第二十六話 第二王子の待ち伏せ

「さあ、こちらにおいで。君は騙されてるんだ。実験材料になんか、もう絶対にさせないからね」


そう言うと、右手を差し出してくるシェラン様。


「殿下……何か、考え違いをなさってませんか? 私はそんな扱いを受けてはいません」


エスコートには応えず、一歩、後ずさる。そして助けを請うように、横目でチラリと近衛騎士を見た。その視線に気付いたシェラン殿下は、彼の方を見て、すかさず付け加える。


「ドレイク、君は私の意見に賛成だろう?」


「いえ、私は……その…………はい」


ドレイクと呼ばれた騎士は、口ごもりながらも、殿下に逆らうことをしない。ああ、彼は年齢的に、殿下の学友だったのだろう。……しかし、不味いことになった。


「ほら、彼もそう言っているだろう? 私に付いてくるといい」


周囲を見回すが、こんな時に限って誰も通りかからない。私が立ち止まったままでいると、痺れを切らしたのか、殿下の声のトーンが少し低くなった。


「彼女を保護する。貴賓室に連れていってくれ」


ドレイクと呼ばれた騎士は「申し訳ございません」と小声で言いながら、私の上腕部を、解けない強さで掴むと、無理やり連行する。


「止めてください! 私は自宅に戻ります! 誰か!! 誰か来て!!」


叫びは人気のない廊下に響いて、消えた。貴賓室は身分の高い客人がいなければ、普段ほとんど使われない。そのため警備の者もいない様子だ。いくつかある貴賓室の一番奥、突き当りの部屋に押し込むように入れられ、ドレイクと入れ違いにシェラン様が部屋に入り、ドアを閉める。背を向ける彼の手元から、カチャリと小さく、鍵のかかる音がした。


「さあ……何から話そうか」


「話すことなんかありません。とっくに婚約を破棄した政略結婚の相手に、何故こだわるのですか。私が婚約者に返り咲くことなど、万に一つもありません」


「うん……結婚なんて、しなくてもいい。君はただ側にいてくれれば、それでいいよ。

愛しているんだ、ユリエル。他には誰も要らない。本気なんだ。お願いだから、私のことも愛して欲しい」


どうして……どうして、今さら? 婚約中は微塵もそんな素振りは見せなかったのに……ううん、それどころか、これは政略結婚だと強調してきたのは、あなたなのに。ビジネスパートナーだと口にしたのは、あなた自身。忘れてしまったの?


婚約を破棄する前なら、この言葉をもっと前向きに捉えることができたかもしれない。だけど、もう無理。私には、好きな人ができてしまったから。彼以外の誰かと一緒に生きるなんて、できない。


「……お断りします」


それを聞いても、シェラン殿下の表情は変わらなかった。


「そうか……そこまで洗脳されているんだね。本当は君の心を手に入れてから、と思ってたけど……

少しくらい、順番が違ってもいいよね?」


彼は私をベッドに押し倒し、そのまま上着を脱ぎ始める。私は何が起こるか瞬時に察し、身体を起こすと叫んだ。


「嫌……! 誰か!! 助けて!!」


しかし、声は廊下の途中で薄れ、消えていく。助けは来そうにない。


「大丈夫、悪いようにはしないから」


そう言いながら、息遣いが荒くなってきた殿下は、再び私をベッドに押さえつけ、覆い被さってくる。そしてドレスの裾に手を入れ、スカートを上の方まで捲り上げようとした。だが、その瞬間……




「グエッ!!」




すぐ近くで、カエルを踏み潰したような声がした。つい今しがたまで、自分の真上にいた殿下がいない。急いで身体を起こすと、壁際に吹っ飛んだと思われる殿下が、腹部を押さえ、ゴロゴロと床をのたうち回っていた。視界の下の方には、彼の腹を全力で蹴飛ばした、自分の脚がある。


私の意思じゃない。ノエルだ。お腹の奥から、とてつもない怒りが伝わってくる。身体が勝手に動いてベッドから下りると、痛みに脂汗を流す殿下に近付き、その後頭部をガシッとヒールで踏みつけた。


「あああっ! それは! そこまでやっちゃダメ!!」


ノエルを大声で諌める。すると、私の身体を取り囲む空間が、チリチリ音を立て、ゆらゆらと陽炎のように揺らぎ始めた。


な、何……? 


よく分からないけど、この感じはどこかで見た気がする。そうだ、アロイス様が、転移陣でカールを家族の元に送り届けた時に目にしたのと同じ……


まさか、転移魔法!? ……ノエルが?


瞬く間に、シェラン殿下と貴賓室のインテリアが視界から消え、さまざまな色がうねったような、初めて見る空間に投げ出された。全身に静電気のような異和感があって、パチパチ火花が飛ぶ。アロイス様と一緒に隣国に向かった時、転移魔法を使わなかったのは、このせいかもしれない。


ほんの数秒。

だけど、とても長く感じる数秒を経て、私が次に降り立ったのは、見覚えのある玄関ホールだった。

右には私設研究所、左に住居がある、この造り……


「ユリエル様! いらしてくれたんですね!」


呆然と立ちすくんでいる私に明るく声をかけたのは、メイドの精霊、パールだ。彼女は軽やかに階段を下りて駆け寄ってきた。


間違いない、私が飛んできたのは、アロイス様の私邸だ。一気に力が抜ける。自宅よりも安心する場所で、私ははらはらと、安堵の涙をこぼした。

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