第三十話 確かに、ここにいる
エルデさんは、こちらに身を乗り出して、続ける。
「ユリエルちゃん、想像妊娠って、知ってる……? お腹に赤ちゃんがいなくても、妊娠と同じ症状が出るの。
ねえ、あなたは未婚の令嬢よ? 勘違いで自分の将来を縛ってはいけないわ」
ああ、この人は、エルデさんは、嫌がらせでこんな事を言ってるんじゃない。本気でノエルの存在が分からないのだ。そして、私を心配してる。だけど、どう説明したら……
何だか、胸が苦しい。強い感情が湧き出る。
辛い。悲しい。分かってもらえない。気付いてもらえない。気付いて欲しいのに。愛して欲しいのに……
全身を縛り付けるような慟哭が走る。不意に、周囲の色彩が歪んだ。身体の表面に、チリチリと火花が走る。
「な…に…………転…移……?」
悲鳴のような周囲の声が、途切れる。いつの間にか、私は空間の狭間に飲み込まれていた。
一体どこに行くんだろう……
数秒後、私はどこかの街の片隅に降り立とうとした。
「キャハハハハ!」
近くで遊ぶ、子供の声がした。
瞬時に、空間の出口が閉じる。
えっ……?
空間の裂け目に閉じ籠ったまま、再び、周りの色彩が混ざり込んで、別の空間に繋がる。そして、すぐに閉じる。それが何度も何度も繰り返される。
……命の気配を避けている。そう感じた。
この子は、自分の命を見えない、感じないと言われて、傷付いているのだ。
空間の裂け目が見えて、そこに着地しようとして、でも、そこに誰かの、何かの命を感じるたびに、出口を閉じて再び時空を歪める。本来だったら数秒で終わる転移魔法が、いつまでも終わらない。空間のかぎ裂きが、私を痛め続ける。火花が皮膚を灼き続ける。
痛い、助けて……!
ううん、それより、ノエルは、無事なの……!?
目を閉じて、自分の内側を見つめる。
荒れ狂う感情の嵐の奥に、厚く立ちはだかる壁があって、その中心に、今にも消えそうな小さな輝きがあった。
届くかどうか分からないけれど、光に向かって、心の中で言葉を紡いで、声に載せる。
「ノエル……ノエル……聞こえる? ううん、聞いて。
私はノエルのこと、大好きだよ?
ノエルが、とっても、大事だよ?
ノエルに、幸せでいて欲しい。悲しんで欲しくない。傷付いて欲しくない。
どんな事情であれ、ノエルが私のところに来てくれて良かった。
こんな頼りないお母さんじゃ、嫌かもしれないけど、私は大好きだよ?
お願い、泣かないで。大丈夫。私は、ノエルが分かる。ここにいるって、分かる。
ノエルが、元気に生まれてきてくれるのを、待ってる。
だから……」
歪み続けていた空間が、ゆっくりと戻る。身体に、外の風が当たった。地面に足が着く。でも、もう立っていられなくて、その場にくずおれた。草むらがある。青い匂いがする。葉先が少しチクチクする。
影が近寄る。知っている影だ。……この人も、ボロボロになっている。
ずっと、追って来ていた……?
傷だらけの腕が、傷だらけの私を抱き上げる。意識が遠くなっていく……
***
気が付くと、私はエルデさんの部屋のベッドに横たわっていた。
「ごめんなさい! ごめんなさい! こんなことになるなんて……」
エルデさんが、潤んだ目で、何度も繰り返している。
「アロイスさんから、あなたが魔法を使えないのは聞いたわ。間違いない、私の目に見えなくても、感じなくても、誰かが、ここにいるのね……」
彼女は私のお腹の上に、そっと手を載せた。
「治療を始めよう。場所を代わってくれるだろうか」
エルデさんがベッドの脇の椅子を立つと、アロイス様がそこに座った。顔や手に、無数の切り傷や擦り傷が見える。
戦争から帰った時だって、こんな姿じゃ無かったのに……そう思って、瞼に熱が集まる。
「もう、大丈夫」
彼の右手が私の目を覆った。
足元から、髪の毛先まで、緩く、温かい光が当てられる。おそらく左手を少しずつ、全身にかざしているのだろう。光属性の治癒魔法が、身体中のひりつく痛みを消していく。
光が消えたのを感じて、目を開けると、アロイス様と目が合った。優しい眼差しだった。
「起き上がれるか?」
「えっと……ええ、立てそうです。すっかり良くなりました。ありがとうございます」
立ち上がった私の横で、彼は、自らにパパッと適当に治癒魔法をかけた。その手つきがすごくぞんざいで、苦笑してしまう。それでも、アロイス様の顔にも腕にも、傷は一つも残っていなかった。
「あなた達には迷惑をかけてしまったわね……」
シーツを直したエルデさんは、そのままベッドの端に腰掛けた。
「二人には、本当のことを話すわ」
俯いた顔をあげ、真剣な瞳でこちらを見上げる。
「あなた達に言伝を頼んだ、赤い髪の男の名は、ゾンネ。この大陸の昼を統べる神よ。
……そして、私の夫なの」
「では、あなたも……」
アロイス様の言葉に頷き、彼女は言った。
「ええ、私は、この大陸の夜を統べる者よ。でも今は…………呪いを受けて、力を出せなくなっているの。まさか命を見る眼まで失っているとは、思わなかったけれど」
「あの、神様を呪える者なんて、いるんですか?」
「この大陸に、一人だけいるわ……」
私に視線を移した彼女は答える。
「地底の魔女よ」
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