双痕秘聞
青江
逢魔が時
登場人物
藤原五輪 ふじわらいつわ
神崎景咲 かんざきかげさき
茜色に染まる富士山頂にて、二人の女が向かい合っていた。
一人は太刀を黒漆の打刀拵で着こなし腰に差していた。
その肉体は六尺を優に超える鍛え抜かれた巨躯であり、正しく『武神』だった。
一人は打刀と脇差を武蔵拵で着こなし腰に差していた。
上背は劣るもののゆるりと佇む姿は歴戦のそれであり、正しく『武帝』だった。
共に、当代随一と呼ぶに相応しい武士であった。
それでも、思う。
ここに至っても尚……『武』が憎い、と。
ふざけた話だ。
剣を極めたと言ってもいい者達がそんなことを思っていた。
しかし、それが彼女達だった。
そう。
絡み合う瞳には己と同じものがあった。
胸の内にある一途な思いは変わることなどなかった。
あぁ、長かった。
辛く険しいこの道の先に、彼女がいると信じてきた。
その為に生きてきた。
ようやくここまで来れた。
きっと……何もかもを取りこぼしてきた人生は、この瞬間を迎える為にあったのだと思う。
彼女もまた、そうなのだと思う。
ひたすらに見つめ合う。
久しぶり見る顔は相も変わらず美しかった。
見知らぬ傷が増えていた。
年不相応な皺が出来ていた。
瞳は焼き付いていた記憶のようにまつ毛は濡れていた。
理想に燃え、肩を並べた顔だった。
理想に折れ、目を背けた顔だった。
理想に狂い、疲れ果てた顔だった。
心が震える。
嬉しい。
少し、悲しい。
ただただ痛ましい。
彼女の生き様の全てが顔に現れていた。
彼女が何をして生きていたかを知っている。
彼女が何を思って駆け抜けたのかを知っている。
彼女は何をして生きていたかを知っている。
彼女は何を思って駆け抜けたのかを知っている。
故に、見えるは必然だった。
背を向けて歩んだのなら、いつか向かい合う他ないのだから。
藤原五輪。その名を口にする。泣きそうになりながら。
神崎景咲。その名を口にする。愛おしさをひた隠しながら。
神崎景咲と藤原五輪の道は、今この時に交わる運命にあった。
彼女達は結局のところ、ただ許せなかっただけだ。
伝播し蔓延る理不尽が許せなかった。
命があっけなく奪われることが許せなかった。
それをただ見ているだけの己が許せなかった。
故に血で血を洗う戦いを憎んだ。
人々を無為に苦しめる争いを憎んだ。
その根幹である『武』そのものを憎んだ。
憎んだ末に──剣を手にした。
邪悪を討つ為の剣だと言い張って。
それが間違いだったのだと、思う。
いや、本当はずっと前から分かっていた。
それは偽りに過ぎないのだと分かっていた。
見て見ぬふりをし続けた先で、二人は出会った。
同じ理想を持つ者同士だった。
使命に燃える心が引き合わせたのかもしれない。
辛くとも二人が歩みを止めない様に、と。
その出会いは二人にとって、今世で最も価値あるものだった。
似て非なると言うには似ていた境遇を語らい、何度も酒を酌み交わし、いつか訪れるはずの穏やかな明日を思い描き、ありふれた悲劇を止めるべく手を取りあった。
二人は女ではあった。
女ではあったが、この世のものとは思えないほどの才があった。
彼女達と他とでは桁が違ったのだ。
二人に並ぶものはいなかったのだ。
故に、凡才では決して成し得ないことを平然と成した。
不殺を掲げ、弱者を虐げる強者を悉く打ち払った。
死の淵にいる人々をただ救いたいから救った。
力ある者がいつか改心することを信じて生かした。
弱きを助け、強きを挫く。
その在り方と強さは二人を英雄へと押し上げた。
そして、道半ばで──二人の心は欠けた。
二人の思い描く理想と、二人が生み出した現実は……余りも食い違っていたから。
英雄と呼ばれるようになっても、争いは生まれるばかりで無くなりはしなかった。
戦い続ければ続ける程、二人の『武』を人は欲した。
弱者は二人に力を求めた。自分たちを守り救う力を求めた。
強者は二人に死を求めた。恨みと屈辱を晴らす死を求めた。
二人はこの世の誰よりも安寧を求めていた。
しかし。
二人は『武』そのものになっていた。
馬鹿馬鹿しくてしょうがなかった。
争いを無くそうと足掻く自分たちが『武』の中心になっていたのだから。
人々が殺し合わなくてすむ世を一途に求め続けた自分たちこそが、根絶すべき戦火を広げていたのだから。
こんなことの為に生きてきたのかと、何の為に抗い藻掻いてきたのかと、そう思わずにはいられなかった。
誰も二人の願いを理解してはいなかった。
そもそも二人の願いになど興味は無かった。
二人を人ではなく英雄として崇めていたから。
血の匂いを嗅ぎつけては悪を斬る装置として存在してくれればよかったから。
そう。
傍らにいる女だけが唯一の理解者だった。
共に駆け抜けている彼女だけが純粋な願いを理解してくれていた。
彼女の瞳が告げていた。
私達は十分戦った、と。
それだけが救いだった。
ここでやめてもいいのだと、労わってくれていた。
剣を置き、ただの村娘に戻ればこんな風に苦しむことも無くなるのだろう。
戦い続けた意味を理解してくれる君がいるなら、もう終わりにしてもいいのかもしれない。
そうすればいい。
そうしてはいけない理由など、どこにもない。
二人は力なく笑いあった。
嘆き、悲しみ、自分たちの渇望が世を乱したことを悔いた。
それでも、二人は戦い続けることを選んだ。
それは最も愚劣な選択だった。
誰に言われるまでもなく二人は分かっていた。
だが、それしか選べなかった。
選びたくなかった。
二人は『武』を心底憎み嫌悪してきた。
この世から『武』を無くすために生きてきた。
そして。
世には未だ『武』が存在する。
それも手ずから生み出した『武』が存在する。
なれば、絶たねばならない。
その為に忌まわしい剣を取ったのだから。
決めた生き方を曲げることだけは出来なかった。
あの日、剣を取った日、二人は己が心魂にそれを成すと誓ったのだから。
──平和な世を現す。
そこへ至る道が必ずあると信じ進んできた。
だが、共に歩んだ道ではそこへは至らなかった。
だから……二人はそれぞれ違う道を歩むことにした。
ただ一人だけの理解者。
それに背を向けることを選んだのだ。
共に歩んでいきたいと、心は叫んでいた。
その本音を殺して、殺して、殺し尽くして、背中合わせになった。
決して振り向かないと戒めて。
一人は『武』の根絶という命題に極論を持って挑むことにした。
その結論は単純にして明快だった。
全ての『武』を殺す。
それを手にした者を例外なく殺す。
弱き者も強き者も平等に、老若男女関わらず。
それは妄言だとしても聞くに堪えないものだろう。
妄言ですらないとすれば、それを宣う者は狂っていると言わざるを得ない。
そんなものが平和であるはずがないのだ。
人がいなくなれば平和などと、本末転倒もいいところではないか。
だが、そうでもしなければ戦いのない世界など訪れない。
そう思ってしまうところまで堕ちてしまったのだ。
争い無き世界に住まう人々を信じて、今を生きる人々を鏖殺する。
それが神崎景咲の答えだった。
もう一人は『武』の根絶という命題を生きるうちに達成することは不可能とし、今よりも少しだけ悲しみを減らした世界を目指すことにした。
その結論は苦渋の末に絞り出した。
この世に『武』を流布する。
求める者に手ずから『武』を与える。
弱き者にも強き者にも平等に、老若男女だれだろうと理由を問わず。
矛盾していた。
誰よりも憎んでいるはずの『武』を世に流行らすのだから。
死ぬ定めになかった人が死んでしまうのだろう。
殺し合う定めになかった人を殺してしまうのだろう。
それでも信じたかった。
人々に『武』を与えれば、殺し合いを抑止する力として機能すると信じたかった。
人を殺める『武』を通して、戦いの虚しさや争いの醜さを知り、奪い合うことを思いとどまると信じたかったのだ。
その先……『武』の汚さを知った先で、自分には出来なかった『武』を捨てるという決断をして欲しいと願ってしまったのだ。
己が信じる『武』の在り方が天下に布かれるまで『武』を蒔き続ける。
それが藤原五輪の答えだった。
神崎景咲は殺し続けた。英雄ではなくなった。
侮蔑され、恐怖され『武神』と呼ばれた。
藤原五輪は与え続けた。英雄ではなくなった。
唾棄され、畏怖され『武帝』と呼ばれた。
二人は血濡れの道を歩み続けた。
泣きたくなるほど辛かった。
叫びたくなるほど苦しかった。
それでも止めなかった。
たった一人の理解者が歩みを止めないから。
決めた道を愚直に征くと誓ったから。
駆け抜けて──二人の道には骸しか残らなかった。
そこに求めたものなどなかった。
手にしたものもなかった。
ただ、理不尽に奪い与えただけだった。
忌み嫌い、心底嫌悪し、心底憎悪し、欠片も許せなかった存在になっただけだった。
二人はどうしようもなく『武』そのものだった。
解く。
閉じ、また開く。
かつては互いに背を向けていた。
いつだってその背中を感じていた。
心が折れそうになる度に、一歩一歩傷付きながら進む背中がそこにあるのだと言い聞かせた。
今は感じない。
もう歩みきった道だった。
後は、こうして向かい合うことしかできないのだ。
道を違えた日以来、見ることが叶わなかった顔。
薄く哂っていた。
己は君と共に目指した夢に破れたのだと。
成した事といえば両手では到底収まらない人を斬ったことだけ。
尊い命を奪っただけ。
嗤うしかなかった。
ただ誰もが穏やかに暮らせる世界が欲しいと言いながら、殺人の限りを尽くし人々を抜け出せない螺旋へと引きずり込んだ。
何のために剣を取ったのかなど忘れてしまいたいくらいに殺した。
悪鬼羅刹、修羅、血に飢えた獣。
人々がそう呼ぶ存在になってしまった。
自分でもそう思う。
何を言い訳しようとも、どんな大義を掲げようとも、決して許されぬことをしてきたのだから。
それでも。
この思いだけは間違っていないと誰かに言って欲しかった。
そう。
彼女だけは、今も血で化粧する己に間違っていないと言ってくれている。
それが嬉しかった。
彼女もきっとそうなのだろう。
彼女は笑っていた。
それにつられた己も笑っている気がする。
その笑顔に見惚れた。
目を逸らせないその大輪の花。
すぐにでも散ってしまいそうな咲み。
あぁ、どうしてもっと早く気付かなかったのだろう。
何故、この時に気付いてしまったのだろう。
ただ……ただ彼女に剣を振るって欲しくなかったのだ。
戦いを憎み争いを嫌う彼女が、剣を振るわなくていい世界にしたかったのだ。
多分、それだけが本当の望み。
だから、彼女に代わって剣を振るうと決めたのだろう。
それがどんなにおぞましくとも。
それがどんなに吐き気を催そうとも。
彼女が剣を持たずに済むのなら、それでいいと。
しかし、そうはならなかった。
理由は唯一つ。
優しい彼女らしい理由だ。
彼女もそう思ってしまったのだ。
君の代わりに剣を振るうと。
振るいたくもない人殺しの道具を、血を吐く思いで。
それだけの話。
平和を手に入れたかったのは、彼女が剣を捨てられる世界を作る為だけだった。
どんな大義も思想も、今になって気付いてしまった思いには敵わない。
そうだ。
彼女を愛している。
神前景咲は藤原五輪を愛している。
藤原五輪は神前景咲を愛している。
彼女に愛されている。
神前景咲は藤原五輪に愛されている。
藤原五輪は神前景咲に愛されている。
君に剣を捨てて欲しいと願っていた。
君が剣を持たずに済むように戦い続けた。
二人は人間だった。
英雄ではなく、悪鬼でもない。
愛し愛される人だった。
誰が何と言おうと、それだけが真実だ。
なら。
この先の人生は休んでもいいのだろう。
彼女が望む通りにしてもいいのだろう。
そうすれば、きっと……彼女も剣を置くだろうから。
ただの女としてやり直すことが出来る。
二人で仲睦まじく平和に暮らすことが出来る。
もう、戦わなくていい。
もう、争わなくていい。
もう、剣を──。
否。
『武』は目の前にある。
彼我共に、鯉口を切る。
するりと抜く。
忌み嫌う剣を。
迷いなどはなからない。
そうだとも。
曲げられない。
この道は曲げられない。
神前景咲として生きた道は曲げられない。
藤原五輪として生きた道は曲げられない。
曲げられはしないのだ!
己も!
彼女も!
人を殺してでも夢を追ったのだ!
老人を斬った。
子供を斬った。
男を斬った。
女を斬った。
平等に、分け隔てなく。
故に。
例外は認められない。
自分の愛した女だけ斬れない、だと?
独善も甚だしい!
そんな心境では理想に届きはしない。
あの日語った夢に指先は掛からない。
彼女に捧ぐ平和を、彼女を殺してでも成し遂げる。
破綻した願い。
意味のない殺し合い。
だからなんだ?
駆け抜けてきたのだ。
止まることなどないのだ。
そこを目指して我らは死山血河を築いたのだから!
そして、ここがその頂点だろうよ。
己に比肩する罪深い『武』を持つ敵と遂に相見えたのだから。
仕合わぬ道理は、ない。
故に、この結末は必然に他ならないのだ!
「我が『武』を鎖す者、現世に皆無」
「我が『武』に適う者、現世に皆無」
「我が名は『神前流』神前景咲。背負いし号は『武神』なり」
「我が名は『五輪流』藤原五輪。背負いし号は『武帝』なり」
「藤原五輪……貴方を、斬る」
「神前景咲……お前を斬る!」
いざ尋常に勝負!
双痕秘聞 青江 @aoe2001
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます