たんたんと悪行ほのぼのとグロテスク
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洞穴の奥
少女の悲鳴は森の外まで届かなかった。夜半にかけて冷えた大気が細い月明かりを薄靄にまき、深く茂る木々の枝葉が音を吸う。立ち入れば巨大な怪物に呑まれたも同じだ。古く魔物と呼び習わされてきた異形異様の怪物は日を追うごとに数を増やし、元来の主たる獣から森を簒奪したとみなされている。人が膨大な時間と無数の命を費やし拓いた道も血路に還った。
三日ほど前、さる有力貴族の所有する馬車が護衛もろとも行方知れずとなった。誰しもが自然と同乗の娘は土に還るか魔物の胃袋に収まったのだろうと考えた。
しかし、左の腕を失いながら逃げ延びてきた傭兵が、街に着くなりドス黒い血の泡とともに『盗賊に襲われた』と吹き事切れたことで事態が変わった。
傭兵の、異様に赤濡れていた衣服を剥ぐと、鋭利な刃物で胸にこう刻まれていた。
『娘を買い戻す気はあるか?』
平民と家畜を同列に扱う貴族も人の親ではあったらしい。大金と自身の名を入れた感謝状を報酬に娘の救出を請い求めた。民はおろか、自身の私兵すら見て見ぬふりをした。
当然である。
賊は魔物の彷徨く森に陣を敷く。凡百の戦士では手に負えない。貴族の請願は、魔に抗するため歴史上はじめて多国間が協同で作り上げた組織への依頼となった。
その組織は、職能を智力・武力・勇気と定め、俗に冒険者ギルドと称されていた。
森は静寂に満たされていた。闇を貫くように伸びる道の名残。悍ましき死臭が漂い、忌々しき蝿が舞う。激戦を伝える夥しい数の足跡。死体はない。あるべきの馬車もない。
しかし、藪を越えて森の奥へ誘う邪悪の臭気は隠しきれない。
奥へ奥へと臭いを辿ると、薄ぼんやりと光が漏れる洞穴に着く。まだ森に獣と人とが共生できていた頃、鉱石の採掘に使われていた穴だ。
手前に歩哨と思しき気だるげな賊が三人。奥へ進むと焚き火を囲む賊が五人。寝ている一人を含む三人は人間で、二人は獣の口吻をもつ獣人である。森に紛れる盗賊の正体。獣人の力を借りて森に紛れていたのだ。
さらに奥、光なき道に歩哨が三。木扉を抜け三叉路の左を選ぶと広間に達する。また賊が二人。年の頃は十六、七とみられる少年二人が、焚き火にかけた鉄鍋を前に、粗末な椅子に腰掛けている。一人は落ち着きなく首を振り、一人は澱んだ沼の底を思わせる昏い眼をして木杓子で鉄鍋をかき混ぜている。
「ま、まだっスかね! アニキ!」
騒がしい方の、まだ子どもらしいあどけなさを残す少年が言った。
ゆっくり、ゆっくり木杓子で鍋を混ぜていた少年が、一瞥すらくれずに口を開く。
「だから、アニキって呼ぶのやめてくれないかな?」
気怠さだけが詰め込まれた声。酷く冷たい目つきや、黒く硬い乱雑な短髪や、他の賊と異なり手入れの行き届いた革鎧や、歴戦を思わせるがしかし傷一つない手が、彼の痩身に異様な圧力を持たせていた。
「えと……す、すいません、アニ――副団長!」
慌てて言い直す少年に、今度こそは一瞥をくれ、異様な気配の少年が答えた。
「だから、副団長でもないんだって」
「え、あの……じゃあ、なんて」
「だから、いつも言ってるだろ? アウルでいいって」
鼻でため息をつき、アウルは鍋をかき混ぜた。「すいません……」と縮こまる少年を意識から排除し、その背中の向こうの扉の奥に意識を向ける。
目張り代わりに布を詰めてもまだ聞こえてくる、幽かな悲鳴。
三日ほど前に襲撃し、生け捕りにした、貴族の娘の悲鳴だ。
上手くすれば大金になるはずで、下手でも小金になるはずだった少女の、値が下がる音だ。
生け捕りにしたら高額な衣服は剥ぎ、あとは指一本ふれてはいけない。アウル自ら指示したのだが、三日もたなかった。数ばかりあっても邪魔だからと馬を潰して食べようとしたのが失敗だった。人任せにすると獣人しか喜ばない代物になるし、誰も彼も野草の見分けすらできないため、アウル自ら臭み消しのハーブを探しに森に出てしまったのだ。せっかくだからとキノコやら木の実やらも集め、少し遅れて戻ってみれば、愚かな賊は獣欲に流されていた。
アウルの酷薄な眼差しに愚者共は震え上がった。彼の非情は誰もが知る。出が狩人だからか悲鳴や命乞いに眉ひとつ動かさず、顔色すらも変えずに獣のみならず人まで解体(バラ)す。
愚かな賊が言い訳を並べたてるよりも早く、アウルは言った。
『始めちゃったんなら、もういいよ。うるさいから目張りしてそっちの部屋でやって』
そして今に至る。正直なところ、アウルは殺意を覚えた。けれど、バカを始末したとて何が得られるものでもない。一人で馬車を襲うのは骨が折れるし、囮や身代わりは多いに限る。
魔物の増加に伴い家業の狩人に見切りをつけ、街へでて冒険者ギルドに加わり、私兵なり旅人なり、運さえ良ければ国家の勅命を果たす、俗に勇者と呼ばれる存在になる――。
アウルの浅はかな夢は、入会費を払えないという一点で挫けた。
まともなおこぼれ仕事では数年かかる額だ。焦りから裏稼業に片足を踏み込んでみたら、あとはもう一瞬だった。気づけば盗賊団の副頭目あつかいで、いくら躾けてもアニキと呼んでくるバカに懐かれていた。これが、どうしてため息をこらえずにいられるだろうか。
アウルは木杓子を鍋から引き抜き、簡素なテーブルの椀に置いた。
「……で、何が?」
そう訊ねると、黙りこくっていた少年が物音を聞きつけた子兎のように跳ねた。
「え!? え!? な、何がッスか!?」
「……だから、さっきさ、まだかって聞いてきたよね? 何が?」
「え……?」
ほんの数瞬前の会話すら覚えていられないのだろうか。少年は天井を見上げ子供のようにうんうん唸りだした。アウルは鼻を鳴らして木杓子と椀に手を伸ばそうとした。味見させてやるつもりだった。彼のつくる晩飯は団内でも好評なのだ。
けれど、少年が肩越しに扉を見やり股ぐらを両手で隠したため、その気は失せた。
「お、おれの番、まだかなって」
所詮は賊だ。光の戻りかけたアウルの瞳がまた暗黒に沈む。木杓子へ伸ばしかけていた手で焚き火の小枝を拾い、先端の火を吹き消して、板切れに炭文字を書きつけていく。
宝飾品、馬、積んでいた食料、剥ぎ取った衣服や装備……上手く捌けた場合の皮算用だ。娘の価値はいま現在も大幅に目減りしている。傷が増えれば恨みを買う。恨みを買えば追手が増える。追手が増えれば終わりが近づく。
どれだけ頭が悪いんだろうか。アウルは心中に呟き、板切れを爆ぜる焚き火に投げ込んだ。
「ヤりたきゃ止めないけどさ。あいつらの病気ももらうかもよ」
「え」
考えてもいなかったのだろう。少年は絶句したのち扉と鍋のあいだで視線を往復させ、俯いた。やがて少年はおずおずとアウルの前に置かれた木杓子を取り、鍋に入れた。視線で許可を請われ、アウルは小さく頷き返す。椀を取り、手渡してやろうとしたときだった。
少年は木杓子から直接、口に運んだ。そしてまた、木杓子を鍋に戻した。
「っくぁぁぁぁ……やっぱアニキの料理、美味いッスね!」
そう振り向く少年らしい笑顔に、アウルは如何ともし難い怒りを覚えた。もし、彼の背後の扉が開かなければ、殺さずとも殴りつけるくらいはしたかもしれない。
一瞬だけ聞こえる耳に痛い悲鳴。男達の下卑た笑声。重苦しい音とともに扉が閉ざされ、鼻を刺す悪臭を連れて半裸の男が歩いてきた。緩んだベルトを締め直し満足げだ。水浴びすらロクにしないため獣臭と貴族の娘がつけていた香水の残り香が混ざり、最悪の一語に尽きた。
「いやー、うるせーのなんの――」男はへらへら笑いながらアウルの横の地べたに座り、少年の視線に気づいて舌なめずりした。「でも具合は最高。一発しばくとすげぇ良いぞ」
少年が股間を押さえて背筋を伸ばした。
「あ、あの、アニキ! おれ、いっ、いいスか!?」
問われ、アウルはふつふつと煮える鍋を冷めきった目で見つめて言った。
「……だから、アニキって呼ぶのはやめてくれよ」
アウルの言葉をどう受け止めたのか、少年は椅子を蹴倒す勢いで立ち、扉にすっ飛んでいった。また悲鳴が漏れた。
しかし、今度は男の怒号が被さり、殴打する音が続いた。
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