隣のメリダさんなら、先週引っ越しましたよ。それに、婚約なら、もう破棄しています。

細波ゆらり

隣のメリダさんなら、先週引っ越しましたよ。それに、婚約なら、もう破棄しています。



 朝早くから、廊下が騒がしい。


「おい! メリダ!いるのはわかっているんだ! 早く出てこい!」

 男の声と扉をドンドンと叩く音が聞こえる。



 メリダは、隣室のビエンヌ男爵家のご令嬢の名前である。

 王立学院の同級生で、寮の部屋が隣になった縁で親しくなった。


 女子寮の廊下に男性がいるという異常事態に他の寮生がどう反応しているのかわからないが、今は休日の朝五時である。迷惑極まりない時間帯だ。

 


「メリダ!さっさと出てきて、この婚約解消の書類に今すぐ署名しろ!」

 どうやら、メリダに用件のある訪問者は、彼女の事情を知らないようだ。

 ヴァレリーはアイマスクを額までずらし、寝台から足を下ろすと、室内履きに足を入れガウンを羽織った。


 

 部屋の鍵を開け、薄く開けた扉の隙間から覗き見ると、金髪の青年がメリダの部屋の扉に拳を叩きつけている。

 他の幾つかの扉からも寮生が迷惑そうに顔を出している。



 ナイトキャップを被ったまま、寝巻にガウンを羽織っただけ、顔も洗っていないが、迷惑行為をやめさせ、今すぐに立ち去らせたい。

 一度、咳払いをして寝起きの声を改める。


 扉の隙間から男性に声を掛けた。


「… あの… 」

 激昂している男性は、扉を叩く手を止め、ヴァレリーの方を向いた。


「メリダさんなら、先週引っ越しましたよ。それに、婚約なら、もう破棄しています」


 ヴァレリーは、ゆっくり、はっきりと伝えた。


 口にしてみて思う。これは、探偵小説の中で主人公の探偵が容疑者の家を訪ねた時に隣人が言う台詞のようだ。

 こういった場面は、下町のアパートメントで、夜に働き、日中に寝ている女性が寝起きで隣の扉から口を挟むのが定石だ。こんなに非常識な時間にやって来られては、いくら貴族令嬢であっても、寝巻き姿で当然だ。


 寝ぼけた頭で、自分が名前のつけられない端役になった滑稽さに気づく。

 



「え? 婚約… 破棄? 先週?」

 旅装束の金髪の男性が目を丸くする。


 話には聞いているメリダの婚約者、オーリヤック侯爵家の嫡男ジャックだ。その家格差にも関わらず、家の事情で子どもの頃に婚約したものの、数回しか会ったことがないとメリダが言っていた。


 ジャックは留学先で真実の愛・・・・を見つけたと、隣国王女とのロマンスが噂され、それに激怒したメリダの父、ビエンヌ男爵が先週、侯爵家に婚約破棄を突きつけるという異例の対応を取ったと新聞で報じられている。

 この青年は、留学先から戻って来たのだと思われるが、その報道を知らないのだろう。


「もう、この寮にはいませんので、お立ち退きを。男子禁制の寮ですし、こんな早朝から騒音を出されますと、他の寮生に迷惑です」


 口をぱくぱくとさせるジャックの後ろで、侍従らしき黒髪の青年が申し訳なさそうに頭を下げる。


 ヴァレリーは言いたいことを言うと、扉を閉めた。



 廊下から人の気配がなくなると、ヴァレリーは寝台に潜り込んだ。もう一眠りできるかは怪しいが。









 この騒動で、女子寮の食堂は朝から噂話で持ちきりだった。


 メリダ本人が望んでもいない侯爵家との縁組を取りやめたがっていたことは、女子寮の皆が知っている。

 器量良しで、急成長中の資産家の実家を持つメリダは、ジリ貧の名門侯爵家に嫁ぐことが決まっている。その事実だけで、メリダの人となりを知らない貴族たちから、陰湿な嫌がらせを受けていた。

 一方で、当の婚約者であるジャックは国外で自由奔放に恋愛し、ゴシップとなるニュースを次々と国境を越えて撒き散らす。

 最大かつ最新のニュースが、隣国王女との真実の愛事件だった。


 精神的に参っていたメリダを同年代の学友たちが支えてきたのだが、先週の一報で事態は急転した。


 婚約の破棄と、侯爵家への経済的な援助の打ち切りをメリダの父が叩きつけたおかげだ。

 これでやっと醜聞とストレスから解放されるとメリダは喜び、ジャックとは別の国への留学を速やかに決めた。祝宴と送別を兼ねたささやかな会を女子寮で行い、見送ったのが先週の話だ。


 親友の旅立ちは寂しいが、寮を出る時の彼女の晴れやかな笑顔を見て、ヴァレリーがほっとしたのも事実だ。一年もすれば、ほとぼりは冷めるだろし、何ならメリダだって国外で真実の愛を見つけたらいい。


 メリダは女性の目から見ても魅力的な人物で、物腰柔らかく、ユーモアのセンスがあり、教養もある。婚約者がいても、学院の中では男子生徒からも人気があり、メリダを慕う学生は多かった。

 浅はかな婚約者さえいなければ、良い伴侶を見つけ、幸せな人生を送れるだろうに、とヴァレリーは常々思っていた。


 それに引き換え、ヴァレリー自身は学業の成績は良いが、勝ち気な性格で社交には向かない。容姿もメリダのように目を引くブロンドではなく、地味なブルネットで背も高い。体格だって、どちらかと言えば痩せすぎで、健康状態を心配されるほどだ。病気ではないが、胃が弱く、食が細い。


 名前のつかない端役らしい存在だ。

 日頃から抱えている劣等感を白日の元にさらすかのような今朝の出来事を思い出して、気分が沈む。






 一連の騒動に疲れたヴァレリーは、寝不足のままではあるが、ストレス発散のつもりで街に繰り出し、街のカフェで休日のランチを一人で楽しんでいた。



「あの、少しよろしいでしょうか?」

 ヴァレリーが本から目を上げると、早朝に廊下で見かけた黒髪の侍従がいた。



「… 」

 忘れたい出来事の登場人物だ。

 今さら、何の用かわからない。

 侯爵家にはもうメリダに関わって欲しくないため、ヴァレリーは返事をせず、本に目を戻した。



「ブロア子爵令嬢ヴァレリー様、お時間を頂けますか? 私は、ディエップ伯爵家のサイモンと申します」


 男は引き下がらない。

 どこぞの侍従なら、同じ子爵か男爵家の令息かと思ったが、そうではなかった。ヴァレリーの名を知っていることも気味が悪いが、人目のある場所で格上の相手にすげない態度を取る訳にもいかず、黙ったまま、空いた椅子を勧める。



 サイモンは給仕にいくつか注文をすると、話し始めた。


「今朝は、友人が寮の皆様に大変ご迷惑をお掛けしました。お詫びに皆様に菓子折りを用意しようと思ったのですが… 」


 ヴァレリーが聞いているのを確認しながら、サイモンが話を続ける。ディエップ伯爵家はオーリヤック侯爵家の傍系だ。侍従のような立場であるのだろう。つまり、オーリヤックの犬である。


「国を離れて久しいもので、どの店が流行りなのかもわからず… 寮生を代表されているブロア子爵令嬢にご指南頂けないものかと… 」


「… 馬鹿にしていらっしゃる? そのような御用向きなら、街の誰に聞いても構わないでしょう?」

 彼を一瞥すると、ヴァレリーは再び本に目を戻した。



「いえ… ジャック殿の振る舞いにお怒りなのはごもっともです。私個人もジャック殿に加担するつもりは毛頭ないのですが、オーリヤック侯爵家を補佐する当家としましては、可及的速やかに国内の騒ぎを収める必要がありまして… 」


「それが、女子寮への菓子折りですか? 他にもすべき事がおありでは?」

 今朝の廊下は暗がりであったし、この青年に注意を向けていなかったから仕方がないのだが、サイモンは結構な美男子だ。人目がある、と感じたのは、彼の容姿のせいだ。彼と彼が話し掛けている自分が注目を浴びていることに一旦気づいてしまうと、余計に視線を合わせづらい。



「ええ、まあ… 他の事は、別の者が当たっています」

 彼は優雅な仕草で足を組んだ。長居するつもりなのだろうか。


「私は、ジャック殿と同じカレッジに留学していまして、急に帰国すると彼が言い出したもので、同行して帰国したのです。しかし、普段から親交があったわけではなかったもので… 国内の事情にも疎く… 」

 何やら、言い訳が始まった。


「随分雑な仕事ね?」

 行儀は悪いが、あえて話を遮った。話が回りくどい。


「仰る通りです… 面目ありません。同行も断れる状況ではあったのですが… 個人的な理由もあって帰国しました。つい先日、婚約の内諾があったと実家から連絡がありまして… 正式な顔合わせに先んじて、お相手のご令嬢にお会いできれば… と。家の仕事は、むしろ、ついで・・・仕事です」


 よくわからなくなってきた。この男はオーリヤック侯爵家の何なのだろう。

 断ることもできた・・・・・・・・と言うからには、主従関係というほどではないのだろう。

 ついで仕事・・・・・なら、やってもやらなくてもいい仕事ということか。

 要するに、女の顔を見に帰ってきたということだ。


「それで… その方が、女子寮にいらっしゃるとでも?」

 呆れて、思わずサイモンの顔を見ると、驚いた顔をしている。


「はい。しかし、先方はまだご両親から聞かれていないようでして… 」


「私に紹介しろと仰るわけですか?」

 菓子折りだの何だのと近づいてきて、そんな野暮用に付き合わされるのかと思うと、苛立ちが込み上げる。


「ええ… まあ… 」


 歯切れの悪い答えだ。さっさと人気のパティスリーを教えて立ち去って貰うほうが良さそうだ。


 エルダの件と、卒業試験が重なってこの一週間は慌ただしく、寝不足でもある。今日は昼まで寝てやろうと思っていたのに、五時に叩き起こされて、不機嫌なのだ。



 給仕が、生クリームとフルーツの乗ったデニッシュとカフェのお代わりを二つずつ持って来た。


「もしよろしければ… 私の朝食にお付き合い下さいませんか? 長旅で空腹で… 」


「え? 私はもう… 」

 サンドイッチを食べて満腹だと答えようと思ったが、フルーツと生クリームは大好物だ。食べきれないとしても、目にした以上、一口は食べたい。


「… いただきます… 」

 朝の五時からあの騒動だったのだから、強行軍だったのだろう。時間は正午を回っている。いつから食べていないのか知らないが、サイモンが少し不憫になる。


「では、いただきましょう。この店のデニッシュは評判なのですよね?」

 サイモンが笑顔で答える。


「… この店は、三ヶ月前にオープンしたばかりですよ?ご存知なのですか?」

 先ほど、流行りに疎いと言ったばかりではないか。


「… ええ、それは、滞在先のホテルの従業員から… 」

 答えていて、分が悪いと感じたのかサイモンは苦笑いする。


「それで? お相手はどちらのご令嬢ですか? 私が存じ上げてる方のことなら、お話できますわ」

 デニッシュに添えられたブラックベリーにフォークを掛ける。


「あ、待って!」

 サイモンがヴァレリーのフォークを持つ手に手を伸ばす。


「え?」

 ブラックベリーにフォークを刺した瞬間、ベリーの飛沫が飛び散った。


「… あ… 」

 ヴァレリーの白いワンピースに紫の斑点ができた。


「… やっちゃった…」

 子どもの頃から何度もやっている失敗だ。ブラックベリーにフォークを刺しては駄目だと姉に何度も叱られたのを思い出す。


「どうぞ。僕もよくやりますよ」

 サイモンが差し出すナプキンを受け取る。ついた飛沫はどうにもならないが、ナプキンで隠しておけということだろう。


「ほらね?」

 サイモンはわざとブラックベリーにフォークを突き立てると、同じように赤紫の染みを白いシャツに作る。


「まあ! あなたまでやらなくても!」

 今度はヴァレリーがサイモンにナプキンを手渡す。

 サイモンは受け取る時に、ヴァレリーの指に触れる。


 びっくりして、ヴァレリーは慌てて手を引っ込めた。



「失礼。しかし、これでお揃いになりましたね」

 受け取ったナプキンで染みを隠すどころか、胸を張って見せつけてくる。


「まあ… おかしな人。一緒に恥をかいて下さるわけですか… 」


 この奇妙な男、伯爵家の息子が喜び勇んで帰ってくる令嬢なのだから、婚約者は美人、または格上の令嬢、資産家の娘か。

 友人らの顔を思い浮かべてみるが、大体婚約者がいる。


「女子寮は三つあるから、あなたの探し人を私は知らないかもしれませんね」


「まあ、それはあまり気にしていませんよ。それはそうと、デニッシュを味わったら、近くのメゾンで私たちの服を買いませんか?これでは、街歩きできませんよ?」


「え?」

「三年ぶりの王都なんです。お付き合い頂ければありがたい」


「朝の五時に叩き起こしておいてですか?」

 思わず反論した。彼の意図がどんどんわからなくなる。


「そうですね… では、買い物だけでも。ブラックベリーは私の責任ですから」

 いいように言いくるめられたようだが、ヴァレリーも今日は買い物をするつもりで来ている。それに、夏の間、家族は領地に帰ってしまっていてタウンハウスに馬車の用意がない。辻馬車で寮に帰るのに、このワンピースでは帰れない。


「三十分後に、メゾン・クレモンティーヌを予約しています。そちらでよろしいですか?」

 ここ数年で人気の出てきたメゾンだ。予約は二ヶ月前に入れてある。卒業試験が終わったら、ドレスを注文しようと思っていたのだ。卒業後に王宮の式典に出る予定がある。友人たちは、もっと前に注文していたが、試験前に準備すると気が散るため、特急料金を払ってでも試験後に注文したかったのだ。



「ええ、勿論。では、そろそろ行きましょうか」

 ヴァレリーが半分ほどデニッシュを残してカトラリーを置いたことに気づいたようだ。


 サイモンに手を引かれて立ち上がると、彼の水色のストールでワンピースの染みが隠された。ストールからほのかに香るゼラニウムの香りは心地よい。


「これで、隠れるかな… 」

 ヴァレリーの首に掛けられたストールを直しながらサイモンが呟いた。






 予約していたとは言え、メゾンの中には何組も他の客がいた。

 奥の部屋に通され、事前に伝えていた好みのデザインのドレスのサンプルとデッサンが並べられるが、前の客がまだ終わらないようで、部屋に二人で取り残された。


 今日の着替えを先に選んで、サイモンと別れる算段だったが、店内が混み合っていて、それはできない。



「そう言えば、ナイトキャップとアイマスクは、この店のものでしたね」


「!」

 今朝、寝起きで身支度もせずに顔を見せたことを思い出し、恥ずかしさで言葉を失う。


「今後は、男性の前に寝巻きで現れないように気をつけて」

「… なぜ、この店の物と?」


「僕も、服は大好きですからね。有名メゾンのデザインは国を離れていても知ってますよ。ナイトキャップは去年のコレクションのデザインでしょう?」


「… その通りです」

「今シーズンのデザインは、ミモザとラベンダー」

 部屋の隅に飾られたナイトウェアをサイモンが指差す。


「僕は、ラベンダーが好みだ。ミモザの方は寝る時には、気分が落ち着かないかな。きみは?」


「同感」

 よく見ると、彼の身につけているものは、ヴァレリーの好みに合っている。男性と服の好みが似ているというのは変な感覚だ。



「あの… 私には構わず… 吊りのシャツでもご覧になって、先に帰って頂けませんか?」

 まるで、親族か恋人かのように隣に座り、デザインの検討に加わろうとするサイモンに小声で伝える。


「私は時間がかかりますから… お待ち頂く必要はありませんよ」

「では、少し失礼して… 」

 サイモンが大人しく退出してくれてほっとする。




 サイモンが出て行った後、メゾンのマダムが戻って来て、デザインの説明が始まった。

 ヴァレリーの体型では貧弱なデコルテを見せるわけにいかないため、首の詰まったデザインの中から、幾つかに候補を絞る。

 生地見本が持ち込まれ、パーツ毎に生地を選んでゆく。



「失礼… 」

 新しいシャツに替えたサイモンが何着かのワンピースを持って現れた。


「今日の着替えは、僕に選ばせて貰っても?」

「いえ、自分で気に入ったものを選びたいです… 」


 生地見本から顔を上げ、サイモンが持ってきた服に目をやると悪くない。やはり、服の好みが似ている。


「あ… ありがとう。後で見ます。今立て込んでいるので… 」

 生地を選んでいる、と主張するように見本を見せる。


「では… 」

 またしても、隣にやって来る。一緒に選ぼうという意味に捉えられたのか。


「生地選びまでお付き合い下さるとは、素敵な婚約者様ですね」

 生地の説明をしていたマダムが口を挟む。


「いえ!違います!」

「はい。初めてのエスコートなので」


 サイモンと同時に答えた。


「え? 今何と?」

「私は、あなたをエスコートします、と」

 サイモンはニヤりとする。


「… あなたの婚約者が、私だと言うのですか!?」

 ヴァレリーの発言に驚いたマダムはばつの悪そうな顔でそそくさと席を外す。


 秋の叙勲が行われる式典は、毎年、十八歳になる新成人のお披露目を兼ねている。婚約者がいれば、当然、婚約者のエスコートで参加する。


「そうです」

 涼しい顔でサイモンが答える。


「もしかして… 先ほどの話、あなたの婚約を内諾した家とは… 私の家のことですか?」

 眉根を顰めて尋ねると、サイモンが微笑んだ。


「親からの手紙にもすぐに手をつけないほど、勉強に熱心なご令嬢だと聞いていますが?」


 勉強机の上に山積みにしている封筒の束が頭を過ぎる。それに、父が卒業前に結婚相手を決める、と息巻いていたのを思い出す。


「お間違いでは?」

「ブロア子爵令嬢ヴァレリー・ルイーズ・バルテール、とても優秀で、美しく、気の強いご令嬢で、私にぴったりだと、両親から聞いて、とても楽しみにしてきました」

 うっかり、視線をサイモンに合わせると、優しくヴァレリーを見つめている。


 褒められているのか、貶されているのかわからない。頬が火照るのを感じて、慌てて視線を逸らす。





 その後、マダムが戻って来て生地選びが再開されたが、どうやって選んだのか記憶が定かでない。

 サイモンの瞳の色が差し色に選ばれ、完全にサイモンのペースだった。


 着替えのワンピースも同じく瞳の色の水色になってしまった。借りていたストールを返すと、今度は白いストールが巻かれた。





 結局、着替えから式典の正装に至るまで、サイモンが小切手を切り、予定よりもかなり遅くなってからメゾンを出た。


 近くの辻馬車の乗り場まで歩く。


「ごめんなさい。随分と時間が掛かりました」

 ヴァレリーが謝るところなのかはわからないが、いつの間にか形勢は逆転してしまい、昼のような悪態をつくどころではなくなった。


「いえ、楽しかったです。僕の好みを押し付けたのでなければ良いのですが… 」


 サイモンは微笑む。

 しかし、形容し難い、漠然とした疑問が湧いてくる。


 この男性が、婚約者だと言われても、やはりまだピンと来ない。

 今朝、いきなり寮に現れ、カフェにも現れ、メゾンまでついて来て、婚約者だと言ってきた。本当に父が選ぶと言っていた婚約者かどうかなどわからないし、彼が本物のディエップ伯爵家のサイモンかどうかも証明してくれる人はいない。



「あの。これは、婚約詐欺ではないと証明できますか?」


「詐欺…? 騙して、僕は何を得るのです?」

「えっと… 」

 考えがまとまる前に喋り始めてしまった。


「例えば… 私をその気にさせて、持参金を掠め取ろうとか?」

 言ってみたものの、持参金を支払う段階まで、騙し続けるのは不可能だろう。違っていたら、失礼極まりない発言だった。


「なるほど… 確かに、僕から一方的にきみの婚約者だと言い張っているようなものだし… 」


「… 」

 とは言え、今日の支払いは全てサイモンがしている。詐欺にしては、太っ腹だ。このまま、詐欺説を押し通すか、取り下げるか悩む。

 証明して、と言ったヴァレリーの失礼な話を真に受けて真面目に答えようと、サイモンは手を顎に当てて考えている。


 美男子で、家格も許容範囲で、気が利いて… こんなうまい話はあるのだろうか。



「やっぱり… いきなり現れて、ちょっと出来過ぎよ」

「何故、そう思うの?」

 ヴァレリーが口調を変えたのに合わせて、サイモンもくだけた言い方に変わる。


「… 服の好みが合ってるとか、私と好きな香水のタイプが似てるとか、フルーツと生クリームが好きなのを知ってるみたいとか… 私にわざとブラックベリーを食べさせてメゾンについて来たんじゃないかとか… もっと言うなら、朝の五時にメリダの部屋の扉を叩くなんて、私の寝起きを見るために来たんじゃないかとか!それに、女性の扱いに慣れ過ぎていて、騙されてるみたい!」


 サイモンは腹を抱えて笑う。

「… ほとんど偶然だけれどね。好みが似ているのは悪くないんじゃない?」

 今度は、サイモンが片眉を上げている。


「え?」

 攻めていたはずが、攻め返されている。


「男慣れしてないところが魅力の一つだけれど、婚約者ができたら、他の男になびいて貰っては困る」

 サイモンがヴァレリーの手を取ると、指先にそっと口づける。


「… ちょっと! カフェの時もわざと手に触れたでしょう?!」

 慌てて手を引っ込める。


「ああ… 名乗ったら、婚約者だと気づいて貰えると思ったら、きみは本当に手紙を読んでいないじゃないか。僕の婚約者が別の誰かだと勘違いしているから、少しぐらい揶揄ってみたくなったんだよ」


「あぁ… そういうこと… ごめんなさい… 」

 謝るところなのだろうか。正式な顔合わせの前に勝手にやってきておいて、ヴァレリーが知らなかったことを責められても困る。



「でもね、デニッシュと、ドレス程度で手玉に取られているなら、侯爵夫人になる前にしっかり教育を受けて貰わないと… 」



「侯爵夫人?!」

 彼は伯爵家の人間のはずだ。



「オーリヤック侯爵は、近々、僕の家が継承する。ジャックの相手は王位継承順位の高い王族だから。侯爵領は軍事の要所で、万が一にも他国の王家に握られてはまずい。それに、ジャックにはいろいろと難がある。国外に出てくれて助かった」


「はあ… 」

「本当の後始末はソレ。女子寮への菓子折りじゃなくてね」


「真実の愛事件そのものも、陰で糸を引いたのでは?」

 "国外に出てくれて助かった" ではなく、そう仕向けたように聞こえた。


「やっぱり賢いと察しがいいね。ところで、まだ気づいてない?」


「え?」

「賢くて、気の強い妻が欲しい理由」


「… もしかして、あなた、嫡男?」

「そう。ジャックの叔父が私の父。私の父が次期侯爵となる予定で、僕はその長男」


「… やっぱり、詐欺じゃない! 侯爵家なんて荷が重すぎるわっ!」

「そう言うだろうと思った」

 サイモンは笑っている。


「毎年、主席か次席。浮いた噂もなく、人任せにしない責任感があって、親しい人には情が厚い。うまい話にも、警戒心を持って対応できる。おっちょこちょいみたいだけれど、そこは可愛げがある」


「… ちょっと… お父様と話をしたい」

 父は一体、どこまで知っていてこの話を受けたのだろう。ディエップ伯爵家は、オーリヤック侯爵家を支える目立たない存在だと思っていたが、相当な策士のようだ。娘を嫁がせたいばかりに、安直に飛びついたのではあるまいか。


「明日には、王都に来られるそうだよ? その手紙も読んでないと思うけど」


「… はい」

「ヴァレリー、その気になってくれた?」


「えっ」

「僕は、その気だけど?」

 買って貰った白いストールに顔を埋め、優しげな策士の顔を見上げると、悪い話ではないように思えてくる。



「今はまだ、婚約者(仮)よ… 」

 寝不足で判断できないなら、明日考えればよい…か。

 大きくため息をつくと、サイモンの指がヴァレリーの指に絡んできて、もう一度指先に口づけが落とされた。


「仮だと言ってるのに!」

 いくら抗議しても、サイモンはヴァレリーの手を離してはくれなかった。





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隣のメリダさんなら、先週引っ越しましたよ。それに、婚約なら、もう破棄しています。 細波ゆらり @yurarisazanami

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