第十五章 決壊   高倉有隆・2019年1月14日

 猫の死骸にナイフが突き刺さっていた。


 高倉はそれを自宅の玄関の前で見下ろしていた。


 高倉は朝ごみ出しに行こうと、いつも通りごみと掃除道具を持ち玄関の扉を開けたのだが、扉の向こうのマンションの廊下にそれは置いてあった。血は流れていない。死後何日か経ったものだろうか。蛆も湧き、腐ったチーズと生ごみの混ざったような酷い腐敗臭がした。


 一月のまだ冷たい外気の中、腐敗臭が身に堪えた。高倉はこの死骸が邪魔だと思った。


 高倉は玄関の扉から顔を少しだけ出して廊下を見渡した。この角部屋以外の部屋の扉は閉まっており、誰も廊下に居なかった。今日は月曜日だが祝日だから皆まだ寝ているのだろうか。まだ誰もこの死骸を発見していないのだろうか。嫌がらせが酷くこのマンションに引っ越して来る前に住んでいたアパートでは、猫ではなく鼠だった。


 高倉は一旦玄関の扉を閉めると、廊下の横にある洗面所の中に入り引き出しを開け、ごみ袋を一枚、ゴム手袋を二枚取り出した。


 手にはめていたニットの手袋を脱ぎ捨て廊下の床に置くと、ゴム手袋をはめ、ごみ袋を持って再度玄関の扉を開けた。


 マンションの廊下を確認する。まだ誰も居ない。


 高倉は異臭と蛆を我慢しながら猫の死骸を持っていたごみ袋に入れ、玄関の中に入れると、そっと玄関の扉を閉めた。


「有隆君、どうかした?」笠木が居間の扉を開けて廊下にやってきた。高倉の持っていたごみ袋に目をやり、顔をしかめた。「何この匂い」


 高倉は笠木に見つからない事を願っていたのだが、仕方なく説明する事にした。「猫の死骸ってどうすればいいと思う?」


「猫?」笠木は怪訝な面持ちで近付いてきた。「猫って、どういうこと」


「なんでもないよ」高倉は猫と言う言葉をつい口に出してしまった事を後悔しながら猫の死骸の入ったごみ袋を縛ろうとしたが、笠木がやって来て高倉の手を止めた。


「まさか猫が入ってるの、それ」笠木は顔をしかめたまま高倉からごみ袋を奪い、ごみ袋を開いて中を見た。「嘘でしょ」


 笠木は一瞬嘔吐くと、左手で口元を抑えたまま廊下の横にあるトイレへ駆け込み、吐いた。


 高倉はため息をつき猫の死骸の入ったごみ袋を縛ると、玄関に置き笠木を心配した。


「ごめんね、大丈夫?」トイレの扉を開けて笠木を見た。


 笠木はしばらく便器の前に座っていたが、口元を抑えたまま無言でトイレの横にある洗面所へ行き、うがいをして水を飲んだ後、高倉の方を見た。


「酷い」笠木は電気の点いていない暗い洗面所の中で、泣きそうになりながら声を出した。「誰がこんなことしたの?なんでこんなことが出来るの?」


「本当に酷い事だね」高倉は内心面倒だとしか思っていなかったが、笠木の手前そう言った。笠木のような感受性豊かな人間ではなくてよかったとこの時初めて思った。


「ちゃんと埋葬してあげなきゃ」笠木は頬から涙が流れていた。


 高倉は涙を拭いてあげたかったが、両手にはゴム手袋をはめていたので何も出来なかった。


「ごみ袋なんかに入れないで。何か箱とか、段ボールでもいいんだけど。何かないの?」笠木が聞いてきた。


「段ボールならある」高倉は一昨日届いた本の梱包に使用されていた段ボールを、自室に置いてある自分の机の片隅に置いたままにしていた事を思い出して言った。


「ならそれに入れてあげよう。警察とかに届けた方がいいのかな」笠木は聞いてきた。


「保健所に連絡すればいいんだろうけど、無理だよ」高倉は言った。


「何で?」笠木は涙を拭い、高倉の顔を見て言った。


「動物虐待を疑われたくない」高倉は言った。「前回の鼠数匹の時は警察に疑われた」


「あれは理不尽だったよ。今の管轄はあの警察官じゃないと思うし、警察じゃなくて保健所に連絡するなら、大丈夫なんじゃない?」笠木は言った。「誰かに見られたの?」


「やっぱり俺が山にでも埋めてくるからいい」高倉はゴム手袋を外し玄関横に置いてあったごみ箱に捨てると、自室に置いてある段ボールを取りに向かった。段ボールを持ちまた廊下に戻ったが、死骸を段ボールに移すならまたゴム手袋をはめなければならない事に気付いた。「死骸、触らないでね。感染症とか移ったら困るから」


「僕今日は、九時からイラストの仕事の打ち合わせがあるんだ。何時に終わるか分からない。どうしよう」笠木は困った顔でごみ袋の方に目をやったが、すぐに辛そうな表情をして視線を逸らし、廊下の床を見た。


「俺がやるから大丈夫」高倉は手に持っていた段ボールをごみ袋の横に置いて言った。「段ボールは後でやるから置いといて」


「僕が帰って来てからじゃ遅いよね」笠木が匂いを気にして言った事に高倉は気付いた。


「俺がやるから。約束通り創也を駅前に送った後、山に埋葬しに行くから。車に一緒に乗せても平気?嫌なら別途行くけど」高倉は言った。


「いいよ。早く埋めてあげたい」笠木は言った。「途中で花でも買ってあげたい。一緒に埋めてあげて欲しい。いい?」


「分かった」高倉は内心面倒だと思いながらも言った。


「ありがとう。お願い」笠木はまだ泣きそうになっているのか、鼻を啜ると居間に戻って行った。


 高倉は居間の扉を閉めると、匂いを我慢し猫の死骸を無視して、今日捨てる予定だった可燃ごみと掃除道具を持ち、また玄関の外に出た。


 ワイシャツにニットのカーディガンを羽織り、その上にさらにコートを羽織って手にはニットの手袋をはめていたが、今年の冬は冷えるようでマンションの廊下でも寒気がした。


 廊下の猫の死骸の置いてあった周囲はまだ蛆が数匹落ちており異臭もしたので、高倉はマンションの廊下の窓を開けて空気の入れ替えをした。蛆は後で掃除しようと思い、そのままマンションの五階から一階に降りるエレベーターに乗った。


 高倉は一階に降りると、共有スペースにある郵便ポストを一瞥した。相変わらず高倉の住んでいる部屋のポストには手紙やらチラシが大量に入っていた。これはいつもの事だ。今日はまだポスト自体に悪戯書きがされていない事に安堵した。


 高倉はポストを無視してオートロックのマンションの外に出て、ごみステーションに向かった。


 ブーツを履いていたが昨夜は積雪量が多かったらしく、雪で足元をすくわれた。雪はかなり降っていた。風は強くなく吹雪じゃないだけまだましだが、眼鏡に雪がつき視界が悪い。高倉はごみステーションが今朝は荒らされていない事に安堵した。この積雪量の中、普段嫌がらせをする人間も、外に出てまで嫌がらせをしたくなかったのだろうか。


 高倉はごみを捨てると、ポストへ向かい、ポストの中身を取り出して手に持ち、玄関前の蛆を掃除しに自宅へ戻った。


 高倉は蛆を掃除すると自宅の中に戻り洗面所で手を入念に洗い、雪の付いた眼鏡をティッシュで拭いた。玄関の靴箱の棚の上に置いた郵便物を見た。居間に持って行かなかったのは、郵便物を笠木に見られたくなかったからだ。笠木はまだ居間に居て、居間の扉を閉めているのでこちらが見えない。


 高倉は郵便物を仕分けした。今日は勧誘のチラシが多い。高倉はチラシやパンフレットを靴箱の横に置いてあったごみ箱へ捨てると、残った三通の手紙だけを見下ろした。一通の手紙は笠木宛だった。送付元を確認したが、名前が書いていない。高倉はそれを迷わずごみ箱に捨てた。一通の手紙は宛名さえも書いていない。高倉はそれも迷わずごみ箱へ捨てた。残り一通の手紙だが、これにはパソコンで印刷した文字のシールで、自分の住所と名前が貼ってあった。送付元を確認した。何も書いていない。高倉は迷ったが、封筒を開け中の一通の手紙を取り出して確認した。


 “お前は死ぬべきだ 早く死ね どうせお前が殺したんだろう 人殺し 出て行け 浮気性のクズめ”


 明朝体で書いてあった。パソコンで打ち印刷した文字だ。毎回証拠が残るような手書きの人間は居ないが。


 高倉はため息を吐いたが、ある文字に反応した。“浮気性”これは自分に言った言葉ではない事は理解した。浮気などした事はない。これは被害者遺族しか知らない情報のはずだった。


 弟の起こした連続女性誘拐殺人事件は、全員既婚者の女性か交際相手の居る女性だけを狙っていた。全員遺体の右手か左手の薬指に指輪をはめていたし、遺族の事も知っていたので分かる。


 弟はバーで女性と話した際に、弟と関係を持とうとした指輪をはめていた女性をホテルに連れ込み、睡眠導入剤を飲ませ拉致し、山で絞殺していた。


 警察は遺族の事を配慮し、さすがに女性が不倫や浮気をしたというような情報は外部に漏らしていなかった。マスコミもその事については言及していなかった。


 高倉は被害者遺族の誰がこの手紙を投函したのかは分からなかった。送付元がないから特定は出来ない。ある人物が脳裏に過った。警察に相談しようか一瞬悩んだが、以前このマンションに引っ越して来る前に住んでいたアパートでの嫌がらせも訴えたが何も対処をしてくれなかった事から、通報は諦めていた。弁護士を雇う金はない。高倉はため息を吐き、その手紙を封筒に戻して手に持ち、居間に向かった。


 笠木は居間の中央に置いたこたつの中に入り、座椅子に座ってノートパソコンを開き、何やら入力していた。高倉が居間に入って来たのを見ると顔をあげた。


「いつもごみ出ししてくれてありがとう。寒くなかった?」笠木は心配そうに聞いてきた。


「今日は寒いから厚着して行った方がいいかもね」高倉は自室の窓際に置いた自分の机へ向かい、机の一番上の引き出しを開け持っていた手紙を中にしまい、一番下の引き出しからガムテープを取り出した。居間に戻って笠木に言った。「雪かきして来る。朝食は取った?」


「朝ごはんは食べる気力がなくなった」笠木を見ると項垂れて気分が悪そうだった。「雪かき、僕も手伝うよ」


「いい」高倉は言った。「何か食べないと体に悪いよ」


「後で外で食べられたら食べる」笠木はそう言うと、ノートパソコンを閉じた。「有隆君は朝食食べないの」


「俺も食べる気力はない。悪いけど玄関にまだ来ないでね」高倉はそう言うと、ガムテープを持ち居間から出て廊下へ出た。居間の扉を閉めた。


 玄関横に置いた、先程の猫の死骸の入った袋を見た。高倉はため息を吐いた。何故このまま運んだら駄目なのか。


 高倉はまたごみ袋二枚とゴム手袋二枚を洗面所の引き出しから取り出し、ゴム手袋をはめ、段ボールを組み立てた。


 玄関に置いた猫の死骸の入ったごみ袋を見た。ごみ袋越しに異臭が鼻を突いた。


 高倉は玄関で靴を脇に退かせ猫の死骸の入ったごみ袋を開けると、中身を段ボールの中にひっくり返して入れた。蛆が玄関に数匹落ちて来たので、高倉は表情を歪めた。


 猫の死骸に刺さったナイフを外し、持っていた新品のごみ袋に入れた。これは後で証拠品にしようと思ったのだが、一瞬考えた末にやはり猫の死骸と一緒に埋める事に決め、ナイフの入ったごみ袋を畳んだ。これを持っていても動物虐待を疑われる証拠になりかねないと判断したからだ。


 札幌では刃物は指定ごみ袋で捨てるのだが、以前出したごみを何者かに盗まれた事を思い出し、高倉は山に埋めようと決意した。高倉はもう一枚の新品のごみ袋に段ボールに入った猫の死骸とナイフの入った袋を一緒に入れると、袋を縛り玄関に再度置いた。落ちて来た蛆を掃除し、はめていたゴム手袋を捨て、再度念入りに手を洗った。床に置いたニットの手袋をはめ、玄関に置いたシャベルを持ち、雪かきをしに再度外に出た。






「そろそろ行こうか。雪が積もっているから遅れるかもしれない」高倉は車の雪かきを終え居間に戻ると、笠木を見て言った。


「分かった。いつも送ってもらってごめんね。ありがとう」笠木はそう言うと、壁に掛けてあったコートを取り着ていたパーカーの上に羽織って、こたつの上に置いてあったノートパソコンを鞄の中に入れ、外出する支度をした。


 高倉はシャベルと猫の入った袋を持ち笠木と一緒に外へ出て、マンションの駐車場に停めてある高倉の持っている黒い車に乗った。車は嫌がらせもあるし維持費もかかるので手放す事を何度か考えたが、札幌の中心部から少し離れたこのマンションでは車は必要で仕方がなかった。


 高倉は札幌駅前で笠木を降ろすと、車の中に置いていたCDを再生した。


 後部座席に積んだ猫の死骸を山へ運んだ。高倉は弟を思い出した。

 弟もこうして女性を山へ運んでいた。


 自分も運んだ。高倉は吐き気がした。


 笠木は猫に花を買ってあげて欲しいと高倉にお願いしてきたが、高倉は花を買わなかった。面倒だったし、何より埋葬など意味がないと思ったからだ。もう死んでいるものには気持ちなど存在しない。


 高倉は花を買いたいという気持ちの理解が出来なかった。


 高倉は適当に人気のない山へ向かうと、猫の入った袋を埋めた。雪の積もった地面を掘るのは苦労した。


 高倉は自宅に戻り自身の机のチェアに座ると、ため息を吐いた。何故朝からこんな面倒な事をしなければならないのか。毎朝早く起きて共有スペースの掃除をする事に疲れていた。笠木に気を使う事にも正直疲れていた。


 高倉はノートパソコンのモニターを見た。ある大型掲示板のやり取りが映されている。これは高倉の自宅の情報や、写真や悪口などが拡散されている掲示板の一つだった。弟の起こした事件からもう一年以上経つが、書き込みが削除されてもまた書き込まれ、未だにネットでは様々な情報が飛び交っているし、自宅への嫌がらせも終わらなかった。


 高倉はその掲示板にとあるサイトのURLを貼り付けた。そしてその掲示板に書き込んだ。


 “高倉の事件の被害者遺族の方のための自助サイトを作成しました。こちらのサイトを宜しければお使いください”


 高倉はその自身の作成したサイトがはたして使われるか疑問に思ったが、何人かサイト内の掲示板に集まって来るのを見ていた。これで嫌がらせの犯人を特定もしくは、嫌がらせを落ち着かせる事が出来るのではないか。


 高倉の作成したサイト内の掲示板は自助用、愚痴用と二つに分けている。高倉はその自助掲示板に書き込んだ。


 “私は管理人です。みなさんここで気持ちを吐き出したり、助け合いましょう。よろしくお願いしますね”

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