ぬるい部屋の空気が知らない人の家みたいに香る。飲み忘れてたコップのお茶を流して、蛇口をひねる。熱い水に手を引っ込めた。昼間の暑さを想いを馳せて、ふと鏡を見ると、首から上が取れていた。


 僕の頭はよく落ちる。例えば、嫌なことがあったときとか。

 とはいえ、それで電話の声が聴こえなかったのかと、彼女に申し訳なく思った。だけど、ちょっぴり不思議だった。いつもは先に手首が落ちるのに、今も両手は流れる水を浴びている。ようやく出てきた冷えたそれが心地よかった。

 水を止め、取れる気配の全く無い手を僕はじっくり眺める。それはいつも通りのくすんだ色で、噛むと赤い錆の味がした。舌に広がるその味に、目をあげると、鏡の中では疲れた顔の僕の顔が親指を噛んでいた。いつの間にか、頭はちゃんと生えたらしい。

 間抜けた顔が可笑しくなって、僕は再び手を洗う。畦道のどこかに転がるこの顔を拾うために靴を履いた。暗いうちに見つけないと。他の人に見られる前に。

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手が落ちぬ おくとりょう @n8osoeuta

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