お姉さんの訃報が届いた話

馬人

第1話

 ホームルームが終わって、教室はにわかにあわただしくなった。生徒たちは思い思いに席を立つ。

 坊主頭の男子たちや髪を束ねた女子たち濁流のように階下へと消え、残った生徒たちは教室の中で何をするでもなく澱みを作る。窓は全開で、扇風機もついているのに、部屋の中にはどんよりとした夏の空気が滞留していた。小学生のころから変わらない、ボブカットにしたくせっ毛が、湿気でさらにまとわりつく。少し息苦しいくらいだった。

「るーりー、行こうよ」

 教室の入口からこちらを覗き込んで声をかけてくる友人に、瑠璃はうん、と返事をした。口から洩れた吐息のような声はかすかに空気を揺さぶって、よどんでいた空気を震えさせる。

 ぴぴ、と、携帯電話が鳴ったのはその時だった。

「うわ」

 周りの生徒の非難するような顔に、瑠璃は慌てて携帯電話を取り出す。瑠璃の通っている私立中学では携帯電話の持ち込みは認められている。ただし、校舎の中では音を鳴らさないことが原則となっていた。視線の先では、友人がなにやってんのさ、と笑っている。それに照れた笑いを返して、瑠璃は念のために一度画面を確認した。

 届いたメールの文面が、網膜を経て脳に伝わる。

 瑠璃はその文面を二度読み返した。

 読み返して、瑠璃はそれを鞄の中に仕舞う。

「あっぶなー。マナーモードにし忘れたな? 愚か者め」

「詩歌、ごめん。私、今日部活休むね」

 へ? という声を無視して、瑠璃は美術室とは逆方向の土間へと向かった。おーい? とこちらに声をかけた詩歌は、先輩には行っとくねー。と言って美術室へと向かった。周りでは、うるさいくらいに生徒や先生が会話をしているはずなのに、瑠璃の周りだけはとても静かだ。今すぐにでも駆けだしたいという気持ちと、そんなことをしても何にもならないのだという理性的な考えが脳内に二つ別居している。

 その二つの差異が、自分が理性的な人間であることを否定しているようで気持ち悪い。

 校門をくぐり、駅に向かう道すがら、周りに誰もいないことを確認して瑠璃は携帯をもう一度開いた。携帯は先ほどと同じように、同じ事実を彼女に知らせる。

「娘が亡くなりました。


初めまして、こんにちは。

あなたが、このアカウントをまだ見ているのか、或いはもう見ていないのか、それはわかりません。ですが、娘の携帯に、連絡先が残っていたのはあなただけなのです。

よろしければ、あなたからご連絡をいただければ幸いです。」


 相手は、瑠璃がよく知っていて、それでいて全く知らないお姉さんの番号だった。SNSの画面は一度も使ったことがなくて、今日の朝も今までと同じように真っ白だった。それなのに、今はそこに、緑色の吹き出しが浮かんでいる。

そこに初めて記載された文字は、話し方も文章の組み立て方も何もかも瑠璃の知っているお姉さんとは異なっていて、二年前に瑠璃が登録した『お姉さん』という名前だけが、深海に沈むクジラの骨のように白く遺っている。

 白い骨のように何もなかったその画面に、張り付いたペンキのようにこびりついたそれが、瑠璃にはひどく冒涜的なものに思えた。

 誰かがお姉さんのことを語ることも、お姉さんが知らない間にいなくなるのも。

 ホームに滑り込んできた列車に乗り込む。いつもとは逆方向に流れていく駅名が、校則違反を咎めて笑っていた。


「ねえ、君、どしたの?」

 そのお姉さんと初めて出会ったのは、星の瞬く公園だった。澄み切った空気と同じように現代の大人たちは人のつながりに冷たくって、夜に公園でブランコをこいでいても声をかけてくる人間なんていやしない。

 瑠璃が至ったその結論をニコニコとした笑顔で破壊しながら、そのお姉さんは隣のブランコに腰掛けた。ボブカットにした髪を瑠璃と同じくらいに伸ばしているのに、瑠璃とは違ってまっすぐと肩口に伸びている。薄く張り付いたような笑みから視線を落とせば、夜闇に白いセーラー服が浮かんでいた。駅から吐き出される高校から帰って来た高校生たちの中の一人であろうお姉さんは、そのどれとも違う子供っぽい顔でそこにいた。ざっくらっばんに切りそろえられた髪と、その下で気の抜けた様に笑う顔を、瑠璃は今でもよく覚えている。

 気の抜けるようなその顔に、瑠璃は誰に言うでもない本音が口にでた。

「家に帰りたくないだけ」

 そっか、と、お姉さんは笑った。私も、とつぶやくように言って、隣で勢いよくブランコをこぎ始めた。それが無性におかしくって、瑠璃も隣でブランコをこいだ。二人の服が揺れるのがおかしかった。


 音を立てて列車はホームから走り去っていってしまった。ホームにはまばらにぽつぽつと人がいるだけで、珍しくもないのか瑠璃の姿を無視して改札へと消えていく。かつての瑠璃の家の最寄り駅は、瑠璃自身の事なんてまるで無視するように変わらずそこにあって、一人の人間の変化の矮小さを、ただ無言で告げていた。

 階段を上がって下る妙な構造になっている改札を抜けて駅を出れば、右手には小さな公園が見えてくる。

 2年前と何も変わらないまま、それはそこにあって、瑠璃はそれを見てほう、とため息をついた。人の成長も、事件も、町はただ飲み込んで、変わらない姿をそこに残している。

 駅を出て、瑠璃はその公園へと足を運んだ。駅のすぐそばに線路に沿うように作られた小さな公園が、記憶通りにそこにあった。駅のついでで作られたような公園なのに、植えてある樹木だけは多く、その影が囲うように公園を取り巻いている。秘密基地みたいだ、と2年前の瑠璃は思っていた。あれから2年しかたっていないのに、瑠璃の目には全く魅力的に映らない。今ではカラオケボックスの方がよほど秘密基地めいて見える。

 これを大人になったというのだろうか。もしそうなら、随分と機能的で情緒がないな、と、瑠璃は思った。それをあんまり認めたくなくて、瑠璃はブランコに腰掛ける。ボロボロの木材がスカートに触れるのが、妙に気になった。

まだ4時になっていない夏の公園は明るくて、ぎいとなったブランコの音も、あの時のように公園に響くこともなく、ただ宙に浮くだけだった。走馬灯のようによみがえる記憶は曖昧で、ただ泥水のような現実だけが、瑠璃の周りを渦巻いている。瑠璃はブランコから腰を上げた。そのまま公園を出ようとして、視界に移った白い花に足を止める。

 それは公園の端にあるトイレの下の壁に寄り添うように置かれていた。横には赤い缶コーヒーが置かれている。人が死んだあとみたいだった。しかしそれにしては変な場所だ。バイクが突っ込めば、おかしくないのだろうか。トイレのレンガでできた白い壁を瑠璃はじっと見てみるが、その壁は上にかかるように伸びた木の枝の影がかかっているだけで、何かが突っ込んだようには見えない。

 壁。

 ゆっくりとその前まで足を進める。2年前から5センチメートルほど伸びた背で、見下ろすように壁を見た。触覚でもそれを感じようと手を開いて、それをタイル張りの壁に押し付けてみる。汚いと思った。手のひらを強くそこに押し付けると、べたりとした感触が手のひらに伝わる。ずるずるとそれを押し下げると、あの日の背中のように、手のひらがこすれた。


 その日の話題は、恋の話だった。なんてことはない、学校の好きな人や、好きな芸能人の話。お姉さんは瑠璃が話しているのをどうでもよさそうに聞いていて、でも瑠璃がキスやらなにやらの話をすると、にやりと笑った。

『じゃあさ、今からそういう事、してみる?』

 練習だよ、といってお姉さんは笑って、壁ドンもしてあげよっか、なんてなぜか急にノリノリになって、トイレの横まで弾むように歩き出して。

からかわれているのかな、と思った。女の子同士で? とお姉さんに聞く。

『嫌?』

 お姉さんはそう言って片側だけで瑠璃を振り返る。嫌ではなかった。年甲斐もなく、どきどきとしたのを、瑠璃は今でも覚えている。それが背伸びしたい時期の特有の好奇心だったのか、本当に恋と呼べるものだったのか、瑠璃には今でも分からない。

 でも、街灯の下に立つお姉さんはなぜかすごく煽情的に見えて、誘蛾灯に誘われた羽虫のように、フラフラと瑠璃はその前まで歩いて行った。

『じゃあ、お嬢様、瞳を閉じて』

 壁とお姉さんの間に入り込んだ瑠璃に、いたずらっぽく笑ってお姉さんはそう言って、それに体をよじりながら目をつぶった。しばらくそのままでいると、視界の代わりに、唇の触覚が、何か柔らかいものが触れたのを教えた。それにわあ、と少なくない興奮を覚えて、そして、

 首を、お姉さんの手のひらで絞められた。

どうしようもなく、体が震えた。首にかけられた腕が、ぎりぎりと皮膚を推し、血管を圧迫していた。瑠璃はただ、何もできずに呆然としていた。苦しいはずなのに、なぜがどうしようもない甘さを感じていた。

目の前のお姉さんが、瑠璃を見ている。瑠璃と同じくらい苦しそうなのに、その瞳はとても幸せそうだった。ゆがんだ眦と、三日月のように笑う口。目の端からツツ……。と流れ出す涙は流星のようで、ぼんやりとした視界の中、はっきりと輝いていた。

 きれいだ、と思った。小さく息を吐いて、指でお姉さんの顔の輪郭をなぞる。指は、冷たい肌と、人の温かさと、涙の感触を伝えた。視覚と触覚が、バラバラに崩れて溶けていくようだった。目の前の景色は、こんなに美しいのに、手から伝わる触覚はそれにもの悲しさを感じている。彼女の輪郭に美しさはないと、そう断言している。そのどちらが正しいのか。酸素を失って朦朧とする頭で探っていると、急にお姉さんの腕がはなれた。

 両の足から冗談みたいに力が抜けた。公衆トイレの裏、雨も降っていないのに湿っている地面に、瑠璃の身体が崩れ落ちる。死にそうになってあんなに気持ちよかったくせに、体は、未練がましく必死に空気を求めていた。視界には、地面しか映らない。

 その孤独感がさみしくて、顔をあげる。視界の先には、呆然と瑠璃を見下ろすお姉さんの姿が、まだあった。視線を向けると、よろよろと瑠璃の方へと近づいてくる。枯れ枝のような腕が瑠璃にまとわりつくと、お姉さんはそっと瑠璃を抱きしめた。

『ごめんなさい』

 肩が濡れる。泥で汚れた服に、お姉さんの涙で線を引いていくようだった。なぜ謝られているのかわからずに、お姉さんの頭に手を伸ばす。瑠璃は、体が強く密着するのもかまわずに、お姉さんの後頭部を撫でる。瑠璃を抱きしめるお姉さんの力が強くなって、お姉さんの口からまた弱弱しく謝罪の言葉が出る。なんで泣いているんだろうと、首をかしげる。お姉さんは答えなかった。何も言わずに、ただ瑠璃のことを抱きしめている。口では謝っているのに、その眼は一度も瑠璃を捉えなかった。


その日以降、お姉さんは公園に現れなかった。


「あ」

 がらんという音がして、目を開ける。足元の花はぐちゃぐちゃに踏み荒らされて、缶コーヒーが音を立てて転がっていた。しまった、と散らばったそれらを整えて公園を出る。

 悪いことをしたとは、思わなかった。


 公園を出て、しばらく歩くと、お姉さんがいつも消えて行っていた古びた集合住宅が見えてくる。携帯のメール画面に視線を向ければ、短い部屋番号の返事がそこには書かれていて、瑠璃はまっすぐその部屋へと向かった。

 公園を囲むように立っているその集合住宅は、暗闇に浮き、部屋番号以外では区別をすることもできないような無個性なドアが、ただ淡々と並んでいる。

 その中の一つの、呼び鈴を押す。

「はい……」

 出てきたのは随分とくたびれた顔をした女性だった。年は、40歳くらいだろうか。ぼさぼさつ跳ねまわる黒い髪は肩口まで伸びていて、神経質そうな細い目が印象的だ。その視線が、少しの間瑠璃の頭の上を往復した後、思い出したかのように瑠璃の方まで降りてくる。

 そのままたっぷり10秒ほど見つめて、きゅっと唇を結んで声を出す。

「なにか?」

 キンと廊下に響いた声に、少し面食らいながら、瑠璃は少し悩んで携帯の画面を差し出した。何を名乗っても嘘くさくなってしまうようで、それなら、この緑色に汚れた画面を見てもらう方が、この人は納得するのだろうと思った。

 目の前の女性は、瑠璃の母親によく似た匂いがした。

女性はその画面を怪訝な表情で見つめた後、同じような顔で瑠璃を見下ろして、

「あなたが?」

 と誰ともなくつぶやくように言った。瑠璃が、はい、と短く答えると戸惑ったように玄関の戸を開ける。どうぞ、という声が、今度は低く廊下に反響した。

 部屋は、家族で住むには少し手狭な間取りだった。ごみ袋をまたぎ、体を横にしながらキッチンを通り過ぎると、手狭なリビングがあった。リビングの中心にはテレビとソファーがあり、どうやらその奥にも部屋があるらしいのだが、襖がぴっちりと閉じられている。それだけで、家全体が随分と狭苦しく見えた。

 お姉さんの部屋だ。そう、瑠璃はなんとなく思った。

 お姉さんの母親らしいおばさんに進められるまま机に腰掛ける。なんにも出せないけど、と言って、彼女は瑠璃の目の前に黒く濁った液体を置いた。それから、あ。と、間の抜けた声を上げる。

「ごめんなさい、ジュースの方がよかったかしら」

 お構いなく、と微笑んで、瑠璃はカップに口をつける。鼻から濃い香りが脳へと流れ込んで、口の中が泥のように苦くなった。

「……。あなたみたいな、人だとは、思わなかったから」

 言い訳をするように女性はつぶやいたけれど、瑠璃はそれを聞かなかったことにした。液体を嚥下する。カーテンで閉め切られて、人口の灯りで照らされた部屋は、外の事情とは全く無関係のようにそこにあって、言葉を発する人間がいないせいで、シンと静まり返っている。

 ぼそり、と、彼女が言う。

「あなた、その制服は瀬尾中学校?」

「え、はい……」

「お住まいは?」

「えっと………、稲草の方です、あの」

「名鉄が最寄りかしら、そうすると」

 少し迷ってから、頷く。女性はそう、とため息をついた。

「あの子とは、どういう関係なの?」

「前まではこの近くに住んでて、塾の帰りにたまに話してたんです。それで、電話番号も」

 なるほどね、と女性は再びため息をついた。そりゃ、見たこともない顔なわけだ。と地を這うように言って席を立つ。

「とりあえず、お線香だけでも上げていって」

 そう言って奥の襖を開ける。瑠璃の想像通り、そこは子供部屋だった。

狭い中、置く場所もなかったのか、勉強机の上に、遺影と小さな骨壺が置かれている。遺影の中で笑っているのは、確かに。

瑠璃の知っている、お姉さんだった。


 手を合わせて、もう一度テーブルに戻る。その様子をじっと見ていたおばさんはため息交じりに瑠璃に言いった。

「あの子、まだ19歳だったのに。だーれもお線香の一つも上げに来ないんだもの。学校に連絡してもそれっきり」

 友達いなかったんでしょうね。と、他人事のようにおばさんはつぶやく。

「あんまりにかわいそうだったけど、私あの子の交友関係なんて知らないから」

 それを知るために、携帯のロックを解除して、調べて。

 それで、瑠璃に連絡したのだと。

「あの、私あんまりよく知らないんですけど」

「うん?」

「あの、……。お姉さんは、なんで、その」

「ああ」

 瑠璃がそう言うと、おばさんは、便箋をもって戻って来た。

「はい」

 中を開く。縦書きの、細く、丸みを帯びた文字で、文章が書かれていた。

『ずっと悩んできました。

 でも、何が正しかったのかはわかりません。

 私は、きっとなにか間違って、それが私にはひどく醜く思えるのです。

 だから、消えることにします。

 きっと、私はその方がきれいなのです。

本当にごめんなさい。どうか先立つ不孝を、お許しください」

 同じ太さで留まることなく書かれている、感情の読めない、文章。

「自殺だったのよ」

 心底疲れた様に、おばさんは言う。

「駅の隣の公園でね、なんでか知らない、変なところで首くくって。朝散歩していた近所のおじいさんが見つけたんですって」

 震えることもなくただまっすぐに、美しく書かれたその文字は、読み間違えられることを拒むかのようだった。あるいは、その裏を読まれることを拒むかのように。読むもの全てを拒絶している、ただの情報としての文字列だけがそこにあった。

「謝るくらいなら、あんなことしなければいいのにね……」

 おばさんは、そう言って力なく笑った。

 その通りだと思った。


 その後にお礼を言って家を出て、瑠璃は駅とは逆方向に歩く。お墓にも挨拶をしたいという瑠璃の願いを、おばさんは快く聞いてくれた。町中の、本当に家と家の隙間に立っているようにその墓地はあって、その前までの景色とのあまりの乖離にほう、と声が漏れてしまう。

 それでも、あの、夜闇にたたずむお姉さんのお墓としては、案外ふさわしいものなのかもしれないと、瑠璃は思う。

 西に今にも沈みそうな日差しに照らされて、オレンジに染まったお墓を順に確認して、名前も知らないお姉さんのお墓にお水をかける。

 あたりまえだけどそこはただのお墓で、枯れかかった花と、無機質に立てかけてあり真新しい卒塔婆だけが、そこにあるすべてだった。見慣れる瑠璃に何かの反応を返すことも、拒絶を返すこともない。ただの石の塊。人なんて誰一人いない夕方の墓地はひどく静かで、瑠璃だけ別の世界に迷い込んだようだった。

 そこには、ただ名前の残響があるばかりだ。

 瑠璃の知らなかった、お姉さんのことを示す言葉が。

「お姉さんは、間違いだったっていうけど」

 墓石に水をかけながら、瑠璃はそれに語り掛ける。お姉さんは死んだ。もう聞いている人なんていない。それでも、なにか一つくらいは文句を言わせてほしかった。

「私は、お姉さんの事、そんな風には思えないよ」

 瑠璃だって、この人と同じだから。相手の首を絞めるお姉さんの気持ちは分からなくても、好きになった相手の首を、絞めたくなるような気持ちは分かる。

 桶の中の水はなくなって、あとは、水なんて一つも吸い込まずにぼたぼたと水を流し続ける墓石だけが、その場には残った。

 瑠璃は、いけてある花を取って、それをむしってみた。

 何も、感じなかった。

 立てかけてある、卒塔婆を折ってみた。

 何も、感じなかった。

 寂しさも、怒りも、悲しみも、辛さも、うれしさも、悔しさも。

 好きだった人のお墓なのに、仲の良かった、友人のお墓なのに。

 何も。

 何も感じない。

「私も、お姉さんとおんなじ」

 馬鹿だなあ。と、瑠璃は嗤う。

 そんな瑠璃にしたことを、自分が壊れていることを、間違っているんだと考えて死んだ同胞を。お姉さんにとって、お姉さんは間違っていたのだという。それならば、こんな瑠璃のことを、お姉さんはどう思うのだろう。同じように、間違いだと認めるのだろうか。

もしそうなら、それは、世界から見放されたように感じて、少し悲しい。

 水をはじいて、膜を作っている墓石に触れた。意味のない苗字がそこには並んでいる。冷たい、感情の感じられない、ひんやりとした感触が、指先につたわる。

 お姉さんなれの果てだというそれは、瑠璃に何も返してくれない。

 半分から折れた卒塔婆と、バラバラに散っている花弁が、瑠璃に残ったすべてで、だから、きっと、お姉さんと瑠璃は、友達になんかなれなかった。お姉さんなのに、友達じゃなかった。お姉さんが、瑠璃とおんなじであることから、逃げてしまったから。

 こつんと、墓石を蹴る。つま先が、ほんの少し痛い。墓から帰って来た初めての返事だ。それは瑠璃のつま先に食むような痛みで、それっきり何も、墓は語らない。

 桶を握って立ち上がった。もう、そこには何の用事もなかった。

 ぬるい風だけが吹いていた。今夜はきっと熱帯夜だ。

風に、目元からほほを伝う水が揺れている。それは塩辛くて、生暖かくて。

 生命の気配を、瑠璃は感じた。

 お姉さんにはもうないそれは、間違っている瑠璃の中で、まだ確かに動いている。




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お姉さんの訃報が届いた話 馬人 @nastent

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