さめくん

戯男

第1話

 ここは海の中。どこまでも続く大陸棚の真ん中で、家族が食卓を囲んでいます。お父さん、お母さん、そして三人の子供たち。便宜的に彼らをA太、B雄、C子とすることにしましょう。

 彼らは夕飯の真っ最中。テーブルの上にはカラアゲの大皿と、それぞれの前には取り皿、そして白ご飯と味噌汁の椀が並んでいます。

 ですが、ここは海の中。味噌汁はたちまち海水と混ざり合い、白ご飯はほぐれて椀からふわふわ出ていきそうです。

「ほら、早く食べるんだ。でないとカラアゲが浮かんでいっちゃうぞ」

 お父さんが言うと、子供たちはおのおの箸を持ちました。


 彼はそこにゆっくりと近づいていきました。もちろん食べるためです。なぜなら彼は人食い鮫。ここらは彼の縄張りであり、そこにノコノコ現れた間抜けな人間を、一網打尽に頭からぼりぼり食ってやろうというのです。

 まず、彼はA太に迫りました。

「うわあ。やめてくれえ」

 A太は叫びましたが、もちろんやめろと言われてやめるはずはありません。なぜなら彼はA太を食いたかったのですから。

 ぼりぼりぼり。ぷちん。ぼりぼり。

 ぷちん、というのはきんたまを噛みつぶす音です。人間は大人より子供、男より女の方が旨いというのが人食い界隈では常識とされていますが、彼はむしろ男の方を好みました。なぜならきんたまがあるからです。人間を頭から丸かじりにした時、中ほどを過ぎた辺りで「ぷちん」ときんたまを噛みつぶす時の触感ときたら、ほとんどこのために人間を食っているといっても過言ではありません。

 続いてB雄に迫ります。

「僕は痛いのは嫌だ。それにまだもっと生きたい。だから食べないでくれ」

 なるほど。と彼は思いました。

 しかし。ぼりぼりぼり。ぷちん。ぼりぼり。

 それはあくまでもB雄側の都合であり、彼の知った事ではありません。食われるのが嫌だから食わないでくれ、という言い分が通るのなら、食いたいから食われてくれ、という彼の言い分もまた同等の重みを持つはずで、その両方のちょうどいい落とし所を見つけるのが交渉というものであるのですが、幼いB雄にはまだ少し難しかったようです。

 続いて、もちろん彼はC子に迫りました。

 C子はまだ幼く、まともに言葉を発する事はできません。しかしその代わりに無垢なまなざしで彼をジッと見据えました。ここが水中ということもあってC子の瞳はウルウルと潤んで見え、何かを激しく訴えかけてくるようでした。

 ですが。ぼりぼりぼり。ぼり。

 同じ哺乳類であるアザラシやシャチならともかく、彼は魚類。しかも軟骨魚類であり、さらにここは海。情けや容赦といったものとは無縁の世界です。

 続いて、彼は父親に迫りました。

 父親は言いました。

「君はすでに私の子を三人食べた。だから腹はある程度満ちているだろう。私は君に食べられたくないし、君も今すぐ私を食わなくたって今日明日餓死する事はないはずだ。それに、もしここで君が私を食わずに見逃してくれるなら、私はやがて妻と新たな子をなすだろう。そうすると君はまた別の時にその子を食う事ができるかもしれないわけで、ここで無理して私を食うより、あるいは二人、三人生まれるかもしれないその子が育ってから食う方が、君にとっても好都合なのではないか?」

 なるほど、と彼は思いました。確かにちょっとお腹が一杯になっていましたし、父親の言い分は筋が通っています。いたずらに情に訴えるわけでもなく、あくまで論理的に、ぎりぎりまで相手に譲りながら自分の要望を通そうとする。なかなか見事な交渉だといわざるをえません。

 ですが。ぼりぼりぼりぼり。ブチン。ぼりぼり。

 ここは海であり、彼は鮫。論理などとは無縁の存在であり、そんな相手に理詰めで交渉しようというのがそもそもの間違いなのです。

 さて。彼は最後に母親に向かいました。

 すると母親が言いました。

「よくもまあ、四人を食べてくれましたね」

「すみません。あなたも一緒に食べてあげるので勘弁してください」

「ふふふ。それには及びません。なぜならあなたは今日から人間になるからです」

「何を言ってるんですか?」

 ふと気づくと、彼はもう鮫ではありませんでした。彼はいつしか人間になり、母親の前で食卓に着いていたのです。

「これでわかりましたか」

 彼は驚きのあまり返事もできません。

「知りませんでした……こんな……人間にはこんな力があるのですね」

 やっと彼がそう言うと、母親はニッコリ笑って、

「私が人間だといつ言いました?」

 彼はまた驚きました。

「あなたは人間ではないのですか?」

「人間が海底でご飯を食べるわけないでしょう」

 そりゃまあ、確かに。



     ●



 そうして人間になってしまった以上、彼はもう海にいるわけにはいきません。陸に上がって部屋を借りて、仕事を見つけて働き始めました。人食い鮫だった経験を活かしてフードファイターになろうとか最初は思ったのですが、別に彼は大食いだったわけではなく、むしろどちらかというと小食な方だったようで、だから普通に田舎の体育館でスイミングスクールのコーチになりました。

 休憩時間になると、彼はタオルで体をざっと拭き、水着のままで喫煙所に向かいます。彼のお気に入りはメビウスのメンソール。半分ほど吸うと、彼は必ずフィルターを噛んで中のカプセルを潰します。ぷちん。それはきんたまを潰す感触にはほど遠いものでしたが、まあ贔屓目に見れば似ていなくもないこともない……と、彼はヒンヤリする煙を吐きながら思うのでした。

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さめくん 戯男 @tawareo

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