おかえり、お姉様(2)

 姉の言葉に、私は反射的にヴァニタス卿を見た。


 ――……言ったんだ。


 良いとか悪いとかの話ではない。ただ、単純に驚いていた。

 姉の性格をよく知る卿が、姉に一年前のことを伝えるとは思わなかったのだ。


 姉は卑怯なことが嫌いで、卑怯なことに対して逃げるような真似がさらに嫌いだ。

 姉にとって、正義とは常に報われるもの。悪は必ず正されるもの。卑怯な手段には正々堂々と立ち向かうべきであり、泣いて同情を請うなど許されない。


 だからこそ、一年前の私たちは姉に計画を伝えなかった。

 下手なことを言って計画を台無しにされては、姉を逃がすという最低限の目的さえも果たせなくなってしまう。

 それくらいなら、恨まれても憎まれても構わない。

 こちらの真意など姉は知らなくていい。私たちが守るべきは、姉の無実と誇りの方だ。


 そうして、最後までなにも知らないまま姉は国を出て行き――。


「…………」


 それから一年がすぎた。

 頃合いだろう――と言うように、卿は私に目を細める。


 あの断罪劇のあとで身なりを整えたのだろう。鎧を脱ぎ、無精ひげを剃り落した今の卿には、かつての王太子の面影が戻っていた。

 だけど同時に、その姿には一年間の重みも滲んでいる。

 過酷な国境での日々に、消せない後悔と苦悩。以前よりも大人びて、以前よりも優しい顔をした卿に、私はなにも言えなくなる。


 一年。たしかに頃合いではあるのだろう。

 姉の追放はそもそも卿の言い出したこと。

 卿が決めたのであれば、私が口を挟むことではない。


 ただ――。


「おかしいと思っていたわ。私に隠れてこそこそと動き回って、勝手なことをして。どうして黙ってそんなことをしたの」


 それが良い選択であるとは、私には思えなかった。


「……お姉様」


 苛立ったような硬い姉の声に、私はため息を吐きながら振り返る。

 卿らしくもない。彼なら、姉がどんな反応をするかくらいわからないはずがないのに。


「どうしてもなにも、話したらお姉様は反対されるでしょう」

「当然よ。だって卑怯な手を使ったのは相手の方じゃない。なのに、どうして私が逃げるような真似をしないといけないの!」


 視線の先で、姉は肩を怒らせていた。

 両手はシーツを握りしめ、唇は悔しそうに結ばれる。

 琥珀の瞳は、どこを見ているのだろう。私でもジュリアンでも、卿でもない、どこか遠くを睨んでいた。


「今でも思っているわ。私は正しかった。この国をよくするために必要なことをしてきた。そのことに、なに一つ恥じることなんかない。反省するようなことなんてない、って!」

「お姉様、まだそんなことを――」


 言うつもりか――と言いかけて、私は口を閉ざした。

 虚空を見据える姉の横顔は険しい。

 この期に及んで、彼女はうつむきもしない。強情そうに顔を上げ、シーツを握りしめている。


 きつく、きつく。あふれ出しそうな感情を抑えるかのように。


「私は間違っていなかった! 間違っていなかった――けど!」


 無言で瞬く私の前で、姉は首を横に振った。

 荒々しいその仕草は、まるで苛立っているかのようだ。声は低く震えていて、吐き出す息もまた荒い。


 怒りにも似た引きつった表情は、今は少し見えづらい。

 ほんの――ほんのわずかだけ俯いた横顔に、彼女の赤茶けた髪が垂れ落ちて、影を落としているせいだ。


「…………だけど」


 影の下で、姉はぽつりと呟いた。

 人払いをした朝の医務室。四人だけの静かな部屋。

 姉の声は、誰に向けられるわけでもなく響き――消えていく。


「だけど、折れるべきだったわ。…………私は、折れないといけなかったのよ」


 姉の表情は見えない。

 見えなかったことにする。


 垂れた髪の隙間。後悔が溢れて、頬を伝い落ちる姿なんて――。


 固くこぶしを握り締めて耐えるこの意地っ張りは、絶対に知られたくないだろうから。

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