とうぐう殿でんに入ったつばめは落ち着く暇なく、また着替えて今度は御所のずいしょう殿でんへ向かった。

 後宮の五殿七舎の中で、瑞祥殿は皇后が住まう場所と定められている。

 現在の主人である皇后はほく家の出身で、現関白の同母妹だ。

 室内には見事な細工の香炉が置かれており、高価な香の匂いが漂っている。


「お久しゅうございます、皇后様」


 手土産が入ったひつを皇后付きの女官に渡し、床板の上に座った燕は深々と頭を下げた。


「入内おめでとう、春宮妃。それと、そのような堅苦しい挨拶は不要ですよ」


 美しく着飾り一段高い場所に座った皇后が微笑む。

 春宮妃として入内した姪である燕姫を皇后は歓迎した。

 そのなごやかな雰囲気に、女官たちは胸を撫で下ろす。

 

「春宮殿での暮らしは慣れるまではなにかと不便があるでしょうから、気になることがあればいつでもわらわに相談してちょうだいな」

「はい、ありがとうございます。至らぬ点が多々あるかと思いますが、御指導のほどよろしくお願いいたします」


 北羽家の前関白の姫として生まれ、十五で帝の一の妃として入内した皇后は、当時の美貌を保っているとはいえ三十路を迎えた現在は格別寵愛されているとは言えない。

 その皇后にとって、九の宮の春宮就任と燕の入内は重要な意味があった。


「皆、下がって良いですよ」


 燕の堅苦しい挨拶が終わると、皇后は周囲の女官たちに合図を送る。

 すると、皇后が一番信頼している女官以外はすみやかに部屋から退出した。

 女官たちが下がると、皇后は黙ったまま燕に近寄るよう手招きする。


「御所の中はなにかと人の目や耳を気にしなければいけないの」


 燕と膝を突き合わせるようにしながら、皇后はささやく。


「息苦しいこともあるでしょうけれど、我慢してちょうだいね。兄様はあなたに鳥籠の中の鳥のような暮らしをさせたくはなかったようだけれど、こればかりは北羽の将来がかかっていることだからと父と妾が兄様を説き伏せたの」


 申し訳なさそうに表情を崩して皇后が謝る。


「当面、春宮妃としてあなたがすべきことは、お妃教育に励むことと宮中での人脈作りよ。九の宮にはおとなしくしていてもらう必要があるので、すまないけれどあなたに頑張ってもらうしかないの」

「はい、承知しています」


 皇后の顔をしっかりと見つめながら燕は頷く。

 今回、燕が春宮妃になったのは九の宮の希望だけではない。

 皇后の意向もある。

 帝は自分の息子に後を継がせたいと考えているが、皇后以外の妃が親王を産む可能性がある。

 四羽家と呼ばれる北羽、なんとう西せいそれぞれの家から帝の妃がひとりずつ入内している。

 現在は誰も親王を産んでいないので、北羽家出身の皇后の地位は安泰だが、今後誰が親王を産むかで後宮の勢力図は変わってくる。

 当然、次の帝を産んだ妃の実家は北羽家と同等、もしくはそれをしのぐ権力を持つことが考えられる。

 北羽家としては、北羽の血を引いていない親王は都合が悪い。

 もし皇后以外の妃が親王を産んだ場合、北羽家の燕を妃にしている九の宮をそのまま帝として即位させることを目論んでいた。九の宮が帝になれば、燕が皇后だ。

 北羽家の宮中での地位は安泰となる。

 もちろん、帝は北羽家のたくらみには気づいている。自分の息子に帝位を継がせるためには、皇后との間に親王をもうけることが一番得策だ。とはいえ、こればかりは授かり物である。


「帝は九の宮に、一時凌ぎの春宮なのだからおとなしくその席に座っているだけで良いとか、しばらくは春宮妃との間に子供を作るなとか、いろいろと無茶を言っているようなの。九の宮は人柄が良いし有能な方だから、あの方が春宮として今後活躍したとなると、もし帝の御子で男児が生まれても九の宮にそのまま帝位を継がせれば良いのではという声が出かねないでしょう。帝はそれを心配されているの。そういう狭量なところが、大臣たちの評判を落としているのだけど、残念ながらご自身はおわかりではないのよ」


 政略結婚で妃となった皇后は、帝に対して辛辣だ。


「でも、あなたがすることに関しては帝が口出しできることはほぼないわ」

「はい」


 燕は大きく頷いた。

 春宮妃に指導できるのはあくまでも皇后だ。

 帝ではない。

 そして、春宮妃である燕には北羽家という絶大な後見がある。


「世継ぎに関しては他の三家も絡んでくることだし、あなたの身の安全を確保するためにも、帝がおっしゃるとおりあなたたちはしばらくは子供をもうけない方が良いとは思うわ。あなたたちの間に親王が生まれると、他の三家がどのような動きをするか予測ができないの。このことは、九の宮も了承してくれているわ」


 皇后が困り顔をしつつ言いづらい話を伝える。

 帝の妃のひとりが男児を産めば、春宮位はその親王に譲られる。

 ただ、今後生まれる親王がひとりだとは限らないため、場合によっては帝の一の宮が春宮にならないこともあり得る。もし二の宮が生まれたとして、どの妃の腹から生まれたかによっては二の宮、三の宮が春宮位に就くこともあるのだ。

 そこへ春宮妃である燕が男児を産めば、さらに状況はややこしくなる。

 皇后が親王を産まなければ、北羽は九の宮がそのまま帝位を継ぐことを推すからだ。


「宮中は魑魅魍魎であふれかえっているわ。ここに身を置いている限り、呪い呪われることなんて日常茶飯事なの。悲しいかな、妾はそんな生活にすっかり慣れてしまったわ。父や兄様を恨むことはないけれど、もうすこし心安らかに過ごしたかったって思うことはあるくらいよ。兄様は妾のような暮らしをあなたにさせたくないから、あなたを春宮妃にすることに反対していたの。九の宮が臣籍降下すれば、あなたたちに地位と財産を与えて地方でのんびりと過ごせるようにしていたでしょうね」

「宮様は……多分、それをお望みでした」

「でしょうね。帝はあなたを九の宮ではなく他の三家の跡取り息子に嫁がせることを、兄様に勧めていたわ。帝は北羽に権力が集中することを恐れていたし、北羽は他の三家と縁戚になることをここ何代かは絶っていたから」


 北羽家は皇族と姻戚関係を持つことには熱心だったが、他の三家は見下していた。三家の血を北羽に混ぜると、いざおおとりが羽ばたく際に翼が折れてしまうと言う者さえいた。


「先帝の親王である九の宮を兄様が預かったのは、最初からあなたの夫にするためよ。九の宮の母君は下級貴族だったけれど、三家とは関わりがないから都合が良かったの」

「はい。それは、存じています」


 おおとりのくにの貴族の中でも、四家は選民意識が高い。

 一方で、四家はそれぞれが他の三家とは違うと考えているため、相容れることがない。

 北羽家は他の三家以外の貴族であれば、下級であってもそれほど意識はしない。等級など、北羽の権力でいくらでも上げられるからだ。


「九の宮が自ら帝や兄様の傀儡になることを選んでくれて助かったわ。九の宮はとてもおとなしそうな顔をしているのに、帝から春宮にならないとあなたと結婚できないと脅された途端に春宮になるって言ったのよ。ただ、そのときの九の宮の顔がそれはそれは怖ろしかったって後になって帝が震えていたわ。九の宮って普段はしまながみたいな小鳥なのに、急にたかのようになるんですって。さすがは関白の子飼いだと帝は大層感心していたわ」

「そこまでではないと思いますが」

「九の宮が飼い慣らされた島柄長に擬態している鷹であることには、妾も同意するわ」


 皇后は目を鋭く細めて断言した。


「確か、北羽の屋敷内において九の宮は小鳥遊たかなしの君の異名で呼ばれていたはずだけれど」

「えぇ、そうです」


 最初に九の宮を小鳥遊の君と呼んだのは、燕の母だ。


「実は鷹の君だったのね」


 皇后は自分で納得したような表情を浮かべた。


「ま、能ある鷹は爪を隠すと言うくらいだから、これまでの九の宮の態度を思い巡らすと鷹であることは間違いなさそうよ」

「そう、でしょうか」


 あの穏やかな九の宮に鷹の印象はない燕は、首を傾げた。


「あなたも、九の宮をいつまでも島柄長だと思っていては駄目よ」

「は、い」


 さすがに九の宮を島柄長だと思ったことはなかったが、燕はおとなしく頷いた。


「帝は北羽に権力が偏ることを厭われてはいるけれど」


 皇后は話を元に戻した。


「北羽の力なしには鳳の末孫とはいえ、帝の地位だって盤石ではないわ」


 手にしていた扇を広げた皇后は、扇で口元を隠すと雀に顔を寄せて囁いた。


「帝の寵愛はすでに妾からは離れているわ。だから、妾が親王を産むことはほぼないと言っていいでしょう。帝は、口では妃たちを平等に慈しんでいるとおっしゃっているけれど、もちろんそんなわけはないわ。ただ、他の妃たちだって我こそは次の国母って気炎を吐いているわけではないの」

「そうなのですか?」

「親王を産めば、勢力争いの渦中に放り込まれるわ。命を狙われることにだってなりかねない。親王だけではなく、母である妃と内親王たちだって巻き込まれるのよ。もちろん、妃たちは自分の敵が北羽だけではないことを知っているわ。北羽に取り入ろうとする貴族たちが手段を選ばず凶行に及ぶことだってあるのよ。もとより、北羽が気に入らない貴族たちだって妾やあなたを狙うことがあるわ。気をつけなさい」


 真剣な表情で皇后が忠告する。

 燕は黙ったまま頷いた。


「九の宮とは仲良くなさいな。あなたにつれなくされると、あの九の宮のことだから帝や妾があなたに余計なことを吹き込んだに違いないって考えるでしょうし、やはり春宮は辞めると言って発作的にあなたを連れて都落ちされると妾も困るわ」

「さすがにそれはないかと」

「どうかしら。妾は、あの九の宮ならそれくらいはするのではないかと思っているわ」


 どうやら皇后の九の宮に対する印象は、燕のものとは異なるらしい。

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