ヤクザと警察と幽霊と

@adgjmptw1111

第1話

「うっわ……」

 S県S市郊外の廃墟ビル。玄関をくぐった瞬間、周りの空気がひやりとしたものに変わった気がして、河島は思わずうめいた。

 さっきまで騒がしかった虫の声も、なぜかぴたりとやんでいる。夏の夜に似つかわしくない静けさだった。

 河島は、いわゆるヤクザ業に身を置いている。広崎会系列三ノ葉組。それが組の名前だ。S県を中心に勢力を伸ばす中堅どころで、その中で河島は一番の若手だった。

「だからってさぁ」

 はあ、と肩を落とす。

 いつの世も、面倒ごとに巻き込まれるのは下っ端の人間だ。上部組織の覚えもめでたく、一応、出世頭と言われているのに。若手だというだけで押し付けられたのが、今回の仕事だった。

 このビルは、十年前所有者が夜逃げして放置されていた。残された債務は当然三ノ葉組もち。その勇気を別のところに発揮すれば良かったものを、と河島は苦々しく思う。

 本来ならば、早々に所有者本人を締め上げてしまいたいところだが、どうにも悪運が強い奴らしい。初めは組も本格的に探していたが、系列会の再編騒ぎでそれどころではなくなって、とうとう行方がつかめないまま、放置されていたというのがことの顛末だ。

 そして、十年の時を経て、幹部の「そういやアレどうなった」というとぼけた一声を元に蒸し返され、今に至る。放置されているものの中に、掘り出し物がないか探してこい、とのことだった。

 もちろん所有者のアシの手掛かりがあれば、特別手当ものの功績だ。が、河島の期待感は低かった。

 十年前といえば、河島が組へ出入りを始めた頃だ。だから、このビルの騒動も薄らと記憶している。再編騒動なんてカッコつけてみたところで、たかが知れている。結局は体のいい言い訳に過ぎない。

 要は、『出る』。

 幽霊だかオバケだか知らないが、いわゆるこの世ならざるモノが。

 ヤクザが幽霊にビビってるなんておかしな話だ。河島も、当時は冗談だろうと鼻で笑っていた。

 しかし、中心となってビルの捜索をしていた二人が見てしまったと逃げ帰ってきた。そして支離滅裂なことしか口走らなくなり、ついには組を抜けてしまった。そのあとの一人も。そして、そのあとの二人も。

 ということが、実際に起きたのだ。

 幽霊に時効があるのかはわからない。だから、もし、彼らの証言が狂言ではなく本当だったとして、今もこのビルに『出る』のかは、誰も知らないわけだった。

(まさか、な……)

 当時はなかなかインパクトのある出来事だったものの、時が経てばその記憶も薄らぐ。だからこそ、こうして再び捜索に乗り出した。人間は、悪い記憶にこそ、自分に都合が良い形に作った蓋をしてしまう生き物だ。

 河島だって、例外ではない。正直なところ気乗りはしなかったが、本当に『出る』とは思っていない。

(そうそう。いるわけねぇって)

 埃や、老朽化して剥がれ落ちた壁紙まみれの床は、足を踏み出すたびにざくざくと音がする。ざく、ざく、ざく。小気味よい音が、河島の緊張感を徐々に和らげていった。

「さっさと終わらせるかぁ」

 わざと大きな声でぼやく。

 何もありませんでした。なんて間抜けな回答を持ち帰るつもりはない。けれど、期待されているようなシロモノが出てくるあてもない。

 適当にそれらしく、それっぽい何かを見繕うのが河島が思いつく最善の解決策だった。

 そうと決まれば、行動あるのみ。事務所にあった年代ものの、無駄にデカい懐中電灯のスイッチを強に合わせる。あたりがパッと明るくなった。ざくざくとした足場の音のとおり、やけに散らかり、汚らしい床が現れた。

 その瞬間。


『いらっしゃい』

「はいはい、いらっしゃいました〜、……は?」


 河島は呑気な返事をして、次の瞬間にはその呑気な表情のまま固まった。

 ここには、自分しかいないはずだ。それなのに何か別の……。

 突如聞こえた声は、女のようで、男のようで、そのどちらでもないような不思議な存在感を持っていた。

 いや、まさか。

 いやいやいや、まさか。

 ある可能性を考えては、頭の中で否定を繰り返す。

 すると、背後でパキ、と何かが折れる音がした。

 背筋を不快なものが駆け上がるのを感じながら、恐る恐る振り返る。いや、振り返りたくなんてなかったが、人間の反射神経に負けてしまった。

 しかし、そこにいた人物を見て河島は拍子抜けした。緊張を返してくれと言いたい。

「なんだよ、松木サンかよ」

 ため息の大盤振る舞いを披露する。がっかり、嘲笑、虚勢。何だか色々な感情が混ざっていた。認めたくないが、安堵も混じってる。決して認めたくないが。

 その人物ー松木は県警の組織犯罪対策本部、つまりはヤクザのお目付役に、最近配属された刑事だった。

 年齢は河島と同じく26歳。長身で、黙っていれば女に困らない見た目をしているのに、やたら鋭すぎる目つきが難点だった。

 松木は、ただでさえ不機嫌そうに歪めた口元をさらにひん曲げて言った。

「なんだとはご挨拶だな。てめぇのお守りしてやってるんだ」

「ただの監視じゃねえか」

 組が動けば警察も動く。それはもはや天秤の両側のようなもので、事の大なり小なりに関わらず、ついて回る仕組みだった。今回は松木が、河島の行動を『見守り』役になったというわけだ。

「ったく、仕事増やすなよ。大人しくしてろってんだ」

 これ以上ないほどに、面倒くさげな声が辺りに響く。この男のやる気のなさは、柄にもなく河島が心配になるほどだった。

「それは夜逃げした本人に言ってくれ」

「御大の気まぐれも困ったもんだよなあ」

「……それは否定できねぇ」

 はからずも意見が一致してしまう。と。

 ぱき、ぱき、ぱき。

 先ほど、松木が現れた時とは明らかに違う種類の音が、数度聞こえた。

 まただ。背筋をぞくっとしたものが再び駆け上がっていく。

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