鳳国春宮妃の華麗な宮中生活

紫藤市

――大陸より東南の大海の中に鳥が翼を東西に広げた形の島有り。霊鳥の末孫が王として国を統べ、おおとりと称する也――


 おう二一六年初春の吉日、おおとりのくにの都・とうでは新とうぐう立太子の儀が行われた。

 春宮位に就いたのは帝の末の弟である九の宮、御年二十歳だ。

 春宮妃に選ばれたのは家の中でもっとも勢いがあるほく家当主の一の姫、御年十六歳。皇后の姪にあたり、母親が先帝の異母妹という血筋だ。

 その妃の入内の儀は、立太子の儀よりも華やかであったと宮中の話題をさらった。


     *


「春宮妃のお部屋って、案外狭いものね」


 春宮殿に入った春宮妃のつばめは部屋を見回しておっとりと呟いた。

 女官が春宮妃の部屋だと言って彼女を案内したのは、今朝まで暮らしていた生家の自室より一回りほど狭い。

 彼女が生まれ育った摂関家である北羽の屋敷は、御所に次ぐ大豪邸だ。当然ながら春宮殿よりも広い。


「燕姫様。このお部屋が春宮殿の中では一番広いそうですよ」


 乳姉妹で侍女のすずめが長櫃の蓋を開けながら告げた。

 櫃の中にはいろとりどりの絹の衣がぎっしりと収められている。どれもなめらかな手触りと光沢があり、逸品ぞろいだ。

 国一番の后がねと言われた関白の一の姫は、父親の地位と財力を後ろ盾に贅を尽くした衣や調度品の数々を携えて入内した。

 それらのすべてを春宮殿へ運び込んだため、廊下まで物であふれかえっている。


「お道具を片付ければ、少しは広くなりますよ。春宮殿内に姫様が自由に使えるお部屋はたくさんありますから」

「そうなの?」

「はい。春宮妃は姫様おひとりだけですから」

「ひとり? 妃って何人もいるものではないの?」

「いまのところおひとりだそうですよ」


 雀は主人のつややかな黒髪に挿した簪を外し、結い上げた髪をほどく。、衣、うわうちと順番に手際よく脱がしていくと、そばで控えていた女官がうちきを運んでくる。

 人に世話をされることに慣れている燕は、着せ替え人形のようにおとなしくされるがままになっていた。


「いまのところもなにも、私の妃はこの先もずっとあなたただひとりだよ」


 しとみ越しに男の声が響く。

 それを合図に、雀は手早く主人の身支度を調え、女官たちは板間の上に散らばっていた領巾や衣をかき集めて隣の部屋へと運んでいく。

 淡い紅色の袿を羽織った燕は、女官から渡された扇を手に円座が置かれた場所へ移動する。

 同時に女官が御簾を巻き上げると、広廂で待っていた春宮がゆっくりとした足取りで部屋の中へ入ってきた。

 燕の夫であり春宮位に就いたばかりの九の宮だ。

 二藍の直衣のうしを纏っている。


「まぁ、そうですの?」


 手にした扇を広げるべきかどうしようかと悩む素振りを見せながら、燕は首を傾げた。


「私が妻として迎えたいのはあなただけだ。また、帝からは、関白の一の姫をただひとりの妃として大切にするようにとお言葉をいただいている。皇后様からは、関白の掌中の珠を粗末に扱うことがあれば死よりも怖ろしい目に遭うと思えと警告をされた」

「叔母様の言動が物騒なのはいつものことですから、お気になさらないでください」


 燕はにこやかに微笑んで告げる。

 皇后の言葉を聞き流せと言えるのは、春宮殿の中では彼女くらいのものだ。


「関白は、帝があなたを春宮妃とする宣旨を下されてから私と口を利いてくれなくなった」

「父はわたくしの入内が決まってからというもの、家では朝から晩までめそめそ泣いてばかりいるものですから、毎日のように母に鬱陶しいと叱られていましたわ。わたくしはもう十六なのですからいつ嫁いでもおかしくない歳のはずなのに、父はわたくしが屋敷から目と鼻の先にある春宮殿に引っ越すだけでも寂しいのだそうです」


 北羽家の屋敷は春宮殿と大通りを挟んだ向かい側にある。


「関白殿は、あなたを格別溺愛しているからね。それに彼は、私があなたを妻に迎えるまでにあと二年はかかるだろうと考えていたようだよ。私が春宮位に就いたことで帝と皇后様のご助力を仰げて、なんとか今日の結婚にこぎつけられたわけだけれども、ね」


 九の宮は帝の異母弟だ。

 母親は先帝の更衣だったが、先帝の退位後、彼女は実家に戻った。

 一方、親王である九の宮は北羽家に預けられて育った。


「宮様は、春宮位に就いたことを後悔していませんか?」


 かすかな衣擦れの音をさせながら自分の目の前に座った九の宮を、燕は上目遣いに見つめた。

 北羽の屋敷で一緒に育った彼が御所に居を移したのはほんのひと月前のことだが、一年近く会っていなかったのではないかと錯覚するほど、雰囲気が変わった。

 穏やかな性格の彼は、書を好み、人と競うことを嫌っていた。

 また、帝や他の親王たちとはほとんど交流を持たずに暮らしていた。

 いずれは臣籍降下をして、母方の祖父のように国司として地方を巡る将来を望んでいたことを燕は知っている。

 何度も九の宮から「私が国司になったら一緒に任地に来て欲しい」と言われていた。

 そんな彼が、常に周囲の視線を気にし、口にする言葉選びに慎重になっている。


「後悔はしていないよ」


 燕の長い黒髪を指ですくった九の宮は、そこに口づける。

 その行為で顔を真っ赤に火照らせた燕を愛おしげに見つめながら、繰り返す。


「本当に後悔はしていない。ただ……あなたに前もって相談せずに春宮になることを決めてしまったことは、少々申し訳なく思っている」


 責められることを覚悟したような表情を浮かべて九の宮は告げた。


 現在、帝には後継者となる親王がいない。

 皇后をはじめとする四人の妃たちの間に生まれた内親王七人は帝位を継げないわけではないが、親王がひとりもいない場合に限られている。

 この際の親王は、帝の兄弟も含まれる。

 帝は、自分と妃の間に親王が生まれればすぐに春宮位を与えるつもりだったが、最近になって、万が一の際に後継者が決まっていないと帝位争いが起きかねない、と大臣のひとりが帝に進言したため、意図的に空けてあった春宮位を弟宮の誰かに就かせないわけにはいかなくなったのだ。

 これまで帝はのらりくらりと大臣たちの言上をかわしてきたが、「先帝も春宮が立つことをお望みです」と大納言が囁いたため、さすがに無視できなくなったらしい。

 そのため、帝は弟宮の中で一番帝位に興味を持っていない九の宮を春宮に選んだ。

 あくまでも帝に親王が生まれるまでの繋ぎとしての春宮だ。

 ただ、帝位に就く可能性がまったくないわけでもない。

 そのため、実家の後見はほとんどないが摂関家である北羽と繋がりがある九の宮が、帝としては一番都合が良かったのだ。


「わたくしのことなど、お気になさる必要はありませんわ」


 淑やかに微笑んで燕は答える。


「明日から、わたくしは毎日みっちりお妃教育を受けなければならないそうですが、宮様がお気になさる必要はありませんわ。えぇ、本当に、まったく、一切お気になさらないでください」

「…………が、頑張って」


 北羽家の姫として最高の教養を身につけている燕だが、春宮妃としての教育は受けていない。

 なにしろ、北羽家では燕の婿候補筆頭である九の宮が春宮位に就くなど微塵も想定していなかったのだ。


「はい。北羽の姫の名にかけてお妃教育に励みます」


 閉じた扇を握りしめ、燕は気合いを入れて答えた。

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