第3話 出会いと馴れ初めと深入り

 背高草が遙か遠方まで続いている。とは言ってみたものの、背高草というのがどういう植物なのか、私は知らない。道という道はなく、一面が緑色の絨毯と化している。いや、背高草なのだから、絨毯とはいえないだろう。こういうときに良い表現、つまり、詩的な表現を思いつけないというのは、もはや私の一つの特徴といって良かった。人の声ばかり聞いて生きてきたからかもしれない。詩的な表現は、自分の内に籠もってこそ生まれてくるものだろう。


 さっきからずっと、少年が私の手を引っ張っている。引っ張っているというのは、本当にそのままの意味で、私は彼が歩く速度に付き合わされていた。私は早く歩くのがあまり好きではない。早く死にたくないという心の表れかもしれない。死にたいと思うことはあるが、実際にはそうなることは望んでいないということに、最近気づいた。それに気づいた要因は、前を歩く少年にある。彼と出会って自分が補完されたことで、自分の状態を幾分客観的に見られるようになったのだ。これを成長と呼ぼうと思えば、そう呼べないこともないかもしれない。


 自分の中に余裕が生まれた。


 人と接触することでそんな変化が訪れるなど、これまで想像もしなかった。


 少年は無邪気な足取りで、先へ先へ進んでいく。繋いだ手がずっと前から汗ばんでいた。彼にそんなことを気にする素振りはない。


「ねえ、どうしてそんなに急いでいるの?」私は質問した。息が切れていたから、あまり大きな声は出せなかった。


「どうして、だって?」彼は前を向いたまま答える。「決まっているじゃないか。君に見てもらいたいものがあるからさ」


「そんなに急がなくても、見るよ」


「意図して急いでいるわけじゃない。ついつい足取りが軽くなってしまうんだ。そう、これは僕の性というか、質というか……。君に言わせれば、早く死にたいと思うだけ思う、というかね……」


 私たちは互いに補完されたから、もう、彼が私の思考を読むことはできないはずだ。だから、今の話は推測だろう。そうでなければ、愛が見せる奇跡というやつか。


 頭の上に太陽が昇っている。私はつばの大きい麦わら帽子を被っていたから、天を仰ぐときに、意識的に首を上へ向ける必要があった。そんなふうに思い切り空を見るのも久し振りのことだ。彼と出会ってから、自然のものに目を向ける機会が多くなった。それが彼が生きてきた道だからだろう。彼の生き方が私にも伝播したということだ。それは、同時に、私の生き方が彼に伝播したということでもある。その様を見て、彼はどう思っただろうか。


 生きるとは、本来、こういうことを言うのだろう、と思う。


 太陽に照らされ、草花の群れを掻き分け、誰かと手を繋いで歩き、ときどき吹く風に額を撫でられ……。


 これまでの私の人生は、何だったのだろう?


 オフィスの薄暗い明かりに照らされ、聞きたくもない人の声を掻き分け、静まり返った夜道を一人で歩き、ときどき降る雨に頬を撫でられ……。


 先を行く少年が立ち止まる。その影響で私は足がもつれた。すぐにスピードを抑えることができなくて、彼の背中に接触してしまう。


「着いたよ」


 衝撃を受けて閉じかけていた目を開ける。


 少年が前方を指さしていた。


 その先を見る。


 いつの間にか背高草の広場は終わりを告げ、私たちは小さな公園の中にいた。四方はコンクリートの枠で区分けされ、草の地面から砂利の地面に変わっている。ブランコを通り過ぎ、滑り台も通り過ぎて、私たちは公園の端に立っていた。


 目の前に木製の柵がある。


 その先は崖。


 そして、さらにその向こう。


 円形の大地が広がっている。


「君はあの中で暮らしていたんだ」少年が言った。「どう? とても人が住む場所とは思えないだろう?」


 円形の大地というのは、本当にそのままの意味だ。円盤の上に背の高いビルが建ち並んでいる。ビルの類は中心に多く、周辺になるほど一軒家が多くなる。


 そして、円の外は闇だった。


 何もない。


 円盤が宙に浮いている。


 もしそこに海があれば、その水は宙に向かって流れていただろう。


 少年と並んでその様を見る。


 私は何もコメントしなかったし、できなかった。何を言ったら良いのか分からない。ただ一つ分かるのは、私は、自分が当たり前だと信じてきたものを、ずっと疑わずに生きてきたということだった。


 どうして、私は人の思考を読むことができたのだろう?


 しかし、それは問題ではない。


 問題は、どうして、私は人の思考を読むだけで、自分の思考を読むことをしてこなかったのか、ということ。


「君にはもともとその能力が欠けていたから、仕方がない」正面を向いたまま少年が話す。「僕がその役割を担っていた」


 私は少しぞっとして、彼を見る。


「じゃあ、君は?」私は尋ねた。「君の思考は、誰が読むの?」


「もちろん、世界が」少年は答えた。「君は僕以外の人間の思考を読み、僕は君の思考だけ読む。そうすると、僕の思考を読む者がいなくなってしまうから、代わりに世界が僕の思考を読んでくれるんだ」

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