幕間 シンラの剣(下)


 シンラ・レンには二人の師がいる。

 一人目は実の兄。

 かつてシンラと模擬実践を行い、夜叉女のごとき才能を開花させたシンラによって斬り殺された最愛の家族。

 もう一人がカキョウ・ゼツ。

 シンラに剣術の基礎と心得を教えた錬王家の剣術指南役。

 幼き姫が実兄を殺害した事件により、『監督不届き』という罪状によって国外追放となった犯罪者である。



     〇          〇          〇



「久しいな……老師」


「おや……これは珍客だ。まさか、またお会いできるとは思いませんでしたよ。シンラ姫」


 シンラが声をかけると、屋敷の軒先に座っている老人が顔を上げた。


 猪鬼の討伐を終えたシンラはギルドへの報告を済ませ、その足で行商人から聞き出した住所へと向かった。

 すでに日は傾きかけていたが……気にする余裕はない。一度、後宮に戻って出直す手間を惜しむほど、シンラは焦燥に駆られていたのである。


「…………」


 久しぶりに見た師の顔は、シンラの記憶にあるものよりも瘦せ衰えている。

 無理もないことだろう。老師――カキョウ・ゼツはすでに七十歳を越えた老体。長命種の亜人ならばまだしも、人間としてはいつ亡くなってもおかしくない高齢だった。


「……顔を合わせるのは、老師が国を追放されて以来になるか。私が兄を斬ったせいだな」


「そんな顔をなされるな。あれは誰のせいでもございませぬ。二人の剣士が向かい合って斬り合い、一方が生き残って、一方が命を落とした。そこに善悪などはございませぬ」


「そうか……そうだな。老師ならばそう言うのだろうな」


 剣術指南役として錬王家に仕えていたカキョウは高潔な剣士であり、ある種、狂気的とも思えるほどのストイックさを持っていた。

 仮に血のつながった子や孫が決闘で敗れて命を落としたとしても……この老人であれば、恨み言を口にするよりも勝者の武技を心から称賛することだろう。


「兄殿下が命を落としたこともまた剣の道を歩む者として避けられぬ定め。弱者の屍を乗り越え、強者が前に進む……それこそが剣の正道でありますゆえ」


「私も……あるいは父も、そんなふうに割り切ることができたのであれば良かったのにな。人の心とはままならぬものよ」


「然り。それで……シンラ姫。某に会いにきたのは旧交を温めるためではないのでしょう? いかなる理由で訊ねてこられたのかな?」


「……ゼツ老師。我が剣の師よ。今さらこのようなことを頼むのは恐縮極まりないのだが……私に今一度、剣の指南を授けてはもらえないだろうか?」


 シンラは地面に両膝をついて正座となり、頭を下げた。

 いかにカキョウ以外の人間がこの場にいないとはいえ……一国の姫が、一国の妃がこのように膝を土に汚して頭を下げるなどあってはならないことである。


「私は強くなりたい。ならねばならない……どうか、どうかよろしく頼む……!」


「……変わりましたなあ、シンラ姫。随分と丸くなられた」


 カキョウがどこか苦々しい口調でつぶやく。


「強くなりたい……それは剣士にとって当然の願望。間違ってはおりません。ですが……以前の、兄を斬り捨てた貴殿であったのならば、そのように頭を下げることはなかったはず。問答無用で斬りかかって某を砥石として扱ったことでしょう」


「…………」


「何がシンラ姫をそんなふうに変えたのですかな? 貴殿の中にいた怪物――『修羅』を消し去ったのは何処の誰でしょう」


「夫だ。我が夫が『修羅』を斬り捨て、私の心に張った霧を晴らした」


「そうですか……夫。剣の申し子。生まれながらの鬼神である貴殿も所詮は女でしかなかったということですか」


 カキョウが深い溜息をついて、軒先から立ち上がる。

 杖のように傍らに置いていた刀を拾い、白い刃を抜き放った。


「錆びついた刃には興味は微塵もございませぬ。『修羅』を無くして角が取れた貴殿の姿は見るに堪えない」


「老師……」


「立って剣を抜きなされ。薫陶を授けた者の責任として、引導を渡して差し上げよう。せめて我が剣を受けて死になされ」


「……承知した。一手、お相手つかまつろう」


 シンラは立ち上がって、腰の刀を抜き放つ。

 すでにカキョウは剣を抜いている。一度、刃を手にした老人が言葉で脚を止めることはないだろう。

 もはや斬り合うほかに道はない。


「先手は譲って差し上げます。どうぞお好きなようにされるが良い」


「ならば……参る!」


 小さな屋敷の庭で向かい合う両者。

 老師の誘いに応じて、シンラが上段から斬りかかった。

 袈裟懸けに振り下ろされた刃。迷いのない一撃、並の使い手であれば、何が起こったのかも気づくことなく斬り捨てられていたことだろう。


「ホッホ、速い速い」


 だが……もちろん、目の前の老人には通用しない。

 カキョウは鋭い一撃を軽く背中を逸らして回避し、カウンターで横薙ぎの斬撃を繰り出した。


「ム……!」


 もちろん、シンラも大人しく斬られるようなことはしない。

 前方に踏み出した足を軸とした高速のバックステップ。一瞬で老人の間合いの外まで飛び退いた。


「逃がしませぬぞ!」


 カキョウがシンラを追いかけてくる。

 枯れ木のように細い脚からは考えられないほどのスピードで、シンラに追撃を仕掛けてきた。


「クッ……!」


「ムンッ! ムンッ! ムンッ!」


 カキョウが次々と斬撃を浴びせかける。

 正面からまっすぐ刀が振るわれたかと思えば、意識の外から潜り込んでくるような斬撃。

 右かと思えば左。上かと思えばした。

 虚実を織り交ぜた斬撃は雲のように掴みがたく、シンラは防戦一方に追いやられてしまう。


「さすがは老師……凄まじい剣技だ!」


「この程度で感心していては先はございませぬぞ! ぬうんっ!」


「ッ……!」


 力強く振るわれた一撃を刀で防御する。

 魔力で強化された凄まじい膂力。防御ごと後方へ吹き飛ばされ、シンラはどうにか受け身を取って体勢を整えた。


「そういうシンラ姫は随分と温い……よもやとは思いますが、この期に及んで某を殺したくないと思っているのではないでしょうな?」


「そんなことは……」


「ないと断言はできぬでしょう? 貴殿の剣には殺気が込められておりませぬ」


「…………」


 シンラは唇を噛んで黙り込んだ。

 そう、シンラにはカキョウを殺すつもりはなかった。

 相手はかつて『剣聖』とまで呼ばれた男。本気で戦わねば袖すら斬ることはできぬとわかっているが、それでも同郷の知人を殺すことは躊躇われる。

 もしも、カキョウを斬ってしまったら……振り払ったはずの『修羅』に再び憑りつかれてしまうかもしれない。

 そんな思いが全力で剣を振るうことを躊躇させていた。


「甘く見られたものですな。やはり弱くなられた。男に惚れ、安寧を求めたことで刃を鈍らせたのです。かつての貴殿であれば迷わずこの老骨を斬り捨てていたことでしょう」


「老師、私は……」


「問答無用。剣士であるならば一刀を持って語られよ。それが出来ぬのなら……」


「ッ……!」


 シンラが横に飛んだ。その瞬間、老人が振り下ろした刃が地面をえぐる。

 少しでも回避が遅ければ、シンラの身体は真っ二つに両断されていたことだろう。


「そのまま死ぬが良い。錆びついた刀剣はへし折るしかあるまいて」


「クッ……!」


 シンラは刀を振った。全身に魔力を纏わせ、身体能力をブーストした攻撃を老人にぶつける。

 しかし、そんな攻撃をカキョウは最小限の動きで受け流していく。

 パワーもスピードも間違いなくシンラの方が上であると断言できる。

 それなのに……攻撃は当たらない。かすりもしなかった。

 技量の差。実戦経験の差。それ以上に両者の勝敗を分けているのは殺戮の意志。相手を殺すという覚悟の差が立ちふさがっていた。


「私では……老師を斬れぬというのか。追いつけないというのか……!」


「かつての姫様であったのならば、あるいは可能であったかもしれませぬ。ですが……女となって堕落した貴女に斬られるほど、この爺は甘くありませぬ」


「ッ……!」


 カキョウが振るった剣がシンラの肩を斬り裂いた。

 服が破れ、真っ赤な鮮血が地面に飛ぶ。


「まずは一太刀。続いて……」


「させぬ!」


 シンラが刀に風をまとわせ、老人に向けて放つ。

 孔雀風天――音速の風の刃を撃ち放つ必殺剣。

 シンラにとって奥の手の技であったが……カキョウは右手の刀を一閃。風の刃を断ち斬った。


「その技を教えたのが誰だと思っているのですかな? 師である我に通用するとでも?」


「……やはりダメか。万事休す。まさかここまでとはな」


「大人しく首を差し出すのであれば苦痛なく送って進ぜよう。そこに直られよ」


「…………」


 老人に勝利することを諦めかけているシンラであったが……それでも、刀を手放すことはしなかった。

 勝機がないと知りながらも、老人に刀の切っ先を向ける。


「……わかりませぬな。どうして、そうまで生に縋りつこうとするのですかな?」


 カキョウが呆れたように肩を落とす。


「すでに剣士としての貴女は死んでいる。これ以上、生きながらえてどうするというのですかな?」


「…………」


「まさか、兄君を斬り捨てた貴女が女としての幸福を得られるとでも? 誰かに愛されるとでも? それこそ、都合の良い夢でしょう。シンラ姫……どうせ貴女はその男に騙されているだけですよ」


「主殿は……シュバルツ殿下そんな方ではない。私は彼を信じている」


「シュバルツというのですか。その男は」


 カキョウはゆっくりと首を振り……やがて瞳を妖しく輝かせた。


「なれば……シンラ姫を斬った後は、その男を探して斬り捨てましょう」


「…………!」


 シンラが息を呑んだ。

 師の口から出たのは予想もしていなかった言葉だった。


「驚いているようですが……当然ではありませんか。貴女という修羅を台無しにしてしまったのですから」


「…………」


「偉大な剣士になるはずだった。鬼を喰い、神を滅するような天衣無縫の剣士になるはずだった。それなのに……つまらぬ男に引っかかり、台無しになってしまった。我が作品・・を踏みにじった者には相応の罰を与えてやらねば収まりがつかぬ」


「…………」


「心配を召されるな。せめで冥府では結ばれるよう、同じ墓に葬ってやりましょう。安心して冥途に旅立たれるが……!?」


 言葉の途中で、カキョウが横に飛ぶ。

 瞬間、鋭い突きが先ほどまでカキョウが立っていた空間を貫いた。


『今のは……!』


「この私がそれをさせると思っているのか? 我が主をみすみす斬らせるような真似をするとでも?」


「シンラ姫、貴女は……!」


 今度はカキョウが息を呑む番だった。

 目の前に立ち、幽鬼のようにゆらりと髪を揺らすシンラ・レン。

 その身体からは明らかな殺意が漏れている。鳴りを潜めているはずの『修羅』の気配を確かに感じ取り、カキョウが唇を釣り上げた。


「……なるほど。『修羅』は消えていなかった。心の奥底に息を潜めていただけでしたか」


 カキョウが歓喜からクチャリと相貌を緩ませた。

 シワクチャの顔が狂気じみた喜びの色で染まっていき、今にも踊り出してしまいそうだ。


「それでいい……それでいいのです! それこそが本来の貴女様の姿! シンラ姫のあるべき形なのですから!」


「…………」


「殺意を解放しなされ! すべてを斬り、喰らうのです! 敵も味方も、親兄弟や愛する男すらも剣の錆にし、血だまりの中に己の居場所を見つけなされ! それこそが、剣の道を歩む者の真に……」


「黙れ」


「ッ……!」


 シンラが刀を振った。カキョウの首に鈍い刃が振り下ろされる。


「おおっ!?」


「…………」


 曲芸じみた動きで攻撃を回避するカキョウであったが、すぐさま次の一撃が放たれる。

 それを避ければ次。またそれを避ければ、さらに次の攻撃が襲ってくる。

 一撃一撃が必殺。背筋が凍りそうになる恐るべき斬撃を、カキョウは紙一重のところで躱していった。


「くううううううううっ! なんという見事な攻撃! 成長されたのですなあっ!」


 カキョウは防戦一方に追いやられている。

 シンラが急に速くなったわけではない。力強くなったわけでもない。

 先ほどまでとの違いはただ一つ。カキョウを殺害することへの迷いが消えたことである。

 今のシンラはカキョウを殺すことに躊躇いはない。迷いが消えたことによる瞬きほどの判断の差が、達人同士の戦いにおいて大きく形勢を変えていた。


「なんと目出度いことか! 『修羅』に身を委ね、本来の姫様に戻ったのですな!?」


「違う……私は『修羅』になってなどいない」


「ぬうっ!?」


 シンラの口から出てきたのは理性的で落ち着いた声音である。

『修羅』に呑まれ、殺意に支配していた頃では有り得なかった穏やかな言葉だった。


「今の私は『修羅』ではない。奴はもう私の中にはいない」


「ならば……殺意のままに剣を振るう貴女は誰だというのです!?」


「知れたこと……シンラ・レン。この国の次代の国王であるシュバルツ・ウッドロウの妻となる女だ」


「…………!?」


 カキョウの左腕が斬り飛ばされた。

 肘から先が切断され、鮮血をまき散らしながら宙を舞う。


「カキョウ老師……我が師よ。心から感謝しよう。貴方のおかげで、私は『修羅』に呑まれることなく殺意を操ることができるようになった」


「シンラ姫、貴女は……!?」


「愛する男のためならば万の敵を斬り伏せ、屍山血河を築いてくれよう。それが今の私……シンラ・レンの姿である」


 かつて、シンラは身の内に宿った殺意――『修羅』を御することができず、衝動のままに殺戮を繰り返していた。

 しかし、シュバルツ・ウッドロウというストッパーを得たことで、シンラの内面にも変化が生じている。

 サガのためではない。衝動のためでもない。

 愛する男のために人を斬る。自分のためでなく誰かのために戦う。

 これにより、シンラは己の殺意を自在にコントロールして潜在能力以上の力を引き出せるようになったのである。


「馬鹿な……他者のために戦うなど、そんな温い覚悟で戦っている者が剣の頂に立てるものか!」


 カキョウが吠え、残った片腕で剣を振るう。


「剣の道は修羅の道。血をすすり死肉を貪る孤高の道ぞ! 他人に足を引っ張られた者が剣の道を究めることなど、断じて出来ぬ!」


「そうか。なれば証明してみせよ。己の正しさを剣をもって」


 シンラがどこまでもスッキリとした、爽快な表情で笑う。


「剣士ならば剣で語れ。そう口にしたのは我が師ではないか。己が正しいと思うのであれば、私を斬って見せよ。私もそうしよう」


「…………!」


 カキョウが表情を歪めた。

 先ほどまでと立場が逆転している。

 これではシンラがカキョウの上に立っており、格下の相手の力を試そうとしているようではないか。


「舐めるなあああああああああああああああっ!」


 カキョウが苛立ちを込めて渾身の一撃を放つ。全魔力を風に変換し、刃として相手に叩きつけようとする。

 それに対するシンラの反応はシンプル。ただ全力の一撃を返す、それだけのこと。


「『護法善神・羅刹天』」


 どこまでも澄んだ心。一切の無駄なく研ぎ澄まされた殺意を剣に込めて、振り下ろす。

 老人の放った風の刃が真っ二つに斬り裂かれ、シンラの斬撃は勢いを落とすことなく師の身体を捉える。


「ッ……!」


 かつて最強と呼ばれた剣士――カキョウ・ゼツは悲鳴の声すら発することを許されず、肉体を両断されたのであった。



     〇          〇          〇



「やはり貴方は良い師だ。おかげで、私はさらなる境地へと踏み込むことができた」


 感謝する――シンラは師の亡骸を見下ろし、小さくつぶやく。

 師を斬り捨ててしまったことへの悲しみはある。だが……おそらく、こういう結果しかなかったのだろう。

 シンラは剣士。カキョウも剣士。

 言葉でわかり合えぬのであれば、剣と剣とでぶつかり合うしかないのだ。


「清々しい気分だ……とても爽快だよ」


 視野が広い。感覚が研ぎ澄まされている。

 かつて、シンラは『修羅』によって支配されて、抑えきれない殺意に振り回されていた。

 シュバルツと戦って敗北したことで『修羅』を消し去ることに成功したわけだが……今は調伏した『修羅』を完全に支配下に置いている。

 『修羅』の力――圧倒的な殺意がコントロール下にある。

 殺意を制御する術を得たことで、シンラは剣士としてさらなる成長を遂げていた。


「老師……カキョウ・ゼツ。私は貴殿の望むような剣士にはなれないだろう。だが、それでも前に進み続ける」


 今のシンラには守るべきものがある。

 愛する男のために剣を捧げる……それがシンラ・レンという女が選んだ道なのだから。


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